川口 幹夫氏 Mikio Kawaguchi 日本放送協会会長 [プロフィール] 「地域文化ニュース」第12号(1993年3月)掲載 |
――今日は、日本放送協会の川口会長からお話を伺わせて頂けることになりました。お忙しい中、本当にありがとうございます。 地方の時代映像祭 川口 きっかけは、「地方の時代映像祭」でしたね。確か1972年だったと思うのですが、神奈川県の長洲知事がおいでになって、「地方の時代映像祭」を始めたいのだけれど協力してくれないか、と。今のテレビは東京からの一方通行で、地域の番組はほとんど全国の人の目に触れる機会がない。だから、各地で制作された優れた番組を一堂に集めて、地域文化の向上のためにも、テレビを地域の人たちにもっと利用してもらうためにも、映像祭をやりたいということでした。当時僕はNHKの放送総局長だったので、「たいへん結構でしょう」ということで、積極的に乗っかっちゃたんです。 映像祭では、番組コンクールを大きな柱にすることになりましてね。全国の124の民放局と、NHKの地域放送局から番組を募集して、「地方の時代賞」を選ぶコンクールを始めたのです。その中で、第1回目か2回目に、北海道テレビが作った「蝋管は歌った ―札幌ミュージカルの子どもたちの155日の記録」というドキュメンタリーが大賞を受賞しました。 これは、ポーランドの学者が研究のためにアイヌの歌を吹き込んだ蝋管が発見されたのですが、それを元に札幌の子どもたちがミュージカルを作ってゆく過程を記録したものだった。僕は受賞したあと見たのですが、ものすごく感動したんですよ。札幌で、しかも全く経験も訓練もない子どもたちがミュージカルを作ってゆく、これは大変なことだと思った。またその姿を、実に克明にカメラが撮っていて、いい作品でした。 こういういい作品でも、地方の民放が撮ったものですから、普段はそれが全国に流れるということはないんです。NHKは全国ネットですから、僕はこれを是非紹介しようと思った。で、全国放送でとりあげたところ、すごい反響がありましてね。 「札幌子どもミュージカル」の細川さんたちも大変喜んで、お手紙を下さったんです。僕もすぐそれに返事を書いた。だいたい手紙魔ですから、僕は(笑い)。「お役に立ててうれしい。また何かあったら、どうぞご連絡下さい」と書いた。これがくされ縁の始まりになりました(笑い)。 札幌の子どもミュージカル ――その後、川口会長はミュージカルの演出や台本にもずいぶんご協力なさってらっしゃいますね。 川口 そのうち僕は、86年にNHKを退任して、N響に行くことになりましてね。すこし時間が出来たわけです。それで、札幌まで一度舞台を見に行ったのです。 なかなか感じのいい舞台でした。だけど僕は、わりとこっぴどく批評したんですね。1時間くらいかなぁ、中身について細かく注文を出した。そしたら、「あんなことを言ったけど、そのままで逃げるのは無責任だ」と言われましてね(笑い)。 しょうがないから、またあれこれ言っているうちに、台本を書くことになりまして、出来たのが「ポロリンタン」というアイヌの子どもたちの物語なんです。 ――私も拝見しましたが、とても素敵なミュージカルでした。 川口 そうですね、なかなかいい舞台に仕上がりましたよね。ところが、この作品をポーランド国営テレビの教育局長さんがたまたま御覧になりましてね。ポーランドでやってくれないか、と言われたんですよ。 これは大変ですよ。で、「どうするの?」って聞いたら、「行きたい」って。「お金は?」って言ったら、「お金なんか、ない」って言うんですね(笑い)。「でも、行きたい」と。 ポーランド側は、向こうでは全部もつけれど、飛行機代だけは自分たちで出してくれと言っている。往復で一人37万円です。小さい子も多いから、親御さんたちも行かなきゃいけない。でもみんな行きたいと言って、とうとう本当に行くことになっちゃった。それで僕も、用心棒兼世話役としてくっついて行くことになったんです。 ポーランド側の相手はテレビ局ですから、少しは内側の事情が分かっている人間がいてよかったように思います。向うのスタッフと大喧嘩もしましたけど、子どもたちのお相手をしたり、とても楽しかったですよ。 ――ところで、川口会長は今では御自身が活動の内側に一歩踏み込んで、地域文化に接していらっしゃるわけですが、それ以前に、外側から御覧になっていた時と現在では、地域や文化に対するお考えに何か変化はおありでしょうか。 放送人としての原点 川口 あぁ、それはありませんね。というのは、僕にはもともと、地域に対する違和感というのが全くなかったんですよ。一極集中型メディアの全国屋としての僕の考え方なりイメージというのと、地域の中で生活している人たちが持つ感情との間には、違和感がないんです。 なぜかと言いますと、僕は鹿児島の山の中の小さな農村の出身なんです。地域社会の枠組の中で育ったから、そこでの生活感情というのは自然に身に付いているのです。だから僕の鹿児島弁なんてのは、日本語よりうまいですよ(笑い)。 それから、NHKに入ってすぐに行ったのが福岡の放送局です。その3年間に各地をぐるぐる回って、地域の人たちがどういう生活をし、何を思い、放送に対してどういう考え方をもっているか、体験的によく分かったと思います。それが僕の放送人としてのひとつの原点になっています。 地域ないしは地域の人がもっている温かみとかぬくもり、その土地の歴史、風土には独特のものがあります。そういうものを伝える義務がテレビにはあると思ったのです。その姿勢は今でもずっと変わりません。 ですから放送人としては、地域に素晴らしいものがいっぱいあるということは、以前から当たり前に思っていました。むしろ、なんでこんなに一極集中になったんだろうと思いますよ。とはいえ、こんなことを延々と続けていれば、人間の生活も社会もおかしなものになってゆくに決まってますよ。だから今、改めてあちこちで見直しが始まって、ふるさと回帰をやったり新しい文化を創ろうとしているんですね。 僕は、テレビは社会を映す鏡だと思っています。社会というのは激しく変化しています。テレビも、この変化に合わせて当然変わってゆくものなんです。ですからNHKでも、僕が会長になってからワァワァ言って、4月からの新番組で実現すると思うのですが、列島リレーニュースとか、地方局で作った番組を全国放送で流すというのを大胆にやっていくつもりなんです。 ――番組の中身だけではなく、放送のシステムも、今後は変化してゆくのでしょうか。 川口 これは各放送局でも違いますし、一概には言えませんけれども、これまでのNHKでは、地方に行った人間をできるだけ短い任期で回転させるようにしていましたが、僕はそれではだめだと思っているんです。1年や2年ではなんにもできませんよ。出来るだけひとつの局に長くいて、そこでいいものを作ってもらい、位だけどんどん上げてゆくようにしようかと思ってるんです。それから、各地域で直接人を採用して、ここで一生頑張るんだという人間を育てるようにもしています テレビの側にとって、もうひとつ問題になるのは、視聴者がどの程度ついて来るかということなんですね。まず、題材そのものが非常にユニークで人の注目をひくものであること、見た結果、ある種の感動を生じてくるものでなければいけません。じっくり腰を据えてその地域を見詰めれば、どこにもその土地独特のものがあるはずなんです。これを見つけて、番組としてうまく料理する力が各地域局に備わってこなければだめだと思います。 ――ありがとうございました。 |