2007年8月16日
#101 中村 直人 真打ち登場! 『いっぱい笑える人生』 - 2
◆本格的にやることはなくてもいつも近くにある
—— 前回、「柔道を始めて少し男らしくなったかも知れない」というお話まででした。男らしいスポーツに興味を持ち始めたんでしょうか?
そういう訳ではありませんでした。男らしくなったというより、ちょっと柔道が楽しくなって、楽しくなったというのは強くなったからなんですが、少し自分に自信がついて堂々とできるようになったんじゃないかと思います。
—— それまではケンカが強かったとか相撲とか、何か得意なことはなかったんですか?
そうですね、特にになかったですね。ようしゃべるくらいでしたね(笑)。
—— ということは、いちばんは「芸」ですか?
芸が得意になってきたのは中学生になってからですね。ですが、この間のインタビューで先生に呼ばれて芸をやったのが小学校の時と話しましたが、あれは中学生の時のことでした。
—— 柔道をやって自信になって、ということも影響したんでしょうか?
それはないです。もともと芸は得意というか、小さい時から調子乗りだったんで、子供の頃からです。ジュディ・オングみたいな衣装を母親に頼んで作ってもらったこともあります。レコードを買ってよく黒板の前で歌ってましたね。「魅せられて」ですね。
—— 柔道での思い出は?
細かいことはたくさんありましたけど、チームも学校も京都で強かったことです。一番思い出に残ってるのは西日本大会でベスト8まで行った時ですね。この大会は学校対抗ではなくチーム対抗の大会で、広島の「安芸の宮島」という大会がありました。僕のチームは京都ではいつも決勝まで行くような感じでしたが、西日本に行くと九州勢とかが出てきてみんな強くて、僕以外のみんなはボコボコ負けてしまい、僕だけ2回戦(ベスト8)の試合まで行って、みんな僕に期待なんてしてなかったので、勝ってるとは思わず、帰ろうってなった時に僕だけまだ試合やってるのに気づいたみたいです。道場の先生も「直人がまだ試合やってる」みたいな感じでみんなを呼んだみたいです。その大会に行ったことがすごく楽しかったし、西日本大会という大きな大会に行ったことはすごく大きな自信になりました。
—— 学校の柔道部はどうでした?
遊びでしたね。みんな同じ道場に行ってた子がそのまま学校の部活でも同じだったので、道場ではしっかりやるけど学校では遊んでましたね。道場は正武館(せいぶかん)という名前でしたが、今はもうないんじゃないでしょうか?総合道場でした。レスリング、空手、テコンドー、柔道などをやっていました。そこで練習を週4回ほどやってましたから、学校では全くやりませんでした。顧問の先生が僕たちより弱いような状況で、先生だけ白帯みたいな感じでした。
—— その頃はラグビーは全くやっていなかったんですか?
確か中学1年の時に1度だけ、ラグビースクールの夏合宿に行ったと思います。あとは自分の通っていた道場にプールもありましたし、そこで泳いだりしていました。ラグビーは親父がやっていたから、本格的にやることはなくてもいつも近くにあるような感じでした。中学でもラグビー部があればラグビー部に入っていたと思います。
◆高校入学、体重120kg
—— その後高校に進学しました、さて
柔道がやりたかったんですね、最初は。柔道をやろうと、全国レベルでは無名な高校ですが、京都では少し名の知れた強豪校が誘ってくれたので、行こうかと思っていました。親父と相談すると、親父はやっぱりラグビーをやってほしいようで、「ラグビーやれ」とは言いませんでしたが、子供ながらに「これはラグビーやれって言ってるな」と解釈して、理解して「ラグビーやります」と言いました。その時は暗い部屋で正座して話していました。
いざラグビーをやるとなると、ラグビーをやる高校に進まなくてはなりません。柔道であれば推薦でそのまま入れたのですが、ラグビーではそうもいかないので、受験勉強をしなくてはいけません。僕は柔道が楽しかったので道場も通いながらやりたかったんですが、ある日道場に行こうと思ったら道着がなくて、隠されていました。道場の先生に泣きながら電話して、「今日どうしても行けない」と言ったのを覚えています。先生は知っていたみたいですね、親が連絡していたんでしょう。柔道は中学3年生の頃にはすごく夢中になっていて大切なものになっていましたからね。
—— 高校はラグビーが強い高校を選んだんですか?
公立高校に行きました。僕の時代は京都の公立高校は学区制で、今の東京や大阪とは違って、小学校で高校が決まるような形で、何校かから選んで受験するような形ではありませんでした。たまたま僕の学区の高校は府立洛北高校といって親父の行っていた高校でもありました。ラグビーは大昔は強かったみたいですが、大体大の監督の坂田さん(好弘)もいました。僕が入った頃は、花園に行ったら20何年ぶりというような状況でした。当時は伏見工業、花園高校、東山高校、同志社高校という4つの高校が花園を争うような感じで、京都はその4校と下がそれぞれ争うような構図でした。
—— 中1の時の夏合宿からラグビーとは離れていましたが?
中3の秋くらいに柔道が終わって、高校入学するのが4月、その間に体重が120何kgくらいになってしまっていました。おかんと話していて、「京都に服がない」ということになって、両国まで買いに行ったこともありました。両国のライオン堂というところならあるって聞いて行きました。
◆上下関係で苦労したことはない
—— 身長はどれくらいあったんですか?
174、5cmだったと思います。
—— 中3の秋に柔道をやめた時は体重はどれくらいだったんですか?
85kgとかそんなもんでした。90kgはなかったですね。もしかすると85kgもなかったかもしれません。
—— どれくらい食べていたんですか?
1回の食事でものすごく食べるような感じではありませんでした。どちらかというと間食が多くて、それまでも同じくらい食べていたんですが、柔道をやらなくなって運動する量が極端に減って太ったんでしょうね。
高校に入ってデブで、柔道やっていたということもあって、「プロップをやりなさい」と言われて、入学式の直後には試合に出させてもらいました。
—— それだけ急激に体重が増えて、運動能力は落ちませんでしたか?
もともと別に俊敏なタイプではなかったですし、当時スクラムを組む上で要求されることもあまりありませんでしたから、ただ重ければよかったんじゃないでしょうか。今思い返すとそんな感じです。組み方だけ教えてもらってやったという感じです。監督がプロップ出身だったので、その点は良かったです。あっさりプロップにさせられました。
—— 試合に出てみてどうでしたか?
あまりはっきりは覚えていません。けどそんな簡単には押させてもらえなかったと思います。団体スポーツをやる楽しさを知ったということが大きかったです。先輩の中にもすごくすんなり入っていけたような感じでしたね。
—— 入学して、先輩からの圧力とかはなかったですか?
僕は柔道をやっていたころから、上下関係で苦労したことははほとんどなかったですね。それは今でもすごく影響を受けていると思います。上下関係が厳しいチームにはこれまで所属したことがないですね。それは見方によっては良し悪しがあると思いますが、僕の中では良かったんじゃないかと思います。
◆まっさらなジャージ
—— 1年の最初から試合に出て、高校時代はそれからどうだったんですか?
高校1年の時に近所の公立高校を集めた大会があって、そこでも試合に出させてもらいました。その後1年生の夏合宿の時期です。菅平での合宿の前に、学校の近所の旅館に宿泊して合宿をしました。当時は「水飲むな」という時代でしたし、朝も起きたら朝食も食べずに練習という時代でした。隠れてカロリーメイトを食べてたくらいです。
その合宿の3日目の朝の練習で事件が起きました。朝6時に起床して7時くらいから練習がスタートするんですが、ラグビーの練習ってだいたいフォワードよりバックスが先に終わるんです。でも、その日に限ってフォワードの練習が先に終わりました。そうするとバックスが終わるのをちょっと適当に動いたりして待ってなさいということで、先に上がらないでランニングをしてたりしていると、1つ上の先輩がフラフラと倒れてしまいました。昔のことなんで日陰で寝かせておけばいいというような感じで、救急車を呼ぶようなこともなかったんですが、その後意識が戻らなかったんで車で病院に連れて行ったんです。
僕らはそんな大ごとだと思わず旅館に戻って、昼飯の時間に集まりました。すると昼食の会場にコーチがやってきて、「残念ですが、亡くなりました」と告げました。この時のことは今でも覚えていて、僕の人生これまで38年の中ですごく大きな出来事です。信じられないってことありますけど、初めてこの時信じられないということを感じました。
この事故から部活も活動停止になってグラウンドも使えない日々が続いたんですが、この時期で部員のみんながすごく一致団結して、固まって、どうにかしてグラウンドを探そうとしてやって、朝の5時に近所の大学のグラウンドに忍び込んで学生だけで練習したりもしました。活動自粛は1カ月くらいの期間でしたが、そんなことを繰り返してしのいでいました。
やはり当時15歳という年齢の中学生にとっては、とても大きな衝撃でした。この出来事がきっかけで僕は3番になりました。その先輩がそれまで3番をつけていたんです。棺桶に3番のジャージを入れたので、秋の大会ではまっさらなジャージでした。試合前に遺影を持ってロッカールームに入って、3番のユニフォームを一度着せてあげて、試合に行ってくるぞと声をかけたりしていました。
そこから引退するまでずっと3番です。僕がこうやって今でもラグビーを通じて幸せな人生を送れているのも、どっかでこの先輩が守ってくれているんだろうなと思います。毎年7月か8月の暑い時に、線香持ってお参りに行ってます。こっちは所帯持ってもう頭もハゲてきてるのに、先輩の写真は中学生のままで、いつも「待っててください」って声掛けてますね。太ってて、コロコロしてて、すごく人気のある先輩でした。唯一の同じ中学の先輩でもありました。中学時代は目立たなくて地味な存在だったんですが、高校に入って人気者になっていて驚いたのを覚えています。
◆見えない力をもらった
—— 3番のユニフォームで試合に出てみてどうでしたか?
勝てなかったんですけど、すごくいい試合ができました。その年の春季大会で、同志社高校と試合をしたんですが、その年花園に出た同志社高校相手にいいスクラムが組めました。それはやはり自分の力だけでなく、見えない力をもらったような感じがあって、持ってるもの以上の力を発揮することができました。負けたんですけど、すごくいい試合で、春にあった差を詰めて、「洛北けっこうやるんちゃうか」という声が上がっていました。
その試合が初めて僕が試合の前に涙を流した試合で、興奮して前の晩も寝れないというような経験は初めてでした。ラグビーを長く続けた理由の一つなんですが、大きな試合の前の興奮した感覚というものは、ほかの何にも代えがたい感覚で、それがちょっと気の抜けた試合の時に同じような気持ちにしようとしてもできないんです。自分でコントロールできないくらい興奮するような試合というのは、舞台が整わない限りできませんでしたね。
高校の時の試合ではもう1つ、準々決勝を伏見工業と競った試合ですが、この試合では「今年は強い」と言われていた伏見工業相手に先制トライを取って、途中までリードしているような展開でした。その試合の前もみんなでロッキーのテーマを聞いてグラウンドに向かって、いつもはちゃらんぽらんで賑やかなメンバーがバスに乗って試合に向かうんですが、誰もしゃべらないんですね。そのバスの車内の雰囲気がいい空気で試合に向かう緊張感でピリピリしていて今でも覚えてます。そこで自分一人が黙って集中していても、チーム全員が同じ気持ちにならないとそういう空気はできませんからね。高校1年の時はこの2試合が強く印象に残っています。
—— 2年生になってからはどうですか?
少しマークされるようになりました。「洛北やるんちゃうの」と言われるようなチームになってきました。この年が高校時代で一番楽しい1年間でした。良い先輩と良い後輩に恵まれて、この年はすごく楽しい年で、スクラムを組む喜びを感じたのもこの年です。この年はベスト4まで行って、伏見工業に負けました。トライ数が同じで、ペナルティの差で負けました。神戸製鋼に行った薬師寺という名キッカーがいたんです。
—— 2年生になっても試合に向けての良い気持ちというのは続いていたんですか?
3年生が引退してすぐの新人戦で、長谷川慎のいた東山高校とやってボロボロに負けて、スクラムも電車みたいに押されたんですが、その次の春季大会でまた東山と当たったんです。その間1か月くらいが高校時代で一番スクラムを組んだ1か月でした。東山に勝つためだけに組んでました。春季大会ではスクラムも押しました。試合は引き分けで、抽選負けでしたが、1か月前にボロボロに押された相手を押した感触は最高に気持ち良かったですね。
—— その間1か月は練習時間のほとんどをスクラムに費やしたんですか?
そうですね。当時は水も飲んだらいけないという教育だったので、とにかくしんどかったですね。雨のあとはそこら辺に溜まってるカフェオレみたいな色した雨水を、見つからないようにチューっと吸って飲んだりしていました。他の奴もやってました(笑)。2年生の頃はまぁまぁ強かったですね。
◆架空のロスタイム逆転トライ
—— 3年生になってからはどうでしたか?
3年になったらキャプテンになっていました。人数もいませんでしたし、1年生から試合も出てるしということででしょうね。弱かったですね。2年生が良く頑張ってくれました。京都では2回勝てばベスト8で、そこで初めて4強と当たるという構図で、そこで一気に差が出るんですが、2年の時はそこを突破しましたが、この年は全然だめでした。
—— 同級生で今でもラグビーをしている人はいますか?
大学までやった人はぼちぼちいましたが、僕がいちばん長いですね。
—— 高校時代で最も印象に残るのはやはり1年目ですか?
そうですね。一番楽しかったのは2年目ですね。花園に行ける可能性があったとうことで、2年目は楽しかったです。
—— 他に3年の時に思い出に残ることはありますか?
朝練をなくしたことありました。「朝早く起きて寝不足で午後の練習が中途半端になるくらいやったら、朝やらんでええからその分午後100%でやれ」って言って朝練なくしたことことありましたね。でも、本当は僕が朝行けなかったからなんですけどね(笑)。朝行くことが良いことだみたいな感じになっていて、実際朝練なんて軽く体動かす程度でしたからね。
—— 演芸の方は?
高校のラグビー部ではいろいろやっていましたね。言えないこととかいろいろやってましたね。学園祭で少年隊の「仮面舞踏会」を歌ったこともありますね。どうにもならないおとなしい後輩2人引連れて言うようにやれって言ってやりましたね。まぁその他にも細かいリクエストには答えていましたね、あれやれ、これやれって言われて。
高校は定時制があったので、練習後の部室でやってましたね。当時は放課後ずっとみんなで話をしていたんです。それも想像の、架空の話ばっかりなんですが、それがすごく楽しかったんです。「京都の決勝で最後のロスタイム、直人が逆転トライするとしたらどんなトライする?」とか言われてそれに対してこんなトライするとか、そういった架空の話がすごく楽しくてずっとしていましたね。
(続く)
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)