しかしながら米墨戦争(1846〜1848)のさなかカリフォルニア共和国樹立支援に奔走するが、メキシコの領土がアメリカ合衆国の手中に収まると、合衆国側に簡単にコントロールを奪われてしまう。さらには1848年、彼の領地内で使用人が砂金を発見したのだった。
サッターは秘密裏に事をすすめていくつもりだったが思惑通りには運ばず、たちまちにして金発見の情報は広まる。一攫千金を狙う者たちが押し寄せて、彼の築き上げたすべてを破壊していく。こうなると広大な土地の管理などできるはずもない。
1849年、ゴールドラッシュと同時にサッターの夢は終わる。アメリカはもちろんヨーロッパから、かつてのサッターのような人々が大挙して金鉱への拠点となるサンフランシスコに集結した。彼らは一括りにフォーティナイナー(49年者)と呼ばれた。この言葉は、いまもプロフットボールのチーム名に残る。
一方で皮肉にもサッターに変わり、ジャーマン・アメリカンが活躍する。サッターとの関係もあっただろうがドイツ系のたくさんの人々がサンフランシスコに集まり、生活必需品の商いをはじめた。初期のサンフランシスコはドイツ人の町であったとする文献もある。実のところ、金採掘の連中よりも地道な商売をした彼らがいちばん儲かったのである。
ゴールドラッシュ時に、金採掘中に水に濡れても破れたりしない丈夫な作業着が生まれた。このジーンズの原型を1853年にサンフランシスコで売り出したのはドイツ移民のレヴィ・シュトラウス。Levi’sのはじまりである。
さてゴールドラッシュに湧く西部からケンタッキーに目を転じよう。
ここではジャーマン・アメリカンのビーム家がバーボンウイスキーづくりを地道におこなっていた。2代目デイビッド・ビーム(1802〜1854)が東部のライウイスキーに対抗しようと懸命だった。
彼は西へと拡大するアメリカを見つめながらバーボンの将来的成長を読み、蒸溜所拡張、事業展開拡大をはかっている。そして亡くなる前年の1853年、後にナショナルドリンクとなる「オールド・タブ」を発売した。
バーボンが大きく成長するきっかけは1861年からの南北戦争にある。ケンタッキーはノブクリークの地で幼少期を過ごした第16代大統領リンカーンの戦略も見逃せない。そして大陸横断鉄道に象徴される鉄道網の伸張による流通の発達もある。バーボンはアメリカの成長とともにあったのだ。
いま、こうした時代に想いを巡らせながら飲むのにふさわしいウイスキーはクラフトバーボンである。とくに「ノブクリーク シングルバレル」。9年超もの長い熟成を経たシングルバレルは、オーク樽やアーモンドのような香ばしさとともにキャラメル様の濃厚な甘みでこころを満たしてくれる。
現ビーム家当主、7代目フレッド・ノーが選び抜いた一樽は、鉄道網の充実とともに疲れを知らぬかのように走りだし、躍動しはじめたアメリカ青春時代の力強さを彷彿させる。
(第27回了)