前回まで2回にわたり「ピカドール」にはじまり、テキーラベースの代表的カクテル「マルガリータ」の誕生エピソードについて述べてきた。
そのなかで1937年にイギリス・バーテンダー・ギルド(UKGB)が編纂してロンドンで刊行された『Café Royal Cocktail Book』(UKGBの当時会長W.J.Tarling執筆)について触れた。
世界の酒類市場においてテキーラはまったく地位を得ていない、つまり広く流通していない時代であったはずだが、この一冊はいち早くテキーラベースのカクテルを10数種類掲載していた。
その7年前、1930年に同じロンドンのサヴォイ・ホテルのハリー・クラドックが刊行した『The SAVOY Cocktail Book』にはテキーラベースのカクテルはまったく登場していなかった記憶がある。
アメリカの禁酒法時代(1920−1933)のサヴォイ・ホテルである。渇きを癒すために訪れるアメリカ人はもとより世界のセレブが集う場であったはずなのにカクテルブックにテキーラの記述がないのだ。7年の間にテキーラは少しずつ浸透していったのだろうか。
さて、カフェ・ロイヤルについて語っておこう。現在はロンドン中心部、ピカデリーサーカスの正面に建つ屈指のラグジュアリーホテル『ホテル・カフェ・ロイヤル』として知られている。おののくほどの絢爛さである。
今回は創業時について触れておく。カクテルブックに丁寧な解説があるので拙訳で簡単に紹介しておこう。
1864年、フランスでワイン商をしていたダニエル・ニコルス・セヴェノン(Daniel Nicols Thevenon)が妻セレスティンとともに無一文でロンドンへ到着する。フランスの厳しい破産法から逃れてきた彼らはなんとかして金を工面して、グラスハウス・ストリートに小さなカフェ・レストランを開店した。店の名は『カフェ・レストラン・ニコルス』。そして懸命に働き、卓越した料理で客を満足させ、事業を拡大させる。
フランスの債権者への負債をすべて返済しただけでなく、1880年代になって『カフェ・ロイヤル』と改名する。そして現在の場所へと大きく成長していったのだった。
現在『ホテル・カフェ・ロイヤル』について述べたものを見ると、創業時からは作家のオスカー・ワイルド、そしてウィストン・チャーチル首相、エドワード8世、さらにはダイアナ妃、デヴィッド・ボウイなど今日に至るまでたくさんのセレブ、著名人が常連客として名を連ねてきている。
もうひとつ『カフェ・ロイヤル・カクテルブック』の興味深い点はイギリスのカクテル史に触れており、昔日の様子が窺い知れるのだ。
1937年に刊行された当時、“マティーニ、ブロンクス、マンハッタン、ホワイト・レディといったカクテルが単調に繰り返しつくられている傾向があり、読者の皆さんには最新のカクテルを試してみるようお願いしています”と書かれている。現代もまだその傾向が残っていると言えなくはない。
また歴史的カクテル、アメリカを象徴するドリンクとして「ミント・ジュレップ」が取り上げられている。1815年にイギリスではじめて文献に登場し、“ベースはブランデー、クラレットやマデイラなどさまざまであり、今日ではライウイスキーやバーボンが使われるようになっている”とある。
そして1862年に現代に通じるカクテルブック『The Bartender Guide』を著したジェリー・トーマスにも触れている。
カクテルが最初に人気を博したのはアメリカであり、1859年にジェリー・トーマスがそれをイギリスにもたらした。“彼はロンドン、サウサンプトン、リバプールを訪れた。1,000ポンド相当の純銀製バー用品を駆使して、その技で魅了した。ショーマンのようなところもあったが、イギリスの堅苦しいビールやワイン愛飲家を驚かせた。彼のこのツアーは経済的に成功し、懸命にも短期間でアメリカに戻っていった”と記されている。
ロンドンで最初に開店したアメリカンバーは1878年頃になるらしい。“バーもバーテンダーもアメリカからもたらされた”という。
とても興味深い話である。UKBGならではの正直な見解といえよう。
さて、カクテルを紹介しよう。『カフェ・ロイヤル・カクテルブック』からテキーラベースのカクテル「マタドール」をピックアップした。ちなみにマタドールとは闘牛で最後に牛を仕留める主役の闘牛士のことである。
この「マタドール」だが、連載63回『パイナップルという名の原料』で紹介している。しかしながらレシピがまったく違うのだ。
63回で紹介したレシピは現代風といえるのではなかろうか。テキーラ、パイナップルジュース、ライムジュースをシェークしてオン・ザ・ロックに仕上げる。『カフェ・ロイヤル・カクテルブック』に掲載されているレシピは、テキーラ、ドライベルモット、オレンジキュラソーをシェークして、カクテルグラスに注ぐというものだ。
両者の味わいはまったく異なる。63回のレシピにいつ頃変化したのかまでは調べ上げられていないが、革命といわれるホワイトスピリッツのブームが巻き起こった1970年代あたりに変化した軽快、爽やかなテイストではなかろうか。これはあくまでわたしの憶測である。
古いほうのレシピはなかなかにいい味わい醸しだしている。ベルモットの働きがいいのだ。テキーラとオレンジリキュールのつなぎ役として、膨らみのある甘みと酸味の見事なバランスを生んでいる。
できるなら行きつけのバーで、レシピを伝えてお試しいただきたい。新旧の味わいを体感することも楽しい。