柔軟な思考、名人芸、的確な聴覚。クラングフォルム・ウィーン(KFW)は、国際的に最も名高い現代音楽専門アンサンブルの一つとして、芸術的解釈と体験的空間の拡大に力を注いでいる。KFWの公演は、最良の意味でのイベントである。直接的であり、逃れることのできない感覚的な体験を提供するからだ。そして、その音楽の新しさは、語り、実行し、魅惑することにある。
1985年にベアート・フラーによって設立されて以来、このアンサンブルは多数の賞を授与され、今日まで音楽の歴史を刻んできた。4大陸の作曲家による約600作品の初演、90を超える広範なディスコグラフィー、主要なコンサート・ホールやオペラ・ハウスだけでなく、熱心な若手による公演やヨーロッパ、アメリカ、アジアの著名な音楽祭への出演など、その活動は多岐にわたる。トップクラスの作曲家たちとの互いに充実したコラボレーションにおいては、長年にわたって深い芸術的な友情を育んできた。2009年からは、グラーツ音楽大学で教授活動の一環として、次世代を担う学生たちに表現法や演奏技術などを幅広く指導している。
KFWは、オーストラリア、ブルガリア、ドイツ、フィンランド、フランス、ギリシャ、イタリア、オーストリア、スウェーデン、スイス、アメリカ出身の23人の音楽家で構成されている。18/19シーズンの初めには、シルヴァン・カンブルランの後任として、バス・ウィーヘルスが首席客演指揮者に就任した。20年1月1日より、ぺーター・パウル・カインラートが同アンサンブルの新しい芸術監督を務めている。
[鄭 理耀]
インスブルック出身。ウィーン音楽演劇大学でジャレル(作曲)、カウフマン(電子音響音楽)、エレード(和声・対位法)に(1994~2001)、ハンス・アイスラー音楽大学ベルリンでキブルツに師事(99~2000)。卒業直後に『地図は現地ではない』(01)がクラングフォルム・ウィーンによって、05年には『アペイロン』(04~05)がラトル指揮ベルリン・フィルによって初演され、10~11年にはシュターツカペレ・ドレスデンのコンポーザー・イン・レジデンスに就任する(ムンドリー、ベルンハルト・ラング、サンダースに次ぐ4人目)など、独墺を中心として順調に地歩を築く。その活躍ぶりは同世代・同国人のオルガ・ノイヴィルトにしばしば比較されるが、多様な芸術から幅広くインスピレーションを得る点こそ共通するものの、初期から電子音響を多用し、メタリックな音響を特色とするノイヴィルトとは異なり、伝統的編成のオーケストラで本領を発揮するその音楽は、リームにみられるようなロマン派的色彩とは完全に無縁ながら、悠然とした佇まいと温もりのある響きを特徴とする。ウィーン音楽演劇大学で1年間教えた(15~16、ジャレルの代講)あと、18年からザルツブルク・モーツァルテウム大学教授。
[平野貴俊]
クロアチアのスプリトに生まれる。ザグレブ音楽アカデミーでブルカノヴィチ、ウィーン音楽演劇大学大学院の「メディア作曲と応用音楽」のコースでクラウス・ペーター・ザットラー、グラーツ芸術大学大学院でフラーに師事。またアペルギス、ハースらのマスタークラスを受講。2014年からウィーンの現代音楽アンサンブル、ブラック・ページ・オーケストラの共同設立者およびメンバー。18年、ドナウエッシンゲン音楽祭でクラングフォルム・ウィーンによって『ケース・ホワイト』が、また翌年にはグラーツの現代音楽アカデミー「インパルス」で『ドリーム・ワーク』(18)が初演され、21年にはエルンスト・フォン・シーメンス音楽財団奨励賞を受賞。『ケース・ホワイト』と『ケース・ブラック』(17)では第二次世界大戦時のユーゴスラヴィアにおける枢軸国の攻撃を示唆するなど、音・音楽と政治的事象との関係に関心を抱く。そうして自作を社会的コンテクストに置きながらも、電子音響を柔軟に用いたその音楽はけっして重苦しくなく、肉厚であっても見通しのよいテクスチュア、反抗的なまでの生命力をそなえており、威圧感や荘重さとは無縁の力強さは爽快感さえ呼びおこす。
[平野貴俊]
1986年鹿児島生まれ。ドイツ、ベルリン在住。お茶の水女子大学で哲学を専攻。在学中より細川俊夫に作曲を師事。2009年大学卒業後渡独。ケルン音楽舞踊大学でヨハネス・シェルホルン、およびハンス・アイスラー音楽大学(ベルリン)でハンスペーター・キーブルツに作曲を師事。13年度ローム ミュージック ファンデーション奨学生。武生作曲賞受賞。第7回クリストフ・デルツ作曲コンクール優勝。ケルンムジーク、西部ドイツ放送、エクラ音楽祭、トンヨン国際音楽祭、ロワイヨモン財団などから作曲の委嘱を受ける。新日本フィルハーモニー交響楽団、南西ドイツ放送交響楽団、マーラー・チェンバー・オーケストラ、アンサンブル・ムジークファブリーク、シュラークカルテット・ケルン、アンサンブル・アスコルタ、アンサンブル ベルリン・ピアノパーカッション、アンサンブルKNMベルリンらにより、作品は日本、ドイツ、フランス、韓国、アメリカなどで演奏されている。
東京に生まれる。15歳ころに陸軍の宿舎で聴いたリュシエンヌ・ボワイエの『聞かせてよ愛の言葉を』で音楽に目ざめ、1948年から清瀬保二に作曲を師事。50年ころ、湯浅譲二らと芸術家団体「実験工房」を結成、劇音楽、放送用音楽、テープ音楽も発表する。ラジオで耳にしたストラヴィンスキーが称賛した『弦楽のためのレクイエム』(57)、ユネスコ国際音楽評議会主催のコンクールで入賞・受賞した『環礁』(62)、『テクスチュアズ』(64)、そしてニューヨーク・フィルハーモニック創立125周年を記念して委嘱された琵琶、尺八、オーケストラのための『ノヴェンバー・ステップス』(67)で国際的な評価を確立、日本の作曲家として未曾有の名声を獲得した。前衛的技法を独自に応用した60年代までの作品は、ときに峻厳な印象を与えるが、70年代後半以降のとりわけ水、夢、雨に着想を得た作品では、瑞々しく豊麗で耽美的な響きを追求。ポップで洒脱な「うた」のシリーズ、100以上の映画、放送用音楽の作曲、現代音楽祭「今日の音楽祭」の企画・構成(73~92)、サントリーホールの国際作曲委嘱シリーズの監修(86~98)を通して、日本の音楽文化に果たした貢献は多角的かつ厖大である。
[平野貴俊]
グラーツ出身。グラーツ音楽演劇大学でヴォルフ(ピアノ)、エレード、ゲスタ・ノイヴィルト(作曲)、ウィーン音楽演劇大学大学院でチェルハに師事。ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加(1980、88、90)、IRCAMで研修を受ける(91)。『弦楽四重奏曲第1番』(97)以降、ほぼすべての作品に微分音と倍音列的な響きを導入。クラングフォルム・ウィーンが初演した代表作『in vain』(2000)では徐々に照明を落とし、『弦楽四重奏曲第3番 In iij. Noct..』(01)では会場を終始暗闇に包みこむなど、協和音と不協和音、平均律と純正律、光と闇といった対比を利用しながら気高く超然とした、だが同時に奇怪で不気味な音世界を展開。バーゼル音楽院教授(05~13)を経て13年、ミュライユの後任としてコロンビア大学教授に就任。元来の政治・社会への関心は2人のソプラノのための『フクシマ』(11)、トランペット独奏のための『息ができない』(15)にも表れているが、15年にはBDSM(嗜虐的性向)の教育家モレーナ・ウィリアムズと結婚、音楽界を超えてアメリカの文化芸術界に話題を振りまいた。サントリーホール国際作曲委嘱シリーズでは『ヴァイオリン協奏曲第2番』(17)を作曲。
[平野貴俊]
パレルモ(イタリア)出身。ほぼ独学で作曲を始め、早くも10代半ばの1962年に生地の現代音楽祭で作品が紹介される。その後ローマでエヴァンジェリスティに師事、ミラノ(74~83)、ペルージャ(83~87)、フィレンツェ(87~96)の各音楽院で教え、ボローニャ市立歌劇場芸術監督を務める(78~80)。ヴァイオリンのための『6つのカプリス』(1975~76)、フルートのための『遠方の微風(オーラ)へ』(77)など、ノイズや特殊奏法を用いた初期の独奏および室内楽作品で注目され、とりわけフルートの特殊奏法の開拓に貢献。3部作の管弦楽曲『同心円の詩にもとづいて』(87)では闇夜の森を思わせる自然界の音、声と8楽器のための『無限の黒』(98)では呼吸や鼓動に似た音の模倣を通して、音と沈黙のあわいに分け入っていくような独特の音響世界を現出させ、夢とうつつのあいだを行き来するかのような感覚を味わわせる。初期から劇音楽、また過去の音楽遺産にもとづく創作にも力を注ぎ、バレエ音楽『ヴェニスに死す』(91)はJ. S. バッハの作品の書き直しのみで構成されている。2023年にはハンブルク州立歌劇場でオペラ『ヴィーナスとアドニス』が初演される予定。
[平野貴俊]
ロンドン出身。ヴァイオリンを学びエディンバラ大学を卒業、カールスルーエ音楽大学でリームに師事(1991~94)、エディンバラに戻りナイジェル・オズボーンのもとで博士号を取得(94~97)。97年以後ベルリンに在住。『辰砂色』(99)、『臙脂色』(2004~05)など、赤色の種類を題名に用いた作品群が示唆するように、その作品は演奏者への詳細な指示を通して、聴く人に音そのものの質を視覚・触覚の対象と同様にはっきりと感知すること、音が生成し動いてゆく様を虚心坦懐に鑑賞することを促す。オルゴールやホイッスルをときに用いた静かで禁欲的な音楽から出発したが、『dichroic seventeen』(1998)以降は鋭く暴力的な響きも使用。『ストレータム』(2010)、『スティル』(11)では動的なセクション、『ステーシス』(11)では多彩な音色も登場させ、『ヴォイド』(13~14)ではこれらが総合されることで、緊迫感と立体感に満ちたスリリングな音楽が展開される。ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習などで定期的に教え、ハノーファ音楽演劇メディア大学教授(12~14)。19年にはエルンスト・フォン・シーメンス音楽賞を受賞した初の女性作曲家(2人目は22年のオルガ・ノイヴィルト)となった。
[平野貴俊]
グラーツ出身。ピアノとトランペットを学び、トランペット奏者を目ざすが交通事故で顎を痛め、作曲を始める。伯父ゲスタ・ノイヴィルトに学んだあとサンフランシスコ音楽院で音楽、また同地のアート・インスティチュートで絵画・映画を専攻、ウィーン音楽演劇大学でウルバンナー、カウフマン、ツォーブルに師事(1987~93)。パリでミュライユに学びIRCAMで研修を受ける(93~94)。91年、作家イェリネクとの共作によるミニ・オペラ『身体的変化』と『森』がフラー指揮クラングフォルム・ウィーンにより初演され注目を集める。巧みな楽器法によって器楽音と電子音響を融合させた「両性具有的」な音を初期から導入、『クリナメン/ノードゥス』(97)がブーレーズによって初演され国際的名声を獲得、やはりブーレーズの指揮により初演されたトランペット協奏曲『...miramondo multiplo...』(2006)では光彩陸離たる音響が展開される。デイヴィッド・リンチの同名の映画にもとづくミュージック・シアター『ロスト・ハイウェイ』(02~03)など領域横断的創作も多く、オペラ『オーランドー』(17~19)はウィーン国立歌劇場が上演した初の女性作曲家の作品として話題となった。
[平野貴俊]
ヘーマー(ドイツ)出身。ベルリン芸術大学でゴールドマンとゲスタ・ノイヴィルトに師事、カールスルーエ・アート・アンド・メディア・センターでタウベに、またベルリン工科大学で音響合成とアルゴリズムによる作曲を学ぶ。指揮も行い、97年にみずから設立した現代音楽アンサンブル「アンサンブル・モザイク」やクラングフォルム・ウィーン(KFW)と共演。ハンス・アイスラー音楽大学ベルリン(2002~04)、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習などで教える。2000年ころから『骨』(1999~2000)や『果物』(06)といった身近な物をタイトルに据えた作品を書き始め、『油1』(01)辺りから、微分音を含む蠕動 ないし痙攣を思わせる短い音型を多用。キーボードやドラムセットが効果的な背景として機能し、極度に緻密なシステムが、その緻密さゆえに自壊してゆくといった様を想像させる音楽を書くようになる。KFWがその3分の2を初演した、同手法の集大成ともいえる『倉庫1~6』(08~13)では量感と熱気が見事に引きだされている。コロナ禍を挟んで創作された大作『行列』(15/20)を経て、『油脂』(19)などの近作では微分音を含むふくよかな和声が呼吸するように交替する。
[平野貴俊]
ウィーン出身。ウィーン音楽演劇大学でウール(作曲)、プルジーホダ(ヴァイオリン)に師事し、ウィーン大学で哲学とドイツ学を修め博士号を取得(1950)。ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加(56、58、59)。シュヴェルツィクとともにアンサンブル「ディ・ライエ(列)」を設立(58)、ヴェーベルンや同時代の作曲家の作品を紹介し、指揮者としても活躍。ウィーン音楽演劇大学で教鞭を執り(59~88)、クラングフォルム・ウィーンの会長を務めた(94~99)。新古典主義的な作風を経てセリー、点描的書法を一時的に用いるが、オーケストラのための『鏡1~7』(60~61)では新ウィーン楽派的な乾いたモノクロームな音楽に平面的な響きを大胆に導入。広く知られるベルクのオペラ『ルル』第3幕の補筆(62~78)と並行して作曲された最初のオペラ『バール』(74~80)ではポピュラー音楽の要素も採り入れるなど、様式、音色を多様化させた。2000年以降は、オーストリア音楽界の長老として独墺の主要なオーケストラから定期的に委嘱を受けており、『インスタンツ(瞬間)』(08)や『夜』(13)では熟練の手腕を発揮、迫力のある硬質の響きをオーケストラから引きだした。
[平野貴俊]
画家の母と彫刻家の父の息子としてアテネに生まれ、1963年以降パリに在住。郊外の都市サン゠ドニのクラブで働くかたわら、クセナキスのアドヴァイスを受けドメーヌ・ミュジカルのリハーサルを見学。71年に初のミュージック・シアター『降霊術師イエロニモとその鏡の悲話』がフェスティバル・アヴィニョンで初演され、以後器楽作品・オペラと並行してこれまでに20以上のミュージック・シアターを創作。76年、パリ郊外のバニョレで「演劇と音楽のアトリエ(ATEM、現T&M)」を設立、同時代のミュージック・シアターおよびオペラの普及に携わる。それ自体では意味をもたないさまざまな音素を声がときに奔流のような勢いで発する、演劇と音楽の中間を志向するようなその音楽の典型は、女声独唱のための『レシタシオン』(78)である。器楽曲でも、楽器は話し声さながら細切れの音型を繰り返す。ミュージック・シアターへの傾注にもかかわらず、並行して器楽曲を書き続けたため、フランスの現代音楽界で孤立することはなかった。2000年前後からは独墺でも注目され、オーケストラのための『エチュード1~7』(12~15)は7年かけてケルン、ミュンヘン、エッセンで初演された。
[平野貴俊]
リンツ出身。同地のブルックナー音楽院(1972~75)を経てグラーツ芸術大学でジャズ(75~83)、次いで作曲(82~88)をハースらに、個人的にゲスタ・ノイヴィルトに師事。その間、グラーツ大学で哲学とドイツ学も学んだ(76~81)。ジャズ・アンサンブルでピアニスト・作曲家・編曲家として活動し(77~81)バンドや即興演奏グループで電子音響を担当。ハースの依頼で作曲した弦楽四重奏曲『時の仮面』(86)でデビュー。その創作における柱は2つのシリーズ「差異/反復(DW)」(98~)と「モナドロジー」(2007~)であり、ドゥルーズの同名の概念を参照する前者は現在31曲、やはりライプニッツの同名の思想にもとづく後者は40曲におよび、ジャズ・バンドを含むさまざまな編成と長さによる本作品群は、ドナウエッシンゲン音楽祭などで初演されている。あたかもDJがターンテーブルを操作するかのするようにカットや編集を加えて反復を行う「差異/反復」の音楽は、「モナドロジー」でさらなる複雑化をみせるが、いずれも通常反復という手法から予期される恍惚感や高揚感とは無縁の乾いた感触をもつ。グラーツ音楽院(1984~89)、グラーツ芸術大学で教え(89~)2003年から教授。
[平野貴俊]
シャフハウゼン(スイス)出身。同地の音楽院でピアノを学んだのち、ウィーン音楽演劇大学でハウベンシュトック゠ラマティに作曲、スウィトナーに指揮を学ぶ(1979~83)。チェルハが開始した「ディ・ライエ」を引き継ぐ形で85年、現代音楽アンサンブル「クラングフォルム・ウィーン」を設立、芸術監督(~92)として指揮も行う。『キアロスクーロ』(83/86)など初期の作品では、短い音の無窮動的で急速な連なりと、そこから浮き出てくるかのような旋律的断片を重ね合わせ、緩急の知覚を麻痺させるような効果を生む。対照的に『弦楽四重奏曲第3番』(2004)では沈黙のなか、音の鳴り響きの質に焦点が当てられ、『ファオス』(06)ではオーケストラを使って音の多様性を引き続き追求しつつ、無窮動的な音型を復帰させて音楽に推進力を与えており、響きと時間の扱いは近年さらなる円熟をみせている。ほぼ3~5年に1作のペースで創作されている、計8つのオペラないしミュージック・シアターでも評価を高めた。オーストリア音楽界の重鎮であり、グラーツ芸術大学教授(1992~)を長年務め、フランクフルト音楽演劇大学教授(2006~09)、バーゼル音楽院客員教授(07~08)も歴任した。
[平野貴俊]
同名の父の長男としてウィーンに生まれる。商業を学んだのち社交の場でピアニストとしてデビュー。作曲とヴァイオリンを学び、1844年から指揮・作曲を始める。45年に第二市民連隊の楽長に就任。49年の父の死去ののち本格的に地歩を築き、ロシアやフランスでの出演を重ねることで、弟ヨーゼフと並んでウィーンの舞踊音楽界を代表する作曲家となる。63年には帝国兼王国宮廷舞踏会音楽監督に就任。70年代からはオペレッタの創作にも着手した。創作では、ツィーラーらと競いながら父およびラーナーから受け継いだ様式を拡大・発展させ、またリストやワーグナーといった当時の新しい音楽にも関心を示すことで、管弦楽法を深化させた。父および弟の作品とともに、その音楽はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサートの主要な演目をなしており、ワルツ『美しく青きドナウ』(67)、『ウィーンの森の物語』(68)、『皇帝円舞曲』(89)、ポルカ『雷鳴と稲妻』(68)など、一部の作品は父の作品を凌ぐほどの世界的人気を博している。『こうもり』(74)と『ジプシー男爵』(85)も、現在に至るまでオペレッタの人気レパートリーとして定着している。
[平野貴俊]
ウィーン出身。ウィーン大学でアドラー(音楽学)、グレーデナー(和声)、ナヴラーティル(対位法)に師事し、ルネサンスの作曲家イザークを扱った研究で博士号を取得。1904年からシェーンベルクの忠実な弟子となり、私的演奏協会で頻繁に作品が演奏される。しかし後にナチスはその作品を「退廃音楽」の一部とみなし、独墺での出版・演奏を禁じた。30年代半ばまでは指揮者としても活動したが、第二次大戦後まもなくアメリカ兵による誤射を受けて落命した。ブラームス的な色彩の濃い書法から出発して無調に進み、歌曲を中心としながら静謐でときに極度に短い音楽を作曲。その後こうした簡潔さからは離れ、シェーンベルクの後を追って12音技法を一貫して用いるようになる。『交響曲』(27~28)にはカノンやシンメトリー、ピアノのための『変奏曲』(35~36)には彼の代名詞ともなった点描的書法が典型的な形で現れている。半音の頻出、静寂の多用、強弱の極端な対比は、謹厳で理知的な印象を音楽に与えている。技法上の厳格さは戦後ブーレーズらによって高く評価され、トータル・セリアリズムの歴史的バックボーンとして重要な役割を果たした。
[平野貴俊]
ウィーン出身。家庭教師にピアノを学び公務員となったあと、1904年、ヴェーベルンとほぼ同時期にシェーンベルクに入門。元来持ち合わせていた文学や演劇に対する関心を拡げ、ウィーンのさまざまな芸術家と交流する。14年ころから構想を行っていたビューヒナーの戯曲にもとづくオペラ『ヴォツェック』(17~22)が25年にベルリン国立歌劇場で初演され、その成功により国際的な名声を確立。ヴェーデキントのスキャンダラスな戯曲によるオペラ『ルル』(29~35、未完)、『ヴァイオリン協奏曲』(35)を作曲するが、まもなく敗血症により死去。創作では12音技法に必ずしも固執することなく、無調の可能性を開拓し続けた。厭世的、頽廃的ともいえる雰囲気をたたえながらも、陰翳ゆたかな抒情を放つその音楽は現在も人気が高い。とりわけ2作のオペラは20世紀オペラの古典たる位置を得ており、『ヴォツェック』は世界中で頻繁に上演されている。ヴァイオリン、ピアノと13の管楽器のための『室内協奏曲』(23~25)や弦楽四重奏のための『抒情組曲』(25~26)では、近しい人の名前を音名に置き換え、これを応用して作品を組み立てるといった緻密な操作も行われている。
[平野貴俊]
1946年オランダのユトレヒト生。10代でルネサンス音楽、バッハ、ラヴェル、セロニアス・モンクに傾倒。ハーグ王立音楽院でヤン・ファン・ダイクなどに音楽理論を、サイモン・アドミラルにピアノを師事。69年から母校で教鞭をとる。70年代、即興と作曲の要素を組み合わせたDigilou trioを結成。作曲は基本的に独学で、ジャズへの憧れとチャールズ・アイヴズの音楽との出会いが、ワーへナールに包括性の価値を教え、調性と無調性の統合を試みる彼の傾向を助長した。彼のアイデアは複雑であるが、常に明快でわかりやすい方法で提示される。ハーグ派の作曲家にとって重要人物であるストラヴィンスキーだけでなく、モンクやジョン・コルトレーンからも影響を受ける。代表作に、『Praxis』(73)『Liederen』(76)『Tam Tam』(78)『Metrum』(84)『Solenne』(92)『Galilei』(99)『Tango Waltz』(2004)が挙げられ、中にはヴォルハルディング管弦楽団やアイス・ブレーカー、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団などの委嘱作品も含まれる。これまで、ケース・ファン・バーレン賞やマティス・バーミューレン賞など、多数受賞。最新作には、『Azulejos』(ピアノ三重奏曲)や『Fiorellini Musicali』(ピアノ独奏曲)などがある。
ウィーン出身。ハンガリー人の父とチェコ人の母をもち、ユダヤ教信仰のなかで育つ。銀行員を務めながら音楽を嗜み、ツェムリンスキーに作曲を師事。教育にも携わり、1904年にヴェーベルンとベルクが入門。18年に「私的演奏協会」を設立し、排他的な形ながら自作を含む国内外の同時代音楽を紹介。ナチスによるユダヤ系人物の排斥を受けて、ベルリン芸術アカデミーでの教授職を33年に辞し渡米。以後ロサンゼルスでの死去まで作曲と教育を行う。ブラームスやワーグナーに通じる濃密な抒情を滲ませた『浄められた夜』(1899)、『グレの歌』(1900~01、01~03、10~11)第1部などを経て、08年以降無調を採用。「音色旋律」を用いた峻厳な佇まいの『5つの管弦楽曲』(09)には仄暗い色調が宿る。20年代初頭に考案し、『5つのピアノ曲』(20、23)以降用いた12音技法は自身の教育を介して絶大な影響力を獲得し、ブーレーズらが第二次世界大戦後推進したトータル・セリアリズムの母体となった。信仰表明ともいえる厳粛なオペラ『モーゼとアロン』(30~32)、多様な解釈が行われてきたシュプレヒシュティンメ・パートを含む遊戯的な『ピエロ・リュネール』(12)も重要作とみなされている。
[平野貴俊]
現チェコのイフラヴァ付近の村カリシュテでユダヤ系の家庭に生まれる。ウィーン楽友協会音楽院でロベルト・フックスらに師事し(1875~78)作曲を始める。指揮も在学中から始め、カッセル、ライプツィヒ、ブダペストの各劇場を経て、91年にハンブルク市立劇場首席楽長、97年にはウィーン宮廷歌劇場監督に就任。ヨーロッパ各地で客演を重ね、1907年には渡米してメトロポリタン歌劇場、次いでニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。多忙な指揮活動の合間を縫って、夏に集中して作曲を行い、管弦楽の伴奏による歌曲と11の交響曲(番号なしの『大地の歌』、未完の第10番を含む)を残した。交響曲では声楽、自然の音の模倣、特殊な楽器(ハンマー、マンドリンなど)といった革新的要素を導入。深い懊悩から純朴な夢想に至るまで、人間の生におけるあらゆる体験を真に迫って描きだすかのような、劇的で力強い音楽を作りあげた。60年代以後、生誕100周年、バーンスタインらによる交響曲全集の録音、アドルノの論考などをきっかけとして世界的に注目を浴び、80年代前後には日本にもいわゆる「マーラー・ブーム」が到来、歌曲を含むほぼすべての作品が演奏会のレパートリーとして定着している。
[平野貴俊]
カナダのオンタリオ州出身。アムステルダム音楽院で学び、リチャード・エアーズに師事。「他の音楽」の音が、彼の作曲においてしばしば不可欠な要素となっている。作品はこれまで、アイヴズ・アンサンブル、オルガニストのハンス゠オラ・エリクソン、アスコ・シェーンベルク・アンサンブル、トロンボーン奏者のヨルゲン・ファン・ライエン、ニュー・アンサンブル、フィリップ・トーマスとコンティニュアム・コンテンポラリー・ミュージック・アンサンブル、オルガニストのオリヴィエ・ラトリー、ウィニペグ交響楽団、トロント交響楽団、ヨーテボリ・オペラ、ヤン・ハーヘ、ギリシャ国立オペラなどによって世界各地で演奏された。また、ハダースフィールド現代音楽祭やガウデアムス国際音楽週間など、多くの音楽祭でも取り上げられてきた。現在アムステルダム在住。ハーグ王立音楽院で教鞭をとり、オルガン専用のコンサート会場であるオルゲルパークにて芸術アシスタントを務める。特に、ハイパーオルガン(一台または複数の伝統的なパイプオルガンに、音の生成を直接かつ簡単に操作できる特別なハードおよびソフトウェアを装備したもの)のための作曲を専門とする。
特にオペラを好むカナダの作曲家。モントリオールのマギル大学で作曲とバロック声楽を学ぶ。リカード財団とカナダ芸術評議会の奨学生として、2011年アムステルダム音楽院で修士号を取得。13年フライブルク国立音楽大学で高等研究課程修了。作品はこれまで、アンサンブル・モデルン、アンサンブル・ガラージ、アスコ・シェーンベルク・アンサンブル、ボッツィーニ四重奏団、サラ・マリア・サン、ヨハネス・フィッシャーなどによって、ヨーロッパや北米で数多く演奏されてきた。また、ウルトラシャル音楽祭、ポツダム・サンスーシ宮殿音楽祭、モンペリエ・ラジオ・フランス音楽祭、ハダースフィールド現代音楽祭、ザグレブ・ビエンナーレなど多くの音楽祭でも上演。演劇作品には、作曲コンクールNeue Szenen Ⅲの賞としてベルリン・ドイツオペラから委嘱された悲喜劇オペラ『My Corporate Identity』(17)、ノイケルン・オペラのベルリン・オペラ賞を受賞したSFオペラ『Prothesen der Autonomie』(18)などがある。14年にカナダ芸術協議会の最も重要な作曲賞であるジュール・レジェ賞、18年にピアノ五重奏曲『Quicksilver』で著名なグラハム・ソマー賞を受賞。現在、ドルトムント歌劇場のコンポーザー・イン・レジデンスを務める。
ルーマニアのブライラに生まれる。10歳のころギリシャに移り音楽に関心を抱き、アテネでピアノと音楽理論を学ぶ。第二次世界大戦勃発後、民族解放戦線(EAM)でレジスタンスに参加、顔面を負傷する。アテネ工科大学卒業後、偽造パスポートを使ってイタリアへ行き、アメリカへの経由地とする予定だったパリに定住。1947年、ル・コルビュジエの設計事務所に入り、ブリュッセル万博フィリップス館(58)などを手がける。その間オネゲルとミヨー、またパリ音楽院でメシアンに師事。55年『メタスタシス』(53~54)がドナウエッシンゲン音楽祭で初演され、本格的なキャリアを開始した。セリー音楽への批判から出発、確率論を応用した推計的手法にもとづき、コンピュータにも依拠しながら創作。音楽と科学を架橋する姿勢は国際的に高く評価され、数々の栄誉を受けた。手法の専門性にもかかわらず、壮大で鮮烈な音響を駆使したその作品は広範な聴衆を惹きつけ、演奏家にも高い人気を誇る。古代演劇的な『オレステイア』3部作(65~66/87/92)、音と光のイヴェント「ポリトープ」など演劇・総合芸術的作品も残す。サントリーホール国際作曲委嘱シリーズでは『ホロス』(86)を作曲した。
[平野貴俊]
イタリアの指揮者、作曲家。世界各地の著名な音楽祭やホールに定期的に出演し、これまでに名だたるオーケストラを指揮。現代音楽の主要な解釈者の一人として知られる。新進作曲家の作品初演に注力するだけでなく、現代の偉大な作曲家たちとも深く永続的な絆を築き、ヴォルフガング・リームやルイジ・ノーノ、ジョルジュ・アペルギスなどの多数の世界初演を指揮。オペラ上演にも深く関わり、ヘルムート・ラッヘンマンやアルバン・ベルクらの作品を指揮するほか、フィリップ・ブスマンズ、ブリス・ポゼ、ベルンハルト・ラングなどのオペラを初演し、好評を博す。録音も多数。
これまでにベルリン・コーミッシェオーパーやウィーン・フォルクスオーパーに所属し、様々なオペラの幅広い役を演じる。現代音楽にも注力し、新作オペラのほか、アリベルト・ライマンやヴォルフガング・リームなどの作品初演に多数参加。アンサンブル・モデルンやアンサンブル・アンテルコンタンポランとも定期的に活動。リートおよびコンサート歌手として、ベルリン・フィルハーモニーやウィーン楽友協会など著名なホールでの公演に出演し、シュテファン・ショルテスやペーター・ルンデルなどの指揮者と共演。2022年秋よりチューリヒ芸術大学声楽科主任講師。
1958年大阪生まれ。81年東京藝術大学、89年フライブルク国立音楽大学ソリスト科卒業。ソリストとして、シュトックハウゼン、ケージ、ノーノ、カーゲル、メシアン、ラッヘンマン、ホリガー、リーム、細川俊夫、藤倉大、望月京など20世紀を代表する作曲家たちから厚い信頼を得ており、曲の献呈を受け数多くの作品を世界初演。これまで、ツァグロツェック、スローン、シュトックハンマー、大野和士、高関健、ザールランド放送響、ケルン放送響、バイエルン放送響、シュトゥットガルト州立歌劇場管、ボルドー国立オペラ管、RAIイタリア国立放送響、東京フィル、大阪フィル、都響などと共演。ベルリン音楽週間、ザルツブルク音楽祭、ウィーン・モデルン、ルツェルン音楽祭、パリの秋芸術祭、ムジカストラスブール、ハダーズフィールドフェスティバル、ミラノ・トリノ国際音楽祭など、数多くの音楽祭でも演奏。86年、ダルムシュタットにてクラーニッヒシュタイナー音楽賞、92年度青山音楽賞特別賞、2004年、イシハラホール公演「三井の晩鐘」にて、第4回佐治敬三賞受賞。後進の指導にもあたり、1992年よりカールスルーエ国立音楽大学教授。京都市立芸術大学客員教授。YAMAHAアーティスト。
東京藝術大学卒業および同大学院修了。ドイツのダルムシュタット国際現代音楽夏期講習で奨学生賞を受賞。ビクターエンタテインメントよりCDをリリース。2014年、東京現音計画のメンバーとして、サントリー芸術財団第13回佐治敬三賞を受賞。これまでに、ソリストとしてオーケストラとの共演や、国内外の音楽祭への参加のほか、正倉院復元楽器の演奏、古楽器、和楽器との共演、ジャズピアノとのデュオを行うなど、時代やジャンルを超えた打楽器演奏の可能性にアプローチしている。作曲活動も継続的に行っており、国内外で演奏されている。
5歳よりマリンバを始める。京都市立芸術大学音楽学部打楽器専修卒業。1996年から2001年までドイツ国立カールスルーエ音楽大学に留学。在学中、ドイツ・バーデン文化財団より奨学金を受ける。ドイツ国家演奏家資格試験に特別優秀賞にて合格。同大学院、同ソリスト科卒業。帰国後、5 度のリサイタルを開催。現在はオーケストラに客演するほか、“地域に根ざした音楽”をモットーに室内楽活動や後進の指導、ワークショップなどの音楽活動を展開。10年から打楽器奏者、中村功主宰の打楽器アンサンブルプロジェクトに参加し好評を博す。17年兵庫教育大学大学院学校教育研究科修了。大阪芸術大学、奈良県立高円芸術高等学校音楽科、和歌山太陽保育園各非常勤講師、関西マリンバ協会会長。
同志社女子大学音楽学科および専修課程修了。在学中に日本打楽器協会新人演奏会にて最優秀賞および現代音楽演奏音楽コンクール“競楽Ⅳ”第2位入賞。ドイツ国立カールスルーエ音楽大学を最優秀にて卒業。その後、インターナショナル・アンサンブル・モデルン・アカデミー(Internationale Ensemble Modern Akademie)にて研鑽を積む。2006年ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習にてクラーニヒシュタイン音楽賞(Kranichsteiner Musikpreis)受賞。フェスティバル・ムジカ、ハダースフィールド現代音楽祭、アルシペル音楽祭、ドナウエッシンゲン音楽祭などに出演。アンサンブル九条山メンバー。相愛大学非常勤講師。