第22回「ジャーマン・アメリカン」からのつづきです。
バーボンウイスキーはオハイオ川の港から船に積まれ、合流するミシシッピ川を下り、現ミシシッピ州ナッチェス(ナチェズとも)やルイジアナ州ニューオーリンズへと運ばれていった。
ナッチェスは原住民ナッチェス族の名を地名にしたもので、1716年にフランス人によって開拓された。ミシシッピ川の舟運で栄え、19世紀半ばからは綿花やサトウキビの大プランテーションにより港の重要性はさらに高まった。経済的な衰退がはじまったのは20世紀になってまもなくのことで、拡大していく鉄道網に輸送が転換されたからだ。
ミシシッピ川の河口に位置するニューオーリンズも1718年にフランス人によってつくられた町である。1722年には広大なフランス領ルイジアナの首府となっている。New Orleansのスペルからわかるように、フランス人がルイ15世の摂政だったオルレアン公フィリップ2世にちなんで名づけたもので、当時の町の名はラ・ヌーベル–オルレアンであった。
ニューオーリンズは1763年パリ条約でスペイン領になる。それでもフランス系住民が多数派であり、フランスの香にあふれていた。
アメリカ東部はイギリスの植民地だったが、17〜18世紀にかけての中西部一帯はフランス領ルイジアナである。管轄地域はミシシッピ川流域のほとんどを占め、北の五大湖からは南はニューオーリンズのメキシコ湾に至り、東はアパラチア山脈から西のロッキー山脈までという広大なものだった。
バーボンがブルボン朝に由来するように、ケンタッキー州ルイビルはルイ14世にちなんでいる。フランスの痕跡はいたるところにある。そしてビーム家をはじめ、ジャーマン・アメリカンたちがアイルランドやスコットランドの移民たちとともにバーボンウイスキーをつくった。多民族国家と謳われるが、歴史の一片だけをすくいとっても国家を成す前の多様な顔を知る。
さてミシシッピ川のバーボン輸送に話を戻そう。船といっても蒸気船が発達するまでは祖末な木造船で、かなりの冒険行でもあったらしい。ナッチェスやニューオーリンズでバーボン樽を荷揚げするのだが、ついでに船を解体してその木材まで売ってしまうという効率の良い商売だった。
帰りはどうするのか。これがとても興味深い話なのだ。そこで馬を買う。ニューオーリズがスペイン領になってから、スペインの商人たちがアラブ馬を運び入れていた。ニューオーリンズやナッチェスで良馬を入手し、陸路それにまたがってケンタッキーへと帰っていったのだ。