バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム

ホイットマンの“アメリカの歌声が聞こえる”は、職工や大工、石工、船頭や水夫、靴屋や帽子屋、森で木を切る人も農夫も、母親、若妻、娘、若者たちも、みんな自分たちの世界を力強く美しく歌っている、といったもので、人々が地道に生きる姿をほがらかに描いた詩である。

ホイットマンの作品はアメリカの叙事詩といえるものだが、彼自身は奴隷制度に反対しながらも、奴隷廃止運動には同調しなかったし、禁酒運動の賛同者でもあった。バーボンエッセイのタイトルに、何故禁酒をすすめた詩人の一篇にインスパイアされたのかと思われるだろう。理由は彼の作品だけでなく、生き様もすべてをひっくるめて19世紀のアメリカを物語っているからだ。

興味深いのは1860年6月、日米修好通商条約(1858)批准書交換のために滞在していた77名のサムライ、万延元年遣米使節団がニューヨークのブロードウェイを行進する姿をホイットマンが見物していたことである。このとき極東からやってきたサムライを一目見ようと50万人が集まったそうだ。当時のニューヨーク市においては史上空前のイベントであり、大歓迎だったという。

ホイットマンは日本人をはじめて見た感動を詩に書き、“使命の捧持者たち”(後に改題されて“ブロードウェイの行進/A Broadway Pageant”)と題してニューヨーク・タイムズに寄稿した。彼はおそらく武士道精神を感じ取ったのであろう。人種的な偏見はまったくなく、思慮深く崇高なサムライの姿を描き、古くて尊いアジア、といった表現さえしている。

余談だが使節団はアメリカ軍艦ポーハタン号で海を渡った。咸臨丸は随行船であり、あくまで遠洋航海実習が目的だった。よって勝海舟や福沢諭吉は77名に含まれておらず、ワシントンやニューヨークを訪ねてはいない。

日米修好通商条約により日本では政争が起こり、安政の大獄、使節団がアメリカへの航海中に桜田門外の変、尊王攘夷運動の激化と大政奉還、王政復古、そして内戦へとつづき、明治(元年は1868)という新時代に向かって加速する。

アメリカではサムライ使節団が帰国した翌年1861年3月にエイブラハム・リンカーンが16代大統領に就任。4月には南北戦争がはじまる。

日米とも国家が大きく揺れ動く時の流れにあった。

南北戦争時、ホイットマンは北軍を鼓舞する詩を書いた。65年4月の終戦直後にリンカーン大統領が凶弾に倒れると、その死を悼んで大統領に捧げる詩を発表している。


21世紀のいまも愛される名作が誕生した時代はバーボンが広がりを見せはじめた時代であり、混乱の時代でもあった。第1回ケンタッキーダービーが開催され、「ミントジュレップ」が飲まれ、『ケンタッキーの我が家』が歌われるようになるまでもう少し時を待たなくてはならない。

(第31回了)

for Bourbon Whisky Lovers