前回第22回「ジャーマン・アメリカン」からのつづきです。
アメリカで最初に穀物を原料にした蒸溜酒を製造したのは、現在のペンシルヴェニア州とメリーランド州の州境あたりの地域に移住したドイツ語圏のスイス出身のメノー派教徒だったという説がある。1600年代末とされる。
ただし蒸溜酒製造に関しては、1640年にオランダの植民地だったニューアムステルダム(1664年イギリス植民地となりニューヨークとなる)のスタテン島に蒸溜所が建設され、ジンやブランデーをつくりはじめたそうだ。商業的には1660年代にはニューイングランド近辺でラムの生産がはじまっていた。
あくまで個人的な見解として、メノー派教徒の蒸溜酒製造説はライウイスキーのはじまりだったのではないかと推測する。ドイツでは昔からシュナップス(蒸溜酒)がつくられていた。いまも飲まれているコルン(Korn)は小麦やライ麦を原料にする蒸溜酒であり、ドイツ語圏の人々がライ麦から酒をつくるのは自然の流れではなかろうか。
ドイツ語圏からの最初の移民の(ジャーマン・アメリカンとして包括されている)歴史的記録は1683年である。デュッセルドルフから少し離れたクレーフェルトという小さな村からクェーカー教徒の13家族がアメリカへ渡ったということだが、それ以前からイギリス人に随行してドイツ人が渡ってきていたともいわれている。
記録に残る13家族はペンシルヴェニア州にジャーマンタウンを建設する。開拓がすすんでいくうちに街はフィラデルフィアという名称となった。彼らはすぐにビールの醸造をはじめたそうだが、おそらくライウイスキー蒸溜に着手するのも早かったであろう。
というのは場所である。1623年にイングランドからやってきたピューリタンたちはマサチューセッツ州やニューヨーク州に住みついた。その後から渡ってきたスコットランド人やアイルランド人はピューリタンとは宗教的に合わなかった。とくにマサチューセッツへは1630年から12年間くらいにわたりピューリタンの大量移住があり、いきなり彼らはアメリカ最初の禁酒運動を繰り広げているから後続の者たちと肌が合うはずもない。
だから後の移民者たちはペンシルヴェニア、メリーランド、ヴァージニアといった地に住むようになったのだ。スコットランド出身やアイルランド出身、そしてドイツ出身である。他にウェールズ出身もオランダ出身もいたであろう。先述したメノー派教徒も含め、このうちの誰かが「ライ麦を使って蒸溜酒をつくろう」と声をかけ、あるいは「俺がつくった」となったのではなかろうか。いろんな国の移民たちがウイスキーをつくったのである。