2008年4月17日
#142 中村 直人 『僕はサンゴリアスが大好きです』-2
◆サントリー初の100試合
—— 日本選手権の決勝のジャージ授与の時だけ、3番のジャージは中村コーチから池谷選手に渡されましたね
清宮さんの仕業です。直前に言われました。清宮さんはそういう心遣いが出来る人ですね。選手のためのジャージ授与なのに、僕に対して心遣いというのはおかしな話ですが、僕もサントリーの3番に対する思いは強かったですし、「お前渡せよ」とさりげなく言ってくれて、あぁいう演出をしてくれたことは嬉しかったですね。
—— 選手を引退する時の寂しさはどうでしたか?
今でこそ34歳という年ではまだ現役の選手もたくさんいますが、当時は最年長で、「オヤジ頑張ってるな~」なんて言われながら頑張ってました。ダントツで最年長でした。僕の下が長谷川慎で4つくらい下ですから。よそのチームにはちらほらいましたけどね。しっかり考えた上で、自分の体とも気持ちとも相談した上で出した結論でしたから、寂しさはありませんでした。
—— 最後の方はいわゆる"中村式"での出場だったんですか(笑)?
中村式...、実際は2分だけの出場というのは1回だけなんですよ。まぁ2分って言っておいた方がおもろいですけど、中村式は最後の3年間ですね。最後の3年間でスタメンは1試合だけです。ちょうど100試合目の時ですね。
—— 100試合目は印象に残ってますか?
覚えてますね。新聞とかにも載せてもらって、すごく嬉しかったですよ。サントリーでは初の100試合達成でした。
—— 100試合の中で特に印象に残ることは?
初優勝ですね。入社4年目です。坂田(正彰)が1年目の時です。嬉しかったですね。前に話したところに戻ってきましたが、この辺りで、夕飯でビールを飲んでいた時代から変わって、ストレングスのトレーニングが入ってきて、より専門的な練習やトレーニングになってきた頃でした。清宮さんが3年間やった後、永友キャプテンで土田監督の1年目です。
◆天使のお陰で続けることが出来た
—— 天使を見つけた(結婚した=中村直人「いっぱい笑える人生-3より 」時の話を聞かせてください
天使と思って付き合ったら、女神でした。16年間の長きにわたり、苦労をかけることが多かったですけれど、体調管理も含めて彼女のお陰でここまで続けることが出来たと思います。
—— 天使は社会人になって見つけたんですか?
出会ったのは学生時代です。京都で見つけました。彼女は大学を卒業して長野に帰ってOLをしていました。
—— 最後に、これだけ長い間携わって来たサントリーラグビー部を振り返ってきましたが、語り残したことはありませんか?
僕はサンゴリアスが大好きだということです。サントリーラグビー部のあの仲間が大好きです。ほんまにええかっこ無しで好きです。よそのチームでもみんな同じようなことを言うと思うんですが、僕にとってはサントリーの仲間、サントリーのラグビーが大切です。会社の人が応援してくれるのも嬉しかったです。
あともう1つ、これを読んでくれている同期に「同期の話をしろ」と言われているので同期の話を1つします。僕の同期は6人いて、フォワードが僕と明治の佐藤豪一という当時の大学ラグビーのスターです。プロップなのに少し髪の毛を茶髪にして、ピンクのサポーターをしていました。今はもう髪の毛もツンツルテンになっていたりで(笑)、今はサントリーを辞めて上野で不動産業をしているそうです。もう1人フォワードで福岡大学出身の広野(健吾)というのがいて、今は福岡支店で営業してます。彼は清宮さんとポジション争いをしました。
バックスは尾関(弘樹)という、去年まで日体大の監督をしていた人です。それから吹田(長生)というフィットネスコーチをしたのがいました。現役の時に膝の大怪我をして、それでもラグビーにすごく情熱があって、コーチになりました。もう1人は吉雄潤といって国学院久我山から早稲田という王道を通ってきた人です。それとドクターの高澤祐治が同期ということで、年に1回やる同期会に来ています。
入社して最初の2週間くらい、箕面(大阪)のトレーニングセンターで研修をするんですが、僕と広野以外はみんな高校代表だったり、学生日本代表で、いわゆる学生時代のスター選手でした。最初は僕らなんて「同じラグビー部でも喋ってもらえないんじゃないか」なんて同志社時代の仲間から言われていました。ラグビーのレベルも全然違いましたね。
研修中もトレーニングセンターの近くで走ることになったんですが、僕はそれがすごく嫌でした。そしたら佐藤豪一という結局いちばん早く辞めた奴に「お前やる気ないなら辞めちまえ」と言われました。こんな奴らと一緒にやっていけるのかと思いました。
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