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サントリー地域文化賞 | 地域文化を考える/インタビュー

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コスモポリタン・シティをめざせ

小松 左京氏

Sakyo Komatsu

作家

[プロフィール]
1931年大阪生まれ。京都大学イタリア文学科卒業。大ベストセラーになった「日本沈没」(日本推理作家協会賞)や「首都消失」(日本SF大賞)、「日本アパッチ族」「未来の思想」ほか著書多数。1970年の日本万博をはじめ、つくば博、花博などのプロデュースも手掛ける。

「地域文化ニュース」第15号(1996年7月)掲載

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――先日(4月25日)、全国紙5紙が共同で開催したシンポジウム「21世紀のふるさとづくり」で、小松先生が基調講演をなさったのを紙面で拝見しました。5紙の共通テーマに、地方の問題が取り上げられていることに、やはり時代の流れを感じました。


小松 だいぶ前からそういう流れはあったけれど、それもあたり前のことなんですね。

  世界情勢と地方

 20世紀後半というのは、19世紀以来の欧米列強の植民地支配が終わり、太平洋の小さな島にいたるまで、世界中が近代国民国家をつくる時代だった。その国民国家、ネーション・ステートの「ネーション」というのは、もともとはラテン語の「ナスコール」、「生まれる」という意味なんです。
 一方で、19世紀後半、明治になって近代国民国家をつくった日本ですが、それ以前の約250年間、350以上の藩に分かれていた。日本がアジアで一番早く近代的な中央集権国家をつくったのは、欧米の巨大な力に対抗するために、分散していた権力をひとつにまとめる必要があったからなんです。だけど、日清・日露戦争を経て第二次大戦も終わり、米ソの冷戦も終わった今は、そんな大きな権力、力はいらなくなってきた。国家に権力を集中させる意味が薄れてきているんです。だから、大政奉還でいったん中央に渡した地方の権限を、もう一度地方に返してくれという動きが出はじめたんやね。
 竹下首相のふるさと創生から、自治省の方も熱心に地方の活性化をやりはじめ、今度のシンポジウムも自治省の広報予算をもとにしている。しかし、まだどうもトップダウンの傾向が強い。そうじゃなくて、もっと地域同士の横のつながりのネットワークをつくっていくような動きになってほしいね。

  「阪神文化復興会議」設立

――小松先生は、昨年12月に発足した「阪神文化復興会議」の発起人でいらっしゃいます。これは、今度の震災復興を神戸や兵庫県だけの問題として捉えずに、大阪も視野に入れて取り組もうというもので、まさしく地域と地域を結ぶネットワークづくりの試みですね。


小松 もともと上方というのは大藩がなくて、排他的な地域ナショナリズムがあまり生まれなかったし、大消費都市・江戸に送る物産の集散地として、町人、商人がわりと自由に行き来していたんです。明治になってからは、大阪・神戸間にかなり早い時期から私鉄の交通網が発達したから、阪神間には独特な文化が形成されてきたという背景もあるんですよ。

――震災からの復興の核に文化を据えられたのは、どういうところからなのでしょうか。


小松 震災で大きな被害を受けて、役所の方では、食べ物や毛布、崩壊した建物の修理で手いっぱいで、これまでの文化予算は大幅に削られてしまったんですな。そして一方では、震災復興計画がどんどん形を現していった。
 だけど僕らには、文化という、地域の個性を形づくるものを置き去りにして、本当の地域の復興を考えることはできないんじゃないかという思いがあった。
 それに僕らは、終戦後にドッと出てきた活字を貪るように読んだことを覚えている。あの頃、文化的な飢えと言えばいいのか、敗戦で呆然自失し、スカスカしていた心に、読書の喜びがしみこんでゆくような感じがしたものです。だからこそ、文化の復興も大事やという烽火をあげないかん、と思ったんですね。

  おにぎりも文化

――文化予算を議論する際に、「おにぎりか文化か」という二者択一はおかしい、両方必要なんだという意見がありますよね。


小松 うん。だけどね、僕はそんなに大上段に構えなくてもいいと思う。むしろ、「おにぎりも文化やないか」と思う。たとえば神戸の加納町のバーが、かなり無理して早くに店を開けはるわけや。そうすると、その地域の人たちがものすごう喜ぶんやね。おにぎりもそうです。単なる米の飯やなくて、あの塩味と海苔の香りに、ホッと安心するような懐かしさや嬉しさを感じる。高級な文化だけやなくて、そういう身近な親しみのある文化も本当に大事やと思うんですよ。

――懐かしいとか嬉しいとか、人を喜ばすことのできるものは、すべて文化なんですね。


小松 僕は以前から、文化にはポップとハイ・グレードの間にファミリー・カルチャーというのがあるのではないかと考えているんです。
 神戸は昔からジャズのメッカだし、阪神間はママさんコーラスが盛んで、ピアノの普及率もすごかった。そういう地域の人たちの生活に根ざした、歴史的記憶を呼び覚ますような文化が、精神的なショックを慰め、未来に対して勇気づけてくれるんやないか。それが全体の復興にもつながるんやないかと思う。そのためには、地域の歴史を掘り起こし、文化的な土壌を知ることが重要なんです。
 神戸はね、日本人だけでつくった街やあらへんのです。異人館通りのみならず、街全体が日本人と外国人がいっしょにつくった街なんです。『こちら関西』(文藝春秋)にも書いたけど、第二次大戦中、神戸に空襲があるということを聞いて、中立国の人たちが集まってルーズベルト大統領に手紙を出したそうです。「神戸は日本人だけの街ではありません。私たちが愛した街でもあります。だからどうぞ空襲をしないで下さい」と。これは、届かなかったらしいけど、ええ話やないですか。
 だから、神戸の文化というのは外国人もいっしょになってつくってきたということも忘れてはいかんのです。

  愛される街・神戸の秘密

――今度の震災では、今も神戸という街が、いかに広く熱く人々から愛されているかを実感したように思います。その秘密というのは何なのでしょうか。


小松 それは、さっきも言ったように神戸がコスモポリタン・シティだからでしょう。
 神戸の歴史はそれほど古くはない。兵庫の方は福原の都があったりして歴史も古いが、神戸は明治初年に開かれた街。たとえば、香港が好きだという人も多いけど、あれもたかだか150年ぐらいの歴史しかない。だいたい、歴史の古い街、ヒストリカル・シティというのはナショナリズムと結びついて排他的になりがちなんです。
 一方で、香港や神戸のようなコスモポリタン・シティには、よそ者を疎外するという雰囲気がほとんどない。誰にとっても住みよい街なんやね。

――最後に、地域文化活動に携わっている方々へメッセージをお願いいたします。


小松 もう、東京一極集中の時代は終わった。巨大投資効果が薄れてきたぶん、それぞれの地方の頑張りがものをいう時代になりました。
 世界や日本のいろんな場所との交流を深め、お互いの文化を理解し合い、受け入れ合うことによって、神戸のように、よそから来た人が気にいって住み着いてしまうような街づくりをして欲しいと思います。
(所属・肩書きはインタヴュー掲載時のもの)

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