アニメから広がる「シンガポールスリング」の世界父と子をつないだ、「二杯」のカクテル

#カクテルストーリー

2024.05.31

第7話『バーテンダーの覚悟』では、シンガポールから来た若きバーテンダー、ケルビン・チェンとその父との確執・和解が描かれます。このエピソードでカギを握るカクテルが「シンガポールスリング」。チェンと父親の母国の名を冠したカクテルです。ここでは、第7話を振り返りながら「シンガポールスリング」が果たした役割についてお伝えすることで、アニメをより深く味わっていただくとともに、カクテルの楽しみ方を広げていただければと思います。

※以下記事は第7話のストーリーに関する内容を含みますので、まだアニメ第7話を観ていない方は、ぜひこの記事をお読みになる前にご覧になってください。

文/「やさしい止まり木」編集部

「シンガポールが、今の僕と父をつないでいるものだからです」

父親に自分の実力を知ってもらう一杯に、チェンはシンガポールスリングを選びました。なぜ、このカクテルなのか。それを知るために、このカクテルが持っているバックグラウンドについて、少し詳しくお話しましょう。

シンガポールスリングは、1915年にシンガポールを代表するホテル「ラッフルズホテル」のバー「ロングバー」で誕生しました。当時シンガポールを訪れた西洋人が利用できる社交場がなかったことから、ラッフルズホテルがその中心となり、毎晩ダンスパーティーが開かれていたそうです。当時のマナーでは、女性はこうした社交の場でアルコールを飲むことは避けるべきとされていて、お酒ではなくお茶やフルーツジュースを飲んでいました。

そこで当時ロングバーでバーテンダーをつとめていたニャム・トン・ブーンさんが「女性でも飲めるカクテルを」と考案したのがシンガポールスリングです。シンガポールスリングはジンベースのカクテルで、パイナップルジュース、ライムジュース、キュラソー、ベネディクティン、グレナデンシロップ、チェリーブランデー、アンゴスチュラ・ビターズをシェイクしてつくります。材料も多く、手間のかかるカクテルです。ニャムさんは、ピンク色で女性らしい雰囲気があり、フルーツジュースのように見えるけれど、実はお酒(ジンとリキュール)が入っているこのカクテルを、パーティーに出席した女性たちに振る舞いました。これまで社交の場でお酒を楽しみたくても楽しむことができなかった女性たちが、目立たぬようにお酒を楽しむことができるようになったのです。100年前からバーテンダーが鋭い洞察力で眼の前のお客様の気持ちを読み取り、彼らの飲みたいものを提供してきたことがわかる逸話です。

ともあれ、こうして誕生したシンガポールスリングは、やがて国を代表するカクテルになりました。その後さまざまなレシピによってつくられるようになりますが、ラッフルズホテルで生み出された当時のレシピは〈ラッフルズスタイル〉として知られています。父親と自分をつなぐものが「シンガポール」にしかないと考えていたチェンは、シンガポールを象徴するカクテルで父との絆を表現しようとしたのかもしれません。

「わざわざ手間のかかる〈ラッフルズスタイル〉をつくったのは、なにか理由があるのかな?」

ところが、チェン渾身の一杯は父親に否定されてしまいます。愕然とするチェンに、佐々倉は「なぜ手間のかかる〈ラッフルズスタイル〉を選んだのか?」と問いかけます。「今は〈サヴォイスタイル〉の方をつくるのが普通」だとも。ここで登場する〈サヴォイスタイル〉とは、どんなものなのでしょうか?

〈サヴォイスタイル〉の「サヴォイ」とは、1889年にロンドンに建てられた名門ホテルのこと。1930年、サヴォイホテルのバーテンダー、ハリー・クラドックさんが当時人気を博していた750種類以上のカクテルレシピを網羅したレシピブック『サヴォイ・カクテルブック』を著わし、以来「プロの実用書」として愛されてきました。

『サヴォイ・カクテルブック』に記されたシンガポール・スリングのレシピは、レモン果汁、ドライジン、チェリーブランデーをシェイクしてソーダ水で満たす、というもの。これが〈サヴォイスタイル〉で、〈ラッフルズスタイル〉にくらべるとずいぶんシンプルですね。佐々倉が言う「普通」とは、世界のバーテンダーが参照した『サヴォイ・カクテルブック』のレシピが、今では一般的だという意味なのでしょう。

この佐々倉の問いかけに対してチェンは「父に認めてほしくて、自分の腕を見せつけたくて」、レシピの複雑な〈ラッフルズスタイル〉を選んだ、と告白しています。確かにチェンは、父親が疲れていることなどおかまいなしに時間と手間をかけて自分の主張を押しつけるようなカクテルを出し、「サービスの根本がわかっていない」と見抜かれてしまいます。でも、ここまでのエピソードをお読みいただいた皆さんの中には、もしかするとチェンは、より「正統的(オーセンティック)」で、祖国にゆかりの深いレシピである〈ラッフルズスタイル〉のほうが二人の絆を表現できると心の奥で感じていたのかも、と想像をふくらませる方もいらっしゃるかもしれません。

「日本の四季がこのジンに詰まってます。夏は煎茶、秋は山椒、冬は柚子。そして春は桜」

再度父親と向き合い、カクテルを飲んでもらうチャンスを得たチェン。再びシンガポールスリング、今度は〈サヴォイスタイル〉で挑みます。ただの〈サヴォイスタイル〉ではありません。チェンが使用したジンは「ROKU〈六〉」。和のボタニカルを使ったジャパニーズクラフトジンです。自分のためのカクテルではなく、目の前のゲストである父親が求める一杯を考え抜いた結果、ベースとなるジンにもこだわりました。

2000年代から世界中で巻き起こったクラフトジンのムーブメントは、カクテルにも革命をもたらしました。個性豊かなボタニカルによる多様な味わいはバーテンダーの創造性を刺激し、多くの新しいカクテルを生み出しました。ROKU〈六〉は、桜花、桜葉、煎茶、玉露、山椒、柚子と、日本の四季が生んだ六種のボタニカルを使用したジャパニーズクラフトジンとして世界で認められています。シンガポールスリングで父の故郷であるシンガポールとの絆を、そしてROKU〈六〉で、チェンのもう一つの故郷であり、母の生まれ育った日本との絆を表現した一杯。自分の技術を見せつけるのではなく、父と向き合い、家族の思い出を蘇らせたことで、ついに父に認められることになりました。

一杯、いや二杯のカクテルには、これだけの歴史、人の想いが込められているのです。次にバーを訪れ、シンガポールスリングを飲む機会があったら、ニャムさん、ハリーさん、そしてチェン、それぞれの「物語」に思いを馳せながらグラスを傾けてみるのも、味わい深い体験になるかもしれません。

【参考文献】
『現代アジア事典』長谷川啓之 監修 上原秀樹・川上高司・谷口洋志・辻忠博・堀井弘一郎・松金公正 編(文眞堂)
『サヴォイ・カクテルブック』サヴォイ・ホテル編著 日暮雅道訳(パーソナルメディア)
『ジン カクテル』いしかわあさこ著(スタジオ タック クリエイティブ)
『カクテル事典』(学研パブリッシング)
『History of the Singapore Sling』(Raffles Singapore website内)
https://www.rafflessingapore.com/the-raffles-stories/history-of-the-singapore-sling/