3世紀に記された「魏志倭人伝」に、壱岐は一大國(一支國)という国として記されています。中国や朝鮮とは指呼の距離であることから古代より高度な文化が往来したことがうかがえます。またそこには田地の記述があり、その王都であった弥生時代初期に形成された「原の辻遺跡」からも米・麦や農耕関係の遺物が出土しています。そして、壱岐は島でありながら長崎県下2番目の平野であり、現在でも田畑が広がるの穀倉地です。
壱岐焼酎に関する資料は江戸時代より前のものは残っていませんが、大陸に近い壱岐は、大陸文化の中継点として16世紀ころから蒸溜法が伝わったと言われています。江戸時代、年貢米の徴収が厳しく島民は米の代わりに主食用に大麦を作っていました。その豊かな麦の実りを利用して麦焼酎を造るようになったと言われています。その壱岐の歴史・壱岐焼酎の伝統をうけ現在7つの蔵が米こうじの甘みと大麦の香りを大事にしながら蔵独自の焼酎に込めています。