作・達磨信
良美の勘は鋭い。気のゆるみを完全に見抜かれていた。カウンター席に着くなり、「マスター、なんか飲んでいたでしょう」と突いてきた。
昼過ぎから雪が激しく降りだし、誰もが夕方早々に家路を急いだ。それでも早い時間に常連客が二人やってきたが、1時間ほどで帰ってしまう。彼らを見送りがてらマスターは外へ出てみると、嘘のように雪は止んでいた。歩道を歩く人は数えるほどで、静けさが客足を期待できない夜を告げていた。
その後もポツリ、ポツリと客はやってきたが、10時になり、今夜は店仕舞いと決めた。看板の灯を消す前に水割をひと口飲んだその時に良美が現れた。
「参りました。でも、何か飲んでいるって、どうしてわかったんですか」
「わかるわよ。扉を押した途端、グラスを傾けて氷が鳴る音がしたんだから」
そう言って、良美は熱いおしぼりで手を温めながら、カウンターの端に活けられた花を見つめた。伸びやかな細枝に咲くボケ(木瓜)の花の赤みがかったオレンジ色の下には3本の赤いチューリップが美しい立ち姿を見せ、その緑の葉が鮮やかなコントラストを生んでいる。もちろん菜々子が活けたものだ。
マスターの「何にいたしましょうか」との問いかけに応じるまでには間があった。良美は「あっ、ごめんなさい」と言ってマスターの方へ顔を戻してにっこりと微笑み、「それで、さっき何を飲んでいたの」と聞いてきた。
「えっ。その、仕事終わりに、お疲れさんで飲んでいるウイスキーです」
「あら、今夜はもう閉めようとしていたのね。申し訳ない」
「いいえ。迂闊でした。反省です。お越しいただき、ありがたい」
「そう、ほんと。申し訳ないけれど、今夜はちょっとだけ飲ませてね。よろしければ、お疲れさんのウイスキーをわたしにもいただけないかしら」
「構いませんが、ホワイトの水割なんです。よろしいでしょうか」
「うん。飲みたい。でも、面白いな。ウイスキーに精通しているバーのマスターが、プライベートでは随分と大衆的なウイスキーを飲むんだね」
ホワイトとは30年以上の付き合いになる。学生時代、アルバイトで得たお金ではじめてボトルキープしたのがホワイトだった。昼間は喫茶店、夜はスナックとなる、夫婦で営んでいた行きつけの店だった。ボトルをキープすると、一気に大人の仲間入りを果たしたような高揚感に満たされたのを覚えている。
そのスナックのマスターがつくるホワイトの水割りは格別だった。軽やかでほんのりスパイシーさがあり、後口のキレがいい。
秘訣を聞くと、「いろんな考え方があるんだろうけれど、水割は、ウイスキーとミネラルウォーターがうまく対流してミックスされるからこそおいしくなるんだと思う。そのためには、氷の隙間も大事なんだ」と教えてくれた。
水割の奥深さに触れたことが、バーテンダーという職業を選ぶきっかけとなる。大学を卒業して、厳しくも優しいバーテンダーの下で修業を積んだ。その師匠も同じような考え方で氷を扱い、ステアしていた。
良美にホワイトの水割をつくりながら、マスターはこんな昔話をした。
水割のグラスを手にした良美は、菜々子の活けた花に向けて乾杯の仕草をすると、ゆっくりと口に含んだ。「シャープだね」と言うと、ふた口目は心地よさそうに、また、何かを吹っ切るかのように飲んだ。
「この水割は清々しい。マスターにとっては初心に帰るってことなんだ」
「うーん、それと、やはり日本人なんでしょうね。ホワイトの前身は初の本格国産ウイスキー、白札ですからね。白札があって日本のウイスキーのいまがある。大切にしなくちゃいけない。そんな気持ちもあります」
「原点。それも初心よね。では、お伝えします。菜々ちゃんも初心を貫き、旅立ちます。お花に向かって乾杯したのは、彼女に幸あれ、って」
「えっ、どういうことでしょうか。菜々子さん、まさか」
「そう。そのまさか。イギリスに留学するんだよ。まず園芸学校に入り、その後どこかの植物園で何年か働いて、最終的にはロンドンの王立植物園、キューガーデンで学ぶ。それを目指して4月か5月には日本を飛び立つの」
「なんと、そこまでの高い目標が。かなりの衝撃だな。凄すぎます」
驚嘆しているマスターに、良美が語りはじめた。
学生アルバイトでの採用時、フラワービジネスを学びたい、と菜々子は言った。ビジネスとして捉えた発言をするアルバイトの学生はいない。そして重労働である花屋の業務を、彼女は苦にすることもなく淡々とこなしてみせた。
やがて京都の菜々子の実家が代々造園業を営んでいることを知る。彼女の母の弟が社長であるからなのか、彼女は控えめに「親戚が造園業」と言う。母は創業家の長女で自社の庭師と結婚して、いまは副社長を務めている。実はその夫、つまり菜々子の父が副社長になるはずだったが、彼女が高一のときに病気で亡くなってしまったのだ。そして、彼女の兄も庭師をしている。
「菜々ちゃん、華道家としてもすでに高い地位にいるんだよ。お婆さまが華道家で、高校生の頃から本格的に教わりはじめ、東京の大学に入ってからもずっとつづけてきた。このボケとチューリップの気配は華道そのものなんだな」
そして菜々子のキューガーデンへの志は高校生の頃に芽生えたらしい。英会話はもちろん、キューガーデンへと進むために園芸に関連する英語力も身につけてもいる。そのため彼女の休日は華道と英語の勉強で埋まってしまう。
また、良美の会社ではフラワーアレンジメントの教室を開いているが、菜々子は早くから講師を務め、彼女のクラスは大盛況がつづいてもいる。
「国際的なビッグイベントにうちの会社が入り込めているのは、菜々ちゃんの貢献が大きいの。それなのに、スター的存在でありながら彼女は表へ出ようとしない。代わりに経営者のわたしがマスコミに引っ張り出されちゃう」
若くして確固たるポジションを得ながらも次のステージへ向かおうとする菜々子を引き止めることはもうできない。会社としては大きな痛手だが、周囲の想像をはるかに超えた世界を目指している彼女を応援したい。これからどんな世界を構築していくのか、楽しみでもある、と良美は語った。
「不思議なのは、超多忙な菜々ちゃんが何故マスターの、バーの仕事を引き受けたのか。ごめんなさい。わたし、猛反対したんだから。時間をどうやりくりするの、あなたでなくてもいいでしょう、って」
菜々子が店頭で接客することは稀になっている。そこに偶然にもマスターが来店して、彼女が花束を仕上げた。マスターが彼女のセンスに惚れ込み、懇願されたからとはいえ、そんな出会いで簡単に仕事を引き受けたのが腑に落ちない。バーへの特別な何か、大切な想いがあるのではなかろうか。
そこまで言うと、良美はホワイトの水割を飲み干し、お代わりを頼んだ。
マスターには菜々子の胸の内を推し量ることはできない。理由はわからないが、バーへの愛情があることは感じてはいた。そして彼女の仕事ぶりを見ることができなくなる寂しさとともに、こころの水辺に淀みが生まれてもいた。水割のようにうまく対流しないのだろうか。
彼女の交際相手であるはずの誠一のことが気がかりでたまらない。
(第10回了)