赤玉の歴史
1907年、赤玉は生まれました。
それから、今日まで
赤玉がどんな歴史を歩んできたか。
日本のワイン文化を切り拓いてきた、
挑戦の物語です。
STORY
赤玉が歩んだ、
日本のワイン史の物語
鳥井信治郎、
ワインと出会う
1899年(明治32年)、日本ではまだワイン文化が根付いておらず、「葡萄酒=薬用」という時代。20歳の鳥井信治郎は大阪の地に鳥井商店を立ち上げました。当時の大阪は国内外の経済の中心であり世界中の文化が流入し、沸騰する最先端の町でした。世界への窓が開かれていたのです。そんな中で様々な洋酒文化に出会い強い憧れを抱いた若き信治郎は、日本でワインを広める挑戦を始めます。
創業者 鳥井信治郎
そこで、運命の出会いが訪れました。
スペインのセレース商会が主催した試飲会でポートワインを飲む機会があり、そのおいしさに心を射抜かれたのです。鮮やかなルビー色と豊かな果実味、甘く芳醇な味わいは鮮烈で、信治郎はそれをそのまま瓶詰めして発売しました。しかし、予想に反してほとんど売れませんでした。葡萄酒は薬用という世間の常識の壁は予想以上に高く、当時の日本人には受け入れられなかったのです。
上:創業者 鳥井信治郎
下:住吉町時代の壽屋(現サントリー)
住吉町時代の壽屋(現サントリー)
赤玉ポートワイン、誕生
左:大正時代の「赤玉ポートワイン」
右:1909年「赤玉ポートワイン」の広告
信治郎はポートワインの良さを活かしつつ日本ならではのワインを創造するという挑戦を始めました。昼夜を問わぬ試行錯誤の末にたどりついたのは、アルコールの刺激が少なく甘味と酸味のバランスが取れ、ワインらしい熟成感の中に薬種のニュアンスがほんのり漂うという、かつてない味わいでした。
薬種の選定には、かつて薬種問屋に丁稚奉公した際の経験が役立ちました。
そしてもうひとつ、信治郎がこだわりぬいたのが、その美しく鮮やかな紫紅色でした。色へのこだわりは、信治郎の二度目の奉公先であった染料問屋で体に叩き込まれたものです。それまでの葡萄酒は茶色か褐色に近い色でした。日本人は色にも味わいを感じる。鮮烈でしたたるような紫紅色でなければならない。1907年(明治40年)4月1日、試作につぐ試作でようやく誕生したのが、本場のポートワインの豊潤さと、薬用葡萄酒に通じる日本人に馴染み深い味わい、食欲をそそる鮮やかな色合いを兼ね備えた「赤玉ポートワイン」です。
赤い玉は太陽。「これぞ日本人のための葡萄酒だ」と強い思いをこめて名付けました。
一枚のポスターが、
時代を動かす
左上:日本初のヌードポスター
右上:国民を驚かせた新聞広告
下:PRのため結成された「赤玉楽劇座」
発売当時の赤玉は一瓶38銭。米一升(約1.5kg)が10銭の時代です。かなりの贅沢品でした。発売当初、売れ行きが伸び悩むなか、信治郎は広告に活路を見出します。
「いいものを作らないと売れない。ただ、いいものを作ってもそれを知ってもらわないことには売れへんのや。」
1920年(大正9年)新聞1ページに筆文字で大きく「赤玉ポートワイン」と書かれた広告を掲載。子どもが落書きした新聞を配ったと読者から問い合わせが殺到しました。国民を驚かせ、名を広めることに成功したのです。また、赤玉楽劇座を結成し各地を巡業しながらお得意様を招待、流通関係者とのつながりを深めました。
1922年(大正11年)に発表した楽劇座のプリマドンナを起用した日本初のヌードポスターは、全面モノクロの中でグラスの“赤”にこだわりぬいた渾身の一枚。そのインパクトと話題性で、赤玉の名は一気に広まっていきました。
国産葡萄づくりへの挑戦
上:山梨農場を走るトラック
下:山梨農場から望む甲府盆地と富士山
戦争や内乱など、世界的な情勢不安の影響で原料の輸入が難しくなる中、信治郎は原料葡萄の国産化に向けて動きます。
各地の葡萄農家と手を取り合って全国に生産地を広げるとともに、1936年(昭和11年)には長野県塩尻市にワイナリーを開設。また、山梨県登美の丘の広大な葡萄園で葡萄づくりを始めるなど、日本でのワインづくりの基盤を築いていきました。それら赤玉が開いた日本各地の葡萄産地の多くは、今ではヨーロッパ系の高級ワイン葡萄の産地に生まれ変わり、日本ワインの中核を担っています。
原料の主体が生果になると、思いがけずフレッシュでみずみずしい果実味が生まれました。これは嬉しい発見でした。しかし一方で、従来の赤玉がもつ本場のポートワインのような熟成感とのバランスをいかにとるか。信治郎の昼夜を分かたぬ調合・ブレンドへの挑戦がまた始まりました。
こうして、今日の赤玉の原型となる、新鮮な葡萄の香りと、なめらかな熟成香のハーモニーが生み出され、赤玉人気はさらに高まっていくのです。
赤玉生誕の地、大阪
上:大阪工場全景(昭和初期)
下:操業当時の大阪工場
日本に様々なワイン文化をもたらした「赤玉ポートワイン」は1973年(昭和48年)「赤玉スイートワイン」に名称を変更し、今も生まれた大阪の地でつくられています。現在のサントリー大阪工場の前身は、1919年(大正8年)に赤玉専用の生産瓶詰工場として開設されました。
ここで信治郎は、各種の薬種などの調合とブレンドに精魂を傾けました。そのブレンドの技術と伝統、そして情熱は、現代の技術者たちに受け継がれ、いっそうの磨きをかけられています。自然の恵みである様々なスパイスや果実を生かした浸漬酒、そしてそれらを蒸留したスピリッツやリキュール、さらには、そうして産まれた多彩な原料酒をブレンドして作り上げるジンやRTDなど、数々の人気商品がこの工場で誕生し続けているのはまさに信治郎に始まる調合とブレンドの歴史の賜物です。
そして、すべての原点である赤玉の品質をさらに高めていくことも、この工場の技術者たちにとって、最も大切な使命のひとつなのです。「初めて飲んだワインは赤玉」と懐かしむ方は多く、技術者たちはそういったお客様の思い出の味を大切にしながらも、思い出を超えるおいしさを提供すべく、大阪工場ならではの技と情熱を注ぎこんでいます。今の若い人たちに、10年後、50年後、「初めてのワインは赤玉だった」と懐かしんでもらえるようなそんな新鮮な感動をお届けするために。
いつも、日本に
新しいワインの愉しみを