プロデューサーが語る「ウツクシイ・音楽」8/29プログラム
■マントヴァーニ(1974-):衝突 (2016)
ブルーノ・マントヴァーニは1974年生まれの作曲家、指揮者であり、2010年に史上最年少でパリ音楽院院長に就任した才人です。パリ音楽院のホームページにアップされた彼のプロフィールには、1993〜2000年の在学中、彼が5度「一等賞」を受けたことが記されています。
最近特に親しい友人の一人で、東京シンフォニエッタでも2009年に《ストリーツ》(07年作曲)を日本初演しています。
彼の音楽はとにかく、あふれ出る才能が音となって生きてくるという事です。どのような事かというと、彼の素敵な人柄が、音符に乗り移り、それが実際に音として響いてきて私たちの心を捕えます。
世界からひく手あまたのマントヴァーニが、今回委嘱新作を引き受けてくれてたいへん嬉しく思っているのはもちろん、先日、少しだけ見せてくれたスコアの冒頭から魅力的で、全曲のスコアが届くのを待ちわびているところです。
■ハース(1953-):ダーク・ドリームズ(2013)
ゲオルク・フリードリヒ・ハースの《ダーク・ドリームズ》は、ベルリン・フィルとカーネギーホールの委嘱により、2013年11月ニューヨークで作曲され、翌14年2月、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルによって初演された作品です。初演に続いて、ハンブルク、ブリュッセル、ルクセンブルク、ケルン、ウィーンでも演奏されました。オーストリアの作曲家であるハースは13年9月からコロンビア大学の教授を務めており、この作曲クラスで出会った生徒からの刺激がこの作曲に影響を及ぼしたことをハース自身インタビューで語っています。彼がニューヨークで初めて書いたオーケストラ作品となります。
出版社の計らいで、私もカーネギーホールの初演の際、リハーサルから聞くことができ、サイモン・ラトルに直接いくつかの疑問点を確認することができました。
作曲者によると、なにか特定のdark dreamsと関連があるわけではなく、タイトルは音楽の内容とは無関係であるとのこと。スペクトル楽派の流れをくむハースの技法が駆使された作品で、加えてベルリン・フィルの優れた奏者たちを意識しつつ作曲したことをハース自身インタビューで語っています。曲の終盤、音楽が突然リリカルになり、コントラファゴットのソロが現れます。ここも聴きどころのポイントですので、楽しみにしていてください。さらに付け加えると、夏のサントリーホールは特に空気がからっとしていて微分音がきれいに響きます。まさにサマーフェスティバルにふさわしいこの作品の音響を体感していただければと思います。
■リンドベルイ(1958-):ピアノ協奏曲第2番(2011-12)
この曲もハース同様、「聴くだけで充分だIl suffit d’entendre」というドビュッシーの言葉どおり、聴いていただけばその魅力をわかっていただけると信じています。独奏パートの超絶技巧はもちろん、力強くドラマティックで、かつ抒情的な魅力あふれる音楽です。「こういう曲があるよ」と教えてもらってスコアを送ってもらい、これはなんとしても演奏したい!と思っていました。今回リンドベルイに初挑戦してくださる世界的ソリスト小菅優さんを迎えて演奏できることが非常に楽しみです。
マグヌス・リンドベルイは、カイヤ・サーリアホやエサ=ペッカ・サロネンと同世代のフィンランドの作曲家で、サロネンとともに「トイミー・アンサンブル」を結成し、パリではグリゼーらに学びました。リンドベルイ自身、優れたピアニストで、このピアノ協奏曲のノートにも「私にとってピアノのために作曲する事は、直接的な身体的行為となっている。」と述べています。
ニューヨーク・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管とエーテボリ響の共同委嘱により2010〜12年に作曲。12年5月、ニューヨークにて、アラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィル、イェフィム・ブロンフマンの独奏で初演され、日本では同じ演奏家により14年2月に演奏されました。今回が日本での2度目の演奏となります。
現代音楽アレルギーの方にもぜひ聴いていただきたい、聴き逃してはもったいない「ウツクシイ」曲です。そして、この曲、また素晴らしいソリスト、小菅優さんとの出会いのなかで、音響空間としてのサントリーホールの新しい魅力を発見していただけると信じています。
■ドビュッシー(1862-1918):海(1905)
《牧神の午後への前奏曲》を聴いて音楽家になろうと決意した私にとって、ドビュッシーは音楽的ルーツとなる作曲家です。
《海》の初版楽譜の表紙が、葛飾北斎の「冨嶽三十六景―神奈川沖波裏」をもとにしていることをご存じの方も多いことでしょう。ドビュッシーの時代、フランスではジャポニスムが流行していました。日本では、夏目漱石(1867〜1916)がドビュッシー(1862〜1918)とほぼ同時代で、英国留学後、東大で「十八世紀英文学」をテーマに講義を行なったのが明治36(1903)年〜38(1905)年。それがのちに『文学評論』として出版されるわけですが、《海》が1903〜05年作曲、05年初演ですから、まさに同じ時期に日本で英文学の分析的な講義が行なわれていたことに因縁を感じます。漱石が分析的なアプローチをとったのは、英国の文化に敬意を表してのことでしょう。私たちも時代が変わろうと、出発点に立ち返り、西洋音楽を無批判に「自分の文化」と思うことなく、謙虚に作品に向きあって分析的にアプローチするべきだと思っています。
今年、2016年2月に国立ボルドー=アキテーヌ交響楽団の定期で《海》を指揮しました。その際に様々な経験をしましたが、現地の批評で「海の種々相が視覚的に想起される」と書かれました。
そして8月、東京であらためてのぞむ《海》。どのような変化が起きるか、自分でも楽しみにしています。