日本中が新型コロナウイルス感染症によって厳しい状況に追い込まれ、とりわけ人が密集することが避けられない地域文化活動は歴史的に例を見ない打撃を受けた。こういう時期だからこそ、という思いで、今年も5団体の活動を顕彰する運びとなった。
神楽が盛んなところは全国各地にあるが、神楽大会の放映でテレビの視聴率が上がるというほど広島県の神楽は勢いがある。その中心地が「新舞」発祥の地・安芸高田市の「神楽ドーム」である。広島・島根両県の大会で優勝した団体が、旧舞・新舞に分かれて競う「神楽グランプリ」が開かれ、高校生による「神楽甲子園」があり、金・土・日曜には常に地元の神楽団の神楽公演がある。地元小学生の将来の夢が神楽団で活躍することだったり、神楽がやりたくて若者が山村に移住してきたりといった熱気を創り出したのが「ひろしま安芸高田 神楽の里づくり」である。
ただ人口減少に悩む各地では伝統芸能の継承に苦労しているところが多い。長野県南部の山深い村の「大鹿歌舞伎」は、かつて高度成長期に壁にぶち当たり、集落ごとに続けてきた歌舞伎を、村で統一して運営することで今日の隆盛を築いた。長年の芸風やしきたりの違いを乗り越え、小・中学校で歌舞伎に出会い、村から出ても保存会の会員として「村の宝」を支える姿は、人口減少地域の活動のモデルになるだろう。
もっとも、地元に腰を据えるだけが解決策とは限らない。人形浄瑠璃の古い形を伝える佐渡島の文弥人形劇を継承する、人形浄瑠璃「猿八座」は、島外の担い手を増やし、テレビでも紹介され、海外公演で魅力を発信しており、活動場所を島外に移した現在でも、古浄瑠璃演目の復活上演など、伝統芸能の継承・発展に挑み続けている。
地歌舞伎が盛んな岐阜県には現役の芝居小屋がいくつもある。そのなかで「美濃歌舞伎博物館 相生座」は新興勢力だが、大きな特色は、調査研究によって美濃歌舞伎の魅力を外に伝えるとともに、他団体と交流し、たとえば衣装の貸し出しによって活動を支えているところにある。他の団体に手を貸すことで地域全体に元気が出てくる。
10年が経とうとしている東日本大震災に際しては、被災地を元気づけようとアーティストが被災地に多数集まった。励まそうとやってきた外部のダンサーが三陸沿岸に残る芸能の素晴らしさに気づき、逆に「習いに行くぜ!東北へ!!」というキャッチフレーズができ、「三陸国際芸術祭」が生み出された。臨時のイベントを超え、内外の交流から新たな芸術が生まれ、毎年、その姿を変えるところに大きな可能性がある。
いずれの活動も、コロナ禍で今は通常の活動は展開できないでいる。試練を超えて、さらに素晴らしい活動ができるようになる日を楽しみに、本年度の選評としたい。
飯尾 潤(政策研究大学院大学教授)評
岩手県 三陸国際芸術祭 |
◎受賞理由
アジアの芸能団体や現代芸術のアーティストとの交流を通じて、郷土の宝である芸能の魅力を国内外に発信するとともに、震災からの復興を推し進め、地域の活性化に貢献した点が高く評価された。
◎活動概要
自然の造形美であるリアス式海岸を誇る三陸沿岸地域は、神楽や虎舞、鹿踊りなど数多くの郷土芸能の団体が存在する世界でも屈指の芸能の宝庫である。その魅力を世界に伝え、アジアを中心とする世界の芸能と交流し、その出会いから新たな可能性を創出する。2014年に大船渡市を中心に始まった三陸国際芸術祭は、今では岩手県と青森県にまたがる14市町村(青森県:八戸市、階上町、岩手県:洋野町、久慈市、普代村、田野畑村、岩泉町、宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、住田町)が参加し、世界中の多様な文化と芸術が混ざり合い、創造的な時間を分かち合える場となっている。
同芸術祭の発足は2011年に遡る。東日本大震災で甚大な被害を受けた三陸沿岸地域への震災復興支援として、NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(JCDN)が避難所や仮設住宅を訪れた。当初「からだをほぐせば、こころもほぐれる」をキャッチフレーズに、マッサージやストレッチを行うことで被災地の方々を励まそうと訪れたダンサーたちは、三陸の郷土芸能の素晴らしさに驚いた。そこでダンサーたちがその郷土芸能を習いに行く「習いに行くぜ!東北へ!!」に変更。地域が一体となった取り組みに進化した結果、同芸術祭が誕生した。以来、様々なチャレンジを試みながら、2018年には、さらなる発展のために、地域内外の民間団体と関係自治体で構成する三陸国際芸術推進委員会が組織され、開催地域も拡大した。全長600kmにもおよぶ広大な三陸沿岸部の各地を舞台に、地域の芸能団体がアジアの芸能団体やダンスグループ、現代アーティストとコラボレーションを行うなど、スケールの大きな他に類を見ない芸術祭となっている。また、これまで同じ地域や町内でも共演することのなかった団体がひとつの舞台を創造するなど新たな交流が生まれている。
プログラムは、鑑賞、体験、交流に大別されており、近年では、金津流獅子踊りの全団体による合同演舞をはじめ、37ものイベントが、12市町村の公民館、文化会館、小中学校、駅舎や公園など、地域住民に馴染みの舞台で催され、観光客やワークショップ参加者など約3200人が集った。地元郷土芸能団体、他の国内外の地域のアーティストなどの出演者は延べ1100人で、その8割以上が地元住民。さらに関係者以外のボランティア等のスタッフ約230人もほぼ全てが地元住民で構成されるなど、地元にとっては一大行事である。地域以外から来る観光客や芸術家、関係者をもてなし交流することは、地域住民の大きな喜びであり、生きがいともなっている。
今後は、世界に向けた情報発信の強化と、アーチスト・イン・レジデンスによる国内外の交流を通じた地域の活性化やコミュニティの形成にもつなげていくとともに、世界に誇る日本の文化資産としての郷土芸能のさらなる発展に期待したい。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 中村 一郎(なかむら いちろう)氏(三陸国際芸術推進委員会委員長、64歳) |
◎岩手県内のこれまでの受賞者
陸前高田市 〈特別賞〉全国太鼓フェスティバル(2011年)
陸前高田市 全国太鼓フェスティバル(2005年)
遠野市 遠野市民の舞台(1983年)
新潟県新発田市 人形浄瑠璃「猿八座」 |
◎受賞理由
佐渡島に伝わる一人遣いの人形劇「文弥(ぶんや)人形」を継承するとともに、古浄瑠璃の復活上演などを通して国内外に人形浄瑠璃の魅力を発信している点が高く評価された。
◎活動概要
古来より日本各地から人々が訪れ、多様な文化がもたらされた芸能の宝庫、新潟県佐渡島。この島には「文弥人形」と呼ばれる人形浄瑠璃が伝わる。17世紀に大坂の岡本文弥が創始した「文弥節」に合わせて人形を操ることがその由来で、佐渡島では明治から大正にかけて盛んに演じられた。最盛期には島内に約40の座が存在したが、社会や娯楽の変化とともに衰退の一途を辿る。終戦後には存続が危ぶまれたが、有志による保存活動が行われ、現在は約10座の文弥人形座が島内で活動を続ける。
文楽などの人形浄瑠璃が三人で一体の人形を操作するのに対し、一体の人形を一人の遣い手が操ることが文弥人形の特徴である。1979年、当時大阪で文楽の人形遣いとして修業を積んでいた西橋八郎兵衛(にしはし はちろべえ)氏は、この一人遣いの人形芝居に惹かれ佐渡へと渡った。初めは文弥人形座に入門し人形の遣い方を学んだが、「文弥人形の伝統を引き継ぎながら、他の芸能の要素も含んだ芝居にも挑戦したい」との想いで、1995年に人形浄瑠璃の一座「猿八座」を立ち上げた。
旗揚げ当初は佐渡島の猿八を拠点としていたが、2009年からは新発田市に稽古場を設け、現在は9名の座員が所属する。新潟県内を中心に年間約20回の公演を行い、2019年の「第34回国民文化祭・にいがた2019」では9公演を演じ、いずれも満員御礼の大盛況であった。また、1998年のイギリスを皮切りに、これまで6ヵ国で10回以上の海外公演を開催するなど、人形浄瑠璃の魅力を国内外に発信している。
猿八座が力を入れているのが、古浄瑠璃の復活上演である。古浄瑠璃とは、義太夫節よりも古い時代に成立した浄瑠璃で、現在では上演が途絶えた演目も多い。台本は残りながら、誰も演じることができない「幻の浄瑠璃」を猿八座は現代に甦らせている。変体仮名で書かれた台本を元に、稽古で使う台本をつくることから始まり、節をつけ、ようやく人形を手に稽古を始めることができるのである。これまでに復活上演した演目は7本で、「越後國柏崎 弘知法印御伝記(えちごのくにかしわざき こうちほういんごでんき)」や「山椒太夫」など地元新潟にゆかりの物語も含まれる。
古い時代の作品ではあるが、「現代の人々にとって面白い舞台にしたい」と試行錯誤は欠かさない。文弥人形を使いながらも、文楽の振り付けや長唄の節なども取り入れるなど、新しい人形浄瑠璃の可能性を探っている。座長の西橋氏は、「人形浄瑠璃は堅苦しいイメージがあるが、本来は気軽に楽しむ芸能だった。文弥人形を博物館に展示するのではなく、芸とともに地域に伝えていきたい」と語る。
郷土に伝わる芸能を受け継ぎながら新たな挑戦を続ける猿八座の芝居は、これからも多くの人々を魅了するだろう。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎新潟県内のこれまでの受賞者
阿賀町 津川 狐の嫁入り行列実行委員会(1995年)
小千谷市 片貝 花火まつり(1984年)
佐渡市 佐渡版画村運動(1982年)
長野県大鹿村 大鹿歌舞伎 |
◎受賞理由
古くから地域に伝わる地芝居(歌舞伎)を村の宝とし、村ぐるみで支える仕組みを作り、幅広い世代が活躍しながら継承されていることが高く評価された。
◎活動概要
南アルプスの山麓に位置する人口1000人弱の大鹿村は、平安時代に荘園として開発され、近世には徳川家の直領として豊富な森林資源を幕府に収めた山村である。大鹿歌舞伎は250年以上前から各集落の神社の奉納歌舞伎として演じられ、江戸から大正期にかけて歌舞伎の上演が禁止されていた時代も、弾圧をかいくぐって継承されてきた。村内に点在する境内に13もの舞台が建てられたことからも、歌舞伎が村の人々にとって心の拠りどころであったことが見てとれる。
高度経済成長期に入り多くの若者が村を離れるなか、これまでの集落ごとの継承では存続が難しいという危機感から、太夫であり大鹿村教育長でもあった片桐登氏が中心となり、1956年に「大鹿歌舞伎保存会」を発足させた。ここには村長をはじめとする支援者が集い、主に経済面の基盤を整えた。また、1958年には「信州大鹿歌舞伎愛好会」を立ち上げ、村全体から地芝居の愛好者が加わり、各集落で受け継がれてきた型や決まりを統一する作業を行った。こうして村ぐるみで地芝居を支え、演じる体制が整ったことが大きな契機となり、広く村民に愛されながら大鹿歌舞伎が今日まで継承されるに至る。
愛好会には20代から90代までの35名が所属し、毎年春と秋に定期公演を行う。役者、太夫(三味線弾き語り)、拍子木、下座、舞台、衣装、髪結いなど、上演にかかわるすべてを自前で行うのが大きな特徴である。レパートリーは30演目あり、なかでも「六千両後日文章 重忠館の段」は大鹿村だけに伝わる幻の演目。現存する7つの舞台の装置や演出にも独自性が残されている。四方を山々に囲まれた境内で、地芝居を通じて舞台と客席とが一体となるそのハレの雰囲気に魅了され、村民のみならず県内外から1000人以上の熱心なファンが訪れる。
また、1975年に発足した中学校の部活動「歌舞伎クラブ」を継承する形で2000年から始まった総合学習授業「大鹿タイム」では、生徒が年間50時間、愛好会指導のもと歌舞伎の練習に励む。最初は受け身の生徒も、先輩の姿や愛好会の熱意に触れ、3年生になる頃には夢中になるという。今では「大鹿タイム」経験者が愛好会メンバーの役者の5割を占め、地域の伝統芸能を演じる若い世代の姿が村の人の励みとなり、地域を盛り立てているのである。
地芝居では初の重要無形民俗文化財に国から指定され、国立文楽劇場での上演や海外公演も経験。全国でもひときわ輝きを放つ大鹿歌舞伎は、ひとつの文化継承の形を見せたと言えよう。過疎化と向き合いながら地域に伝わる文化を次世代へとどう繋いでいくか、大鹿村の取り組みにこれからも目が離せない。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎長野県内のこれまでの受賞者
飯田市 峠の国盗り綱引き合戦(2014年)
下諏訪町 諏訪交響楽団(1996年)
御代田町 西軽井沢ケーブルテレビ(1993年)
飯田市 いいだ人形劇フェスタ(1988年)
長野市 信州児童文学会(1984年)
岐阜県瑞浪市 美濃歌舞伎博物館 相生座 |
◎受賞理由
往時の農村舞台を彷彿させる芝居小屋で、地歌舞伎を上演しつつ衣装や小道具の保存と修繕を行う。他の団体にも衣装を貸し出して公演を支え、美濃の地歌舞伎の振興に貢献したことが高く評価された。
◎活動概要
街道沿いに多くの宿場町が栄えた美濃地方では、江戸時代には地歌舞伎が各地で盛んに行われていた。江戸や大坂などの都市で興行的に演じられる大歌舞伎とは異なり、美濃では年中行事の一環として素人が演じていた。そのため個人が歌舞伎のための豪華な衣装を所有することが難しく、衣装専門の業者が代々貸衣装を管理していた。しかし戦後、地歌舞伎の人気が陰るとともに衣装屋の経営も難しくなり、貴重な衣装が散逸していった。
そのような中、岐阜県瑞浪市でゴルフ場を経営していた小栗克介(かつすけ)氏と長女の幸江(さちえ)氏は、地元の衣装屋が廃業するのにともない、地歌舞伎の衣装やかつらなどを譲り受けた。これを機に1972年、「美濃歌舞伎保存会」を発足させてゴルフ場の職員らとともに地歌舞伎の上演を始めるようになった。1976年には解体寸前だった県内の2つの芝居小屋を敷地内に移築復元し、現在、保存会の活動拠点としている「美濃歌舞伎博物館 相生座」が誕生した。劇場のこけら落しでは、父娘と交流のあった市川猿之助(現・猿翁)氏の一座が、ロウソクを灯りに用いた江戸時代の舞台を再現して大きな話題を呼んだ。以後、相生座では毎年9月に美濃歌舞伎保存会の定期公演を行い、全国各地から多くの見物客が訪れる。
父から相生座の館長を継いだ幸江氏は、役者、脚本、太夫、三味線から衣装やかつらの修繕、着付けまでに精通し、知識も豊富な地歌舞伎界のエキスパート。子ども向けの歌舞伎教室で次世代の育成を行うほか、他の団体の公演の際には衣装を貸し出して着付けを行うなど、地域の地歌舞伎の振興にも尽力している。
相生座では、実際に使用される約4000点の衣装や小道具を修繕しながら保存し、一部は劇場内にも展示するなど、まさに地歌舞伎の生きた博物館となっている。相生座と美濃歌舞伎保存会の活躍によって、地歌舞伎の魅力が改めて理解されるようになり、一時はすたれていた活動が各地で再開されるようになった。現在、岐阜県内には全国最多となる32の地歌舞伎団体が活動している。また、ヨーロッパやハワイなどの海外のフェスティバルやシンポジウムにも積極的に参加し、公演や着付け体験などを通じて歌舞伎の魅力を伝える活動にも力を注いでいる。
かつて人々の往来によって美濃の地にもたらされ、地域に豊かな文化を育んできた美濃の地歌舞伎は、相生座の活動によって現代にも活き活きと継承され、さらに国境を越えた文化の交流にも大きく資しているのである。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎岐阜県内のこれまでの受賞者
美濃市 美濃流し仁輪加(2003年)
岐阜市 劇団「はぐるま」(1983年)
広島県安芸高田市 ひろしま安芸高田 神楽の里づくり |
◎受賞理由
現在にいたる広島県内外での神楽人気を呼び起こす原動力となった「新舞」発祥の地として、地域をあげて神楽の里づくりに取り組んでいる点が高く評価された。
◎活動概要
神楽が盛んな広島県では、現在300余りの神楽団が活動しており、なかでも芸北地方にはそのうち150団体ほどが集中している。芸北の神楽は、島根県の石見神楽の流れをくむものだが、戦後、GHQの指令で神道色の強い神楽が禁止されたため、1947年から、美土里町(みどりちょう)(現・安芸高田市)在住の佐々木順三氏が宗教色を排した新作神楽を次々に創作。テンポが早く、豪華な衣装とスモークや早変わりを取り入れたエンターテイメント性の高い新しい神楽は、「新舞」と呼ばれ、芸北全体、さらには石見地方にも広がり、神楽人気を呼び起こす原動力となった。
1995年、当時の美土里町長の発案で2000人収容の全国唯一の神楽専用施設「神楽ドーム」が完成。建設途中で偶然温泉が湧出したため、温泉と飲食・宿泊施設、座席数135席の「かむくら座」を備えた「神楽門前湯治村」も建設した。第3セクターの会社を設立し、湯治村の収益で神楽ドームを経済的に支える仕組みを作った。
ハードが充実したことによって神楽の里づくりに拍車がかかる。1999年から、広島・島根両県の大会で優秀な成績をあげた神楽団を選抜して、伝統的な旧舞と新舞の2部門で頂点を競う「神楽グランプリ」を開催。広島県内だけで30以上あるといわれる神楽大会の最高峰と目されている。
金・土・日・祝日には、市内22の神楽団が順番で神楽ドームやかむくら座で公演を行う。2004年に6つの町が合併して安芸高田市が誕生したため、とりまとめ役の安芸高田神楽協議会では、市内すべての神楽団が参加することにこだわり、ねばり強く説得したという。公演回数は年間150回にも上り、大勢の人に観てもらう機会が増えることで、各神楽団のレベルアップにもつながっている。また、東京など国内のほか、ブラジル、メキシコ、フランスなどでも公演を行い、神楽の魅力を国内外に発信している。
2011年から「神楽甲子園」を開催。甲子園といっても神楽は地域によって全く別物であるため、優劣を競うものではなく、同じように地域の伝統芸能の継承と研鑽に励む高校生たちに晴れの舞台を提供し、交流と励まし合いの場としてもらおうというものである。遠方からの出場者は安芸高田市内にホームステイをし、大会当日は、高校生たちが受付や進行係、会場の設営と撤去、ゴミ拾いを行うなど、実行委員の一員として活躍する。
市民の10人に一人はなんらかの形で神楽に関係していると言われている。市内の多くの神楽団が子ども神楽団を持ち、次世代の育成にあたっているほか、神楽をやりたくてUターンやIターンを希望する人も増えていて、行政や民間の側からもその人たちの支援にも力を入れている。官民挙げての神楽の里づくりを通じて、神楽を愛する人たちと安芸高田市の間に強い絆が育まれている。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎広島県内のこれまでの受賞者
尾道市 因島水軍まつり実行委員会(2018年)
呉市 歴史と文化のガーデンアイランド 下蒲刈島(2015年)
廿日市市 説教源氏節人形芝居「眺楽座」(2004年)
広島市 トワ・エ・モア(1989年)
福山市 日本はきもの博物館(1982年)
サントリー地域文化賞はこれまで、過去数年の優れた活動の実績を持ち、現に行われており、今後も継続する可能性がある地域の文化活動を対象としてきた。しかし、本年度はコロナ禍のなかで、文化活動は閉塞状態に陥った。全国的に外出や他地域への移動の自粛、ソーシャルディスタンスの励行が推奨されるという、異常事態が続いた。
そのなかで日本の地域文化はどのように生き延び、新たな活動を模索したか。人との出会いを中心とする地域の文化活動が、その出会いを制限されたなかで、アイディアあふれる活動をどのように生み出したか。2020年というコロナ禍の記憶として、本年度に始まったばかりであっても、この一年を象徴するような地域文化の力強さを示す優れた活動を顕彰するために、特別賞を設けることにした。
例年のイベント開催が不可能になったとき、オンラインでのイベント企画は、全国の団体で無数にあった。しかし、陶芸の町・愛知県瀬戸市で生まれた「せとひとめぐり」の活動は、それらとは一味違っている。
「せとひとめぐり」は、毎年9月に開催される「せともの祭」が中止になったことから生まれた。「瀬戸」と「人」という言葉を組み合わせ、街を人が「巡る」というネーミングからわかるように、オンラインではなく、あえて街と人との新たな出会いを企画した。例年の「せともの祭」では二日間にわたって窯元が屋台を並べて陶器を販売する。県内外から約30~40万人が来場する大きな祭である。
それに対して、「せとひとめぐり」は、市の中心部の商店街と郊外にある窯元地区を、二日間にわたって来場者が地図を片手に、少人数単位で巡るという企画である。最初から大きなイベントにするのではなく、30店以下の参加に限定し、街の日常生活から飛び出しすぎないようなイベントをめざした。「せともの祭」は窯元だけの祭だが、このイベントには商店街も参加した。それぞれがいつもよりちょっとだけ張り切って、店で陶器の小物をプレゼントしたり、貴重な古い陶器を紹介したりする。来場者はそのサービスを受けるために「はりきりチケット」と名付けられたチケットを購入して店主に渡し、街を巡るシステムだ。このネーミングも巧みである。
商品に出会うと同時に、人と出会う、少人数でのコミュニケーションこそを大事にする。コロナ禍を逆利用して、密にならないよう、感染対策を綿密に練った上での企画であった。窯元や各商店の日常の空気感を、来場者に伝えることを目指したのである。それが文化活動と言えるかどうかは、今後の発展次第、拡がり方次第だが、先見的な新しい試みの一つであることは確かだ。
「せともの祭」と同じくらいの売上を計上した窯元もいたという。このイベントを毎月やることでリピーターを増やすべきでは、という参加店からの意見も出ており、来年以降の継続が求められている。
地域文化はどうあるべきか、を典型的に示したコロナ禍のなかでの新鮮な活動として、今後の発展の可能性に期待したい。
佐々木 幹郎(詩人)評
愛知県瀬戸市 せとひとめぐり |
◎受賞理由
新型コロナウイルス感染拡大の影響で「せともの祭」が中止になる中、若者がアイディアを寄せ合い、感染予防を徹底しながら観光客が地元商店主や窯元の職人と対面で交流できるイベントを実施。今後の地域文化活動のヒントになると期待される。
◎活動概要
愛知県瀬戸市は、1000年以上の歴史を持つ“やきもの”の町であり、「せともの」の語源としても知られる陶磁器産地である。毎年9月に開催される「せともの祭」は、日本三大陶器祭のひとつに数えられ、瀬戸川沿いに並ぶ200軒の露店は初秋の風物詩となっていた。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、毎年多くの買い物客でにぎわうこの祭りも今年は中止を余儀なくされた。この中で、何とか代替イベントを開催したいと自発的に行動を起こした若者たちの熱い思いから生まれたのが「せとひとめぐり」である。
日本各地で祭りやイベントが次々と中止に追い込まれる中、なんとか活動を継続させようと努力する人たちの多くは、当初オンラインに活路を見出そうとしていた。しかしその状況にありながら「せとひとめぐり」の運営メンバーは、人と会うことをあきらめなかった。クラウドファンディングで資金を集めて活動を立ち上げ、創意工夫を重ねて“対面交流型”の企画を実現したところに、このイベントの特徴がある。
「せとひとめぐり」は、観光客が瀬戸市中心部の商店や郊外の窯元を自由にめぐって人とまちを楽しむイベントで、「せともの祭」が開催されるはずだった9月12日(土)、13日(日)に開催された。5人の運営メンバーは、対象の商店や窯元を紹介するWebサイトを立ち上げたほか、新型コロナウイルス感染拡大防止策として、参加者からの情報をもとにTwitter等で定期的に混雑状況を発信する仕組みも整えた。また、訪問先の商店や窯元でちょっとしたサービスを受けられる「はりきりチケット」を販売するなど、参加者同士の交流を促す仕掛けも導入した。参加した商店・窯元は合計27軒、2日間合計の集客は推定5000人と、例年の「せともの祭」の規模には及ばないものの、むしろ商店主や窯元の職人が観光客とゆっくりコミュニケーションをとる余裕が生まれ、瀬戸の良さを直接伝える機会に恵まれたことは、新たな発見であったという。
「せとひとめぐり」は、街巡り、Webサイト、Twitterといった要素の巧みな組み合わせと、運営メンバーの熱意と創意工夫によって新たな価値を創出することに成功した。困難な状況の中で若者のエネルギーが新たな可能性を拓いたこと、またそれによって市内中心部の商店主と郊外の窯元の職人との間に新たな交流が生まれたこと等、この取り組みには、今後の地域文化活動の活性化に向けたヒントがちりばめられている。新型コロナウイルスの感染拡大に苦しむ全国の活動家が、逆境を乗り越え新たな活動を生み出すきっかけになることを期待する。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎愛知県内のこれまでの受賞者
名古屋市 名古屋むすめ歌舞伎(1996年)
豊田市 足助 ロマンの町づくり(1986年)
名古屋市 グリーン・エコー(1983年)
豊橋市 豊橋交響楽団(1981年)
以上