木村 尚三郎氏 Shosaburo Kimura 東京大学名誉教授 [プロフィール] 「地域文化ニュース」第8号(1991年3月)掲載 |
――先ず、先生にお伺いしたいのですが、先生は今の時代をどのように捉えていらっしゃるんでしょうか。 木村 今は、世界的に共通する生き方、技術文明や物質文明など文明を追及することから、その土地にしかない生き方を求める時代に移りつつあるといっていいと思うのです。 つまり、1973年のオイル・ショックから後、世界的に景気の後退が始まって、今までのように技術あるいは工業製品それ自体に驚きとか喜びとか幸せを感じる時代が終わって、それぞれの地方での生き方、ものの考え方、土地ごとのお祭とか都市のたたずまい、食や酒、工芸品、民俗芸能などに驚きや喜びを感じる時代に移ってきているんですね。 ――その土地ごとの生き方ということですが、それが文化ということになるのでしょうか? 木村 そうです。もともと文化という言葉は Cultureの翻訳で、この語源は耕作という意味です。耕作のあり方は土地ごとに違う訳ですから、ローカルな人の生き方自体が文化なんです。だから、地域にこそ文化があるのであって、中央文化という言い方はおかしいんですね。 それから、耕作というのは自分なりに手足を動かして大地を耕し、子孫のために新しくその土地の生き方を創造して行くものです。そして、その収穫物を楽しむことなんです。楽しくないことをするのは文化じゃなくて、これはお勉強なんですよ。 「葉隠」の心 ――今までは、文化というと高級で、難しいものという印象がありましたね。 木村 クラシック音楽なんかは、みんな眉間に皺を寄せて、緊張して聴いていました。それが今はサントリーホールができて、お酒を飲んで音楽を楽しむことができるようになった。お酒と音楽でいい気分になって、デートに誘った女性の方にもちょっと手が伸びる(笑い)。こっちの方がずっと文化的なんですね。 文化を楽しむということは、日本にもかつてはあったことなんですよ。江戸の中期・後期、新田開発がストップした時に、人々は朝顔やバラづくり、盆栽などを楽しんでいた。 ――バラも作っていたんですか? 木村 そう。その他にも、食を楽しみ、今、代表的な日本料理とされているてんぷらやそば、刺身などはほとんどこの時代に生まれたものなんですね。これ以上の米の増産ができなくなり、各地で一揆や打ち壊し、間引が頻発した時期でしたが、人々は真剣にその日その日の生き方を楽しんだんですね。 また、こういう先行き不安定な時代には、人々の間に美意識が必ず生まれてきます。18世紀のはじめ、佐賀の山本常朝は、「葉隠」の中で、“美しく生きる”ということを勧めていますね。朝起きて顔色が悪かったら、頬紅を付けよ。鏡をもって歩いて不愉快な顔をしていないかいつも自分で調べなさい。人に招かれた時は、今日は必ずいいことがあると思って明るい気持ちで行きなさい。そうすれば座も楽しくなり、自分の道も自然に開けてくるから、と。 ――こういう考え方は、現代の日本や欧米の感覚にも非常に通じるものがありますね。 木村 去年、大阪で花博が予想以上に人気を集めたのを見ても分かるように、人々は花も団子も楽しむようになってきた。現代は美しさという観点が大変重要なポイントなんです。文化活動をするうえでも、地域全体を美しくするような活動を忘れてはならないと思います。 ――今は文化活動にも、美意識が必要とされる時代なのですね。 よそ者との共存 木村 その上で私なりに一つ申し上げたいことがあります。それは、よそ者を排除してはならないということです。 全体に今の様子を見ますと、自分のところの地域特性を知りたい、文化を高めたいというだけではなくて、よその土地の様子も知りたいという動きが強いようです。よその土地にでかけ、そこで共通点を見出したり、学ぶべき点を発見したりする。しかし、自分がでかけるということは、よその土地からも人がこっちへ来るということです。その人たちがやって来た時に、よそ者と地元の人を区別しないような心があって初めて、自分たちの文化が他の土地の人のお役にも立つような磨かれたものになるわけです。これは非常に大事なことだと思います。 文化というものは地方的なもので、その土地でしか命がないものだけど、同時に普遍性を獲得することができます。みんながそこに来て、感動を受けることができるということが一番大事なんです。 例えばイタリア・ルネッサンスは14〜5世紀にイタリアで花開いたものですが、同時に全世界の人々の心に感動や波紋を引き起こすことができる高い価値を持っていました。ローカルなんだけど普遍的な価値を持つ。このようなことが可能であったのは、イタリアの人たちが商売で世界各地にでかけていったというだけではなくて、世界中の人々がイタリアにやってきた。フィレンツェ、ヴェネチアなどイタリアの各都市が世界のコミュニケーション・センターだったからなんですね。これらの都市には、よその人も地元の人も共存できるような雰囲気がありました。その中でイタリア文化は磨かれて、訪れる人の胸を打つものになって、世界に広がっていったのです。 「じょ・ろう・がい」の町 ――イタリアのように、よそ者と地元の人が共存できる町をつくるには、何が必要なのでしょうか? 木村 そのためには、何もリゾート施設を建てる必要はありません。よそから来た人でも路線バスに乗ったり自分の足で歩いて見て回れるように、交通や町の施設が整備されている分かりやすい町。泥棒や災害の心配をせず、安心して滞在できる町。そして先ほどにも言った美しい町。こういった所には人が集まるわけで、私はこれを「じょ・ろう・がい」の町づくりと言っています。 女性にとっては美しさが、老人には安心が、そして外人には分かりやすさが必要です。その三者を満足させる町にはたくさんの人が出入りします。そこでの普段着の交流の中から、本当の意味で土地に根ざした地域文化が生まれて来るのです。 ――確かに、地域文化にとって今や交流活動は不可欠なものですね。 木村 よその人からいろいろ言ってもらったり、外からの刺激がないと、文化は向上しません。自分のところの文化はよそ者には絶対に分からないだろうなんていう考えでは絶対に発展がありませんね。 ヨーロッパの場合は、もともと地続きだったせいもあって、都市から都市、地方から地方、国から国へと人々が移動して、古くから交流が続いています。そのため、ヨーロッパでは、コミュニケーションの接点だからこそ、自分たちの都市、地域での自分たちの生き方を確認したいという気持ちがとても強い。地方こそが自分たちが生きる拠り所、原点だとするこの考えを、リージョナリズム (Regionalism)、地方主義、地域主義といいますが、これはヨーロッパ規模での交流があって初めて生まれたものです。 これからの地域文化も、世界的な視野をもってよそ者と分け隔てなく交流し、その刺激によって自分たちの文化を高め、地域特性を確認してゆくことが大切です。地域文化のルネッサンス時代が築かれることを期待いたします。 ――今日はどうもありがとうございました。 |