バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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ザ・ボーイズ・オブ・サマー

いる。彼もまたサマーゲームに熱中する少年時代を過ごし、やがて夏の少年たちが憧れるMLB伝説の大スターとなっていった。

本名ジョージ・ハーマン・ルースJr.は7歳から19歳でプロ契約するまで、職業訓練学校と孤児院を併設したセントメリー工業学校で過ごしている。母親が病弱で、1日20時間も働く酒場経営の父親は、幼いくせに喧嘩に明け暮れる手に負えない息子を全寮制の学校に放り込むしかなかった。母は彼が15歳のときに他界した。

ルースはこの学校で洋服の仕立てを叩き込まれたが、一方で教官のひとりマシアス神父からベースボールで鍛えられた。彼がテーラーよりもベースボールプレーヤーの道を選んだことは、アメリカ人にとって祝福すべき幸運となった。

1914年2月、マイナーリーグのボルチモア・オリオールズ(現MLBのオリオールズとの継承関係にはない)のオーナー兼監督、ジャック・ダンがルースをスカウトする。ダンがルースをあまりにも可愛がるので、周囲からルースは「ダンズ・ベーブ」(ダンの赤ちゃん)と呼ばれはじめる。これがニックネーム、ベーブ・ルースの由来である。

大き過ぎるベーブにはウイスキーボトルを与えなくてはならない、とは、まだこの時は誰も気づいていなかった。その年の7月、レッドソックスにトレードされメジャーデビューを果たし、翌年、ワールドシリーズ後に父親に新しいバーをプレゼントする。

現代のアスリートでは考えられないことだが、いつのまにか酒と葉巻がルースにはつきものとなった。ただし子供たちのいる前ではどちらも決して口にしなかったという。遠征中の列車の中ではウイスキーを飲み、葉巻をふかした。ところが駅に近づくとぴたりと止め、姿勢を正したという。

行く先々の停車駅にはベーブ・ルースをひと目見ようと集まった少年ファンが鈴なりになって待っていたからだ。彼は少年たちの歓迎に常に笑顔で応えた。そして列車が駅から遠ざかっていくと、またおもむろにウイスキーをひと口啜るのだった。

ニューヨーク・ヤンキースにとっての幸運は、ルースのレッドソックスからの移籍が1920年だったことだ。この年に禁酒法が発効されている。1934年まで彼はヤンキースで伝説となる活躍をするのだが、禁酒法が撤廃されたのは前年の33年である。

ルースの黄金時代、酒場での時を過ごすことがままならない時代、代わりに人々はホームランに酔うことができた。誰もが特大アーチに虹を見た。

 

さて、今シーズンも日本人メジャーリーガーは活躍することだろう。そして夏の少年たちは憧れのプレーヤーを目指し、ボールを追う。我々大人たちは眩く煌めくバーボンソーダの泡に沸き起こる歓声を重ね、夏空に伸びる白球のビームを想い描く。

第2回了

for Bourbon Whisky Lovers