バーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえるバーボンウイスキー・エッセイ アメリカの歌が聴こえる

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オールド・バーボン・ストーリー

はっきりいえば、彼らのルイビルもジョージタウンもかつてのバーボン地域には属していない場所である。

移民がケンタッキー地域に定住しはじめたのは1770年代半ば頃になるそうだ。当時のヨーロッパからの移民たちの生活ぶりからすれば、定住してすぐに蒸溜をはじめて当然ではなかろうか。1785年にウイスキーづくりをはじめたジムビーム創業者(創業年は1795年)はメリーランド州から現在のネルソン郡バーズタウン近郊に入植したようであり、その頃にはトウモロコシからウイスキーをつくるのは当たり前のことになっていたのかもしれない。そしてバーボンの王家であるビーム家の第一歩でさえ、バーボン郡とはかけ離れた場所なのである。

1784年、オハイオ川河岸のバージニア州メイズビル(現ケンタッキー州メイソン郡メイズビル)に港が開かれた。オハイオ川はやがてミシシッピ川に合流し、ルイジアナ州ニューオーリンズ、メキシコ湾へと至る。メイズビルはバーボン郡に属すことになり、ケンタッキー港湾都市として最初の重要拠点となった。その後川下にいくつかの拠点がつくられていくことになるのだが、ウイスキーやタバコ、麻などの特産物の積み出し港として知られ、これがバーボンウイスキー生産地としての姿を確立していくきっかけとなる。

この頃のアメリカ東部はやはりライウイスキーである。バーボンウイスキーは西部開拓と同様に、オハイオ川、ミシシッピ川を通じて西へ中南部へと販路を築いていくようになる。

こういう説も考えられる。はじめに誰かがかつての広大なバーボン地域のなかでウイスキーをつくったとしても、バーボン郡でつくられたウイスキーだからバーボンウイスキーと呼んだのではなく、バーボン郡の港から積み出したからバーボンウイスキーと呼ばれるようになったのではなかろうか。

ここまでいろいろと述べてきたが、歴史的背景を調べつくしていない段階で語るのをおゆるしいただきたい。

当時は中央部には広大なフランス領ルイジアナがあった。ニューオーリンズはスペイン領となっていたが、街にはフランスが築いた香りが色濃くあった。トーマス・ジェファーソンが独立戦争に加担してくれたフランス・ブルボン朝に感謝してバーボン郡を誕生させたこともあり、ルイジアナ植民地では樽に刻印されたバーボンの文字のイメージはとてもよい。ライウイスキーと区別する必要もあっただろうが、コーンウイスキーと刻印するよりもバーボンと名乗ったほうがよかった。

メイズビルから積み出されるバーボン樽には1840年くらいまで“Old Bourbon Whiskey”との刻印があったという。郡の分割がすすんでいくなかにあって、バージニア州時代からつづく“古き良きバーボン(ブルボン)の地のウイスキー”との意味を含んでいたのではなかろうか。

(第25回了)

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