2007年8月27日
#103 中村 直人 真打ち登場! 『いっぱい笑える人生』 - 3
◆美学・芸術学専攻
—— いよいよ大学生になります。大学はどのように選んだんですか?
親父の母校ということで決めました。ラグビーの推薦で入りました。高校2年生くらいからは、早稲田、関東学院、慶応、明治、特に早慶戦に憧れていました。高校2年生の時の進路相談で「早稲田か慶應に行きたい」という話を、先生と2人きりの教室でしました。すると、先生が「・・・ほんで、どこ行きたいの?」と聞き返してきました(笑)。「そうじゃなくて、真剣な話をしようと」いうような雰囲気で言われました(笑)。「そんなんええから、進路相談の時間だから、夢語る時間じゃないから」って。
同志社大学は家からも近いし、ラグビーも強いし、親父の仲間もみんな同志社だったので、すごく身近な学校でした。当時はちょうど3連覇したりしていて、まだ強豪の名残りがありました。
—— 大学での生活はどうでしたか?
僕は同志社大学の文学部の美学及び芸術学の専攻でした。興味があったわけではないんですが。葛飾北斎とか、4年生の時はラファエルなんかの勉強して、5年生なるとき(4年間で単位不足)に、先生に「あまり背伸びして無理すんな」と言われ、身近な浮世絵の勉強に切り替えたりしました。それでも結局、中学生の作文みたいな論文を書いた記憶があります。
入学試験の時に、スポーツ推薦の人たちには一般入試と同じ筆記試験とその翌日に面接試験があったんですが、筆記試験の問題がもう全然。さっぱり分かりませんでした。英語の問題で劇場での会話の問題が出たんですが、"theater"(シアター)をセーターと読んでいたせいで、後の話に全くつながらないような状態でした。家に帰って「これじゃ無理や」と思い、浪人して勉強するタイプでもないし、家も酒屋だったのでお寿司屋さんかステーキ屋さんでもやろうかと考えていました。寿司もステーキも好物だったからです。
それでも一応、次の日の面接試験に行きました。あとでラグビー部で一緒になった奴に言われたんですが、僕を見て「なんやこいつ」と思ったそうです。銀縁眼鏡にタコ刈りで、前から見たらピシッとしてるのに、すれ違って後ろから見たらシャツがベローンと出ていて、「こいつ落ちるな」とみんなが思っていたそうです。そんなことを思われていたのも知らず、面接で一緒になった人を集めて、「お前無理やろ?俺も無理だから一緒に落ちようぜ」と言っていたそうです。「なんて失礼な奴なんだと思った」といまだに言われます。
面接の先生は美学及び芸術学の先生でした。「なぜ、美学及び芸術学の専攻を選んだのですか?」と言われ、「いや、絵が好きで、小さいころから絵が身近にありました」なんて全く本当でないことを言いました。すると「どんな絵が好きですか?」と質問されました。僕は「天使様の絵が・・・」と答え、まだそこで止めておけばよかったのに、「アニメのフランダースの犬の最終回に出てきた天使」と言ってしまいました(笑)。面接官も「高校生らしくてええ」なんて訳の分からないフォローをしていました。最後に「君、京都弁キツイね~」なんて面接と全然関係ないことまで言われました。
◆同志社に入ってよかった
—— 美学及び芸術学を学んだ成果は今もどこかで役に立ちますか?
詳しいことは言えませんが、ラグビー部の打ち上げなどで披露する「バイオリンを演奏するネタ」などに活かされていますね(笑)。そういったいろいろなネタは大学時代に習得しました。同じ学科には漫画家を目指している人やデザイナーを目指している人、歌手を目指している人、いろんなジャンルの人が幅広くいる中で、唯一ラグビー部の僕だけがポツンといるような状況でした。非常に変な存在だったと思います。
—— 学生時代に"天使"に会うことはできましたか?
学生時代には会いませんでしたね。天使には会社に入ってから出会いました。
—— ん?それは違う意味での"天使"ですね(笑)?
あ、"好きな天使の絵"ということですか?学生時代に会うことはありませんでしたね。今、最初は「ラグビーという天使に会いました」と言おうと思ったんですが、言わなくて良かったです(笑)。
—— 大学でのラグビー生活はどうでしたか?
本当に同志社に行ってよかったです。同志社に行ってなかったら試合にも出ていたか分りませんし、もたなかったと思います。同志社は4年生まではすんなりいけるんですが、単位が足りなかったりすると卒業はさせてもらえないというシステムで、5年目に卒業しました。
—— 試合には何年生から出ていたんですか?
2年生から出させてもらいました。2年生の時に試合に出たのは僕の他にもう1人だけでした。その時は体重も92~93kgまで絞れていました。1年生の頃は全然お呼びでない感じでしたね。スポーツ推薦で7人入ったんですが、セレクションで入学した生徒は"セレ生"と呼ばれていました。また、当時140人位の部員がいたので、1軍、2軍に入る人をシニア、3軍に入る人をジュニアと呼んでいました。練習時間も分けて行っていましたが、1年のうちに僕以外の6人は早々シニアに上がっていました。僕1人だけジュニアで、ジュニアの下のコルツというカテゴリーに入って、肩身の狭い思いをしたこともありました。
◆スクラムばっか組んでいた
—— 練習はきつかったですか?
プロップ的にはきつい練習でしたね。ひたすらスクラムを組んでましたね。神戸製鋼へ行って日本代表にもなった広瀬さんや、ヤマハの岡田さんと3人で組ませてもらってたんですけど、まぁスクラムばっか組んでましたね。練習は「準備運動、スクラム、整理運動」でしたね。3~4時間ですかね。
—— 練習がきつくて辞めたいと思ったことはありますか?
それはなかったですね。楽しかったですから。きついのはキツイですけど、しんどい練習以外は楽しかったです。
—— 寮生活でしたか?
1年生の時は寮でした。僕は家から近いので寮に入らなくても通えたんですが、ジャニーズの合宿所の話とかを聞いていて、合宿所というものに入ってみたくて入りました。まだできて2年目の奇麗な合宿所でした。入ったらやっぱり悪い先輩がいて、なかなか授業に行かせてくれなかったり、いろいろ誘って連れてってくれたりして、僕は誘いを断らない方なんでついていってしまいました。4年生で卒業できず5年生になった原因も1年生のスタートで失敗したことが大きいんです。全然単位も取れなくて、寮にいたらダメだと思って家から通うようになりました。
それでもやっぱりラグビー部の仲間と一緒に練習したり遊んだりするのが楽しかったです。練習もしんどい練習もありましたが、1人じゃなく、一緒にしんどい練習をしている仲間がいましたし、「この1週間はスクラム組みまくります」と言われてきつい1週間を過ごしても、1週間終わった時にみんなと「終わったな」と言って、抱き合ったりするのがなかなかかけがえのないないものでした。
—— ラグビー以外で楽しかった思い出は?
大学に行ったらお酒を覚えましたからね。やっぱりみんなで飲みに行ったりするのが楽しくて、思い出は飲み会の思い出がいちばん多いですね。
(続く)
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)