SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2007年10月31日

#113 中村 直人 真打ち登場! 『いっぱい笑える人生』 - 4

◆見ていてください

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—— 昨シーズンからスタメン発表のミーティングを何度も見てきて、ラガーマンはよく泣くと思います。そしてコーチ陣のもらい泣き。その辺の心境は?

だから辞められないんじゃないですか?あの話(開幕スタメン発表のミーティング)はちょっとしばらくは思い出し泣きできるくらいですね。涙を見せた尾崎(章)はフォワードなので、頑張っていたのも横で見ていましたから。今年で7年目、もう30歳ですし、大学(同志社)の後輩ですし・・・。

—— 試合前にはロッカールームでリーダーが鼓舞して盛り上げますが、それはモチベーションを上げるということの他に、怪我をしにくくなるなどの効果があるのでしょうか?

どうなんでしょうね、そこまであまり深く考えたことはありません。

—— 相手にぶつかっていく恐怖感は必ずあると思うんですが、それを失くす意味はありますね

ゆるい気持ちじゃやっていけないスポーツだと思います。恐怖心はやはりありますが、あのロッカールームで気持ちを高めて、みんなで向かっていくんだ、ポジティブにやってやるんだ、という気持ちになりますね。

ラグビーにこうやって長いこと関わってきて、やはり思うのはあの瞬間の気持ちが他のスポーツにはない、特殊な競技特性からくるものなのかなと思います。高校の時、試合前のミーティングで泣いたときに、みんなに「突然泣き出すからビックリした」と言われたことがあります。高校の時なんで、ロッカールームなんかなくて、グラウンドの隅っこに集まってミーティングをするんですが、バスケ部やサッカー部の人や応援の女の子たちが見てびっくりしていました。

—— 「SPIRITS OF SUNGOLIATH #101真打ち登場!『いっぱい笑える人生』 - 2」の中で、天国の先輩に「待っててください」というコメントがありましたが、あれは「見ててください」の間違いでしたね

前々回の内容ですね。高校時代に亡くなった先輩に毎年お線香をあげに行くという話ですが、それが、掲載されたのを見ると、手を合わせながら「待っといてください」というコメントになっていたんですが、一応まだやりたいこともたくさんあるので、亡くなった人に「待っといてください」とは言いませんね(笑)。「見ててください」の間違いです。そこのところよろしくお願いします(笑)。ここがいちばん大事ですから、「待っててください」と「見ていてください」じゃ大違いなので。

◆負けてるのにチャレンジャーになりきれない

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—— 大学に進んだところまで、前回のお話はいき進みました

大学はセレクションで入ったんですが、当時関西で同志社大学はとても有名でした。神戸製鋼の現監督の平尾(誠二)さんや、サントリーの前監督の土田(雅人)さんがいて、未だに破られていない大学3連覇を成し遂げていました。上には大八木(淳史)さんなど素晴らしい先輩がいて、同志社大学の全盛期でした。そんな先輩方が卒業して3年後くらいに僕が入学しました。その頃にはすっかり弱くなっていて、向かうところ敵なしだったチームが中堅のチームにも危うい試合をするような状態でした。

—— 強かった時の同志社に憧れて入ったんですね?

そうですね、その後日本代表になる選手ばかりいたチームでしたから。頭の隅には早稲田、慶應という文字もありましたが、親父の母校ということもあって同志社に行きました。入学した時には強かった時代の先輩たちがみんな卒業していて、すっかり弱くなり始めていましたが、3連覇をしたという事実だけが残っていて、自分たちが3連覇したわけではないのに、自分たちは強いという勘違いのような自信というか意識がありました。結局関西リーグでは1、2年の時はかちましたが、3、4年の時は負けましたね。大体大、京産大にも負けました。

—— こんな筈ではないという感じでしたか?

そうですね、素直に受け入れることができませんでした。心のどこかで「同志社は強い」という意識が働いていたんで、自分たちは勝っていないのに、昔の先輩たちが残したものを勝手に勘違いして、負けているのにチャレンジャーになりきれない状態でした。

—— 4年までそんな感じでいってしまったんですか?

1年生のときには早稲田との決勝まで行ってるんです。すごくいい試合をして結局負けたんですが、清宮さんが2年生で、僕は1年生でスタンドから見ていました。国立競技場を見たのはその時が初めてでした。

—— どうでした?

感動しましたね。5万人のお客さん。テレビで見た国立だという感じでした。僕らに用意された席がコーナーのいちばん上の方の席だったんですが、今ではそんな席では感動もありませんが、当時そこから見たスタンドの斜面の急さとか、グラウンドの選手が米粒のようにしか見えない感じとか、とにかく驚いていました。周りの奴に「来年俺はここでやる」と言っていたそうです(笑)。何のあてもないのに。

—— 翌年はどうでした?

2年生の夏から試合に出させてもらいました。2年生で大きく3つに分けられていいたチームの中で、シニアに上げてもらいました。それまでは靴磨きなどの雑用でした。

—— 体は大きかったんですか?

ぽっちゃりしてましたね。今に比べたら小さいですが、体重はありましたね。

◆Aチームの奴が肉離れ

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—— シニアに上がれたきっかけは?

当時はオフシーズンがもっとあって、半年くらいしかラグビーをしていませんでした。春シーズンを5月一杯くらいまでやって練習試合などをして、試験と同時に6月から7月まで休みになるんです。試験が終わって8月のお盆からいよいよシーズンが始まるんです。その合宿から始まるんですが、現地集合で、行くとメンバー分けの紙が貼ってあるんです。僕はCチームに入っていたんですが、Aチームの同じポジションに同期の同志社高校から入った奴がいて、すごく悔しかったのを覚えています。Bチームは1つ年上の先輩でした。

その日は雨が降っていて、「本格的な練習は明日からやるから、各自走ったりしなさい」ということだったんですが、自主練を始めると、Aチームの同期の奴が走っていて肉離れをしたんです。僕は別の所でジョギングをしていたので何も知らなかったんですが、ホテルに戻ったらそいつが「山を降りる(京都へ帰る)」と言っていて、何とも言えない表情で持ってきたにんにくエキスとか栄養剤とかサプリメントを僕に持ってきて「直人に託すから」と言われました。まだ事態がつかめていなかったんですが、とりあえずその薬の多さにびっくりしました(笑)。翌日自動的にBチームに上がっていました。当時の監督はプロップ出身の監督で、とにかくスクラムの練習しかしませんでした。2週間の合宿中ほとんどスクラムしかしませんでした。

その年は同志社の何周年かの記念年で、オール同志社でのイングランド遠征がありました。強かった時代の土田さん、平尾さんも含めて遠征に行くことになっていました。合宿中にそのイングランド遠征のための合宿もあって、平尾さんや土田さんもやってきて、オールとスクラムを組むことになったんです。そのときに僕はすごく調子が良くて、ここで頑張ったら上に上がれるというのも分っていたんで、必死でスクラムを組みました。とにかくここで押さなきゃいけないという気持ちで頑張った結果、監督も分り易くて、その日の練習後にAに上がりました。そのときは興奮しましたね。合宿の最終日にAチーム対Bチームの試合があったんですが、練習試合用のAチームのジャージを着れただけで嬉しかったですね。

—— そのとき調子が良かった原因は何かあったんですか?

特になかったですね。しんどい思いして頑張ったっていうことだけは自信になっていましたね。今持っている感覚、ここをこうすればスクラムはこうなるというようなことは、まだ分かっていませんでしたからね。とにかく絶対いってやるという気持ちだけは持っていました。技術的に細かいことが分かるようになったのは、社会人になってからですね。練習中は泣きながらスクラムを組んでいた時もありましたから、こんなとこで負けたくないという気持ちはありました。目の前のワンチャンスにぶつかっていくだけでしたね。そのときに組んでいなかったら、Aチームには上がれていなかったかも知れませんね。

—— イングランド遠征には行ったんですか?

そのメンバーには入れませんでした。遠征はシーズンが終わってからなんで、2年生から3年生になる時でした。合宿からシーズンインして9月から関西リーグが始まるんですが、その前にプレマッチとして慶應との定期戦がありました。そこで初めて1軍のファーストジャージを着させてもらって、自分自身すごく変わりましたね。その前の1年生のときにはバケツ持ってロッカーの外に漏れ聞こえる「Who are we?」を聞いて、ロッカールームの前でロッカー内の選手と一緒に泣いていました。そのロッカーに入りたいという気持ちがすごく強かったですね。1年前のことも思い出しながら、ロッカールームの中にいた時の気持ちは最高でしたね。熱かったなぁ。

—— 慶應戦はどうでした?

慶應が低迷期だったこともあって、ちょっとした差で勝ったと思います。

(続く)

(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)
[写真:長尾亜紀]

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