文明と文化 文明と文化がしょっちゅう議論される時代になってきました。しかし、誰にでもわかるピタッとした定義というのはなかなか見当りません。 私は次のように考えています。「文明は、他の文化国に容易に伝達できるか、もしくは伝達が不可能でないもの」、つまり輸出できる位に、通有性・普遍性を持っている。これに比べて、「文化は、他の文化圏に伝えることが不可能か、あるいは伝達が困難なもの」即ち、土と血から生まれた固有性がその特徴である。 この2つの定義からもれ落ちるものもあります。たとえばコカ・コーラ。まぎれもなくアメリカ固有の味覚から生まれたものと言えるが、地球上どこにでも広く伝わっている。さすが、テクノロジー時代の飲みものやなぁと思わせられる。 まあ、こうした例外もありますが、大きくは通有性(文明)と固有性(文化)とに分けて考えることができます。 独走する文明 大昔には、中国古代文明のように文明と文化は一体化していましたが、その後次第に離れていき、19世紀以降には通有性が独走をはじめました。イギリス、ドイツ、フランスなどのキリスト教圏に源を発するヨーロッパ文明はアメリカにひきつがれ、“便利・安全・節約”を旗印としながらも、史上空前の資源濫費文明を築きあげるに至りました。 普遍性がはびこって、日に週に月に年にガン細胞のように固有性を食いあらしつつある。ところが固有の文化というものは、無名の人間の膨大なエネルギーと時間を吸収して育ってきた大木のようなものですから、一度失われると再生するには何百年もの時間がかかることになります。 文化を伸ばそう 今や人びとは通有性の自己増殖の下で、とらえようのない不安にさいなまれて暮らしています。これを抑える薬はありません。唯一あるとすれば、やはり固有性でしょう。そういう意味で、土地・土地、地域・地域に根づいた固有の文化を育てることが、大へん重要な時代になってきているわけです。 もちろん文化も他の文化に対して影響を与えます。ヴァレリーは文化という現象を、「イマジネーションの戦争だ」と表現しているが、ゲルマン化したラテン、あるいはその逆というように目に見えない形で浸蝕が起る。しかし、文化は血と土の重さをひきずっており、文明のようには独走しません。 人間は根源的に情熱的な存在であり、絶えず何かを求め続ける。文明が一方的に肥大化することには決して耐えられない。従って今後、文化は伸びるし、また伸ばしていかなければなりません。 考えてみれば日本の近代化は、それまで持っていた伝統文化=固有のおもりを切り離し、文明の通有性の中に浮かび上がることによって実現した。その結果、文明の海にただよい出てしまったのが現状だと言えます。 日本の各地に新しい地域文化の芽を育てることは、私たちの心におもりをとりもどす大切な仕事であると信じて疑いません。
(談)
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