1. サントリーTOP
  2. 企業情報
  3. ニュースリリース
  4. 第41回 サントリー学芸賞 選評
ニュースリリース
  • (2019/11/12)

第41回 サントリー学芸賞 選評

〔政治・経済部門〕

善教 将大(関西学院大学法学部准教授)
『維新支持の分析 ―― ポピュリズムか,有権者の合理性か』(有斐閣)

 日本の地方政治は、国政とは異なるダイナミクスを持つ。首長と議会が別々に公選される二元代表制、地域ごとの社会経済環境の違いなどが作用するためである。しかし長らくそれは、国政と同じ政党が、異なった勢力関係や提携関係の下で活動するという形をとってきた。1970年代に隆盛を迎えた革新自治体は、その典型であった。
 ところが21世紀に入って、地方政治の独自性は地域政党の台頭という形で現れる例が目立ち始めた。その萌芽は1990年代以降の無党派首長の増大にあると思われるが、近年では首長が自らを支持する勢力を議会にも広げ、地域政党として活動するようになった。
 この新しい現象に対して、政治報道と多くの政治学研究は、正鵠を射た理解を与えてきたとは言い難い。東京から遠く離れた場所にしか拠点がなく、その地域でのみ重視される政策課題に対応しようとする地域政党は、地方分権を唱えつつ実際には国政中心、東京中心に築かれてきた従来の政党政治像に、うまく当てはまらないからである。
 2010年に登場した「大阪維新の会」(維新)は、そのような地域政党の代表格だといえるだろう。維新に対しては、創設者である橋下徹氏の強い個性と指導力が印象的であるとともに、虚実ないまぜの主張によって大阪の人々を騙し、体系的な政策もないまま短期間に躍進したポピュリスト政党である、という見方が今なお根強い。
 善教将大氏の著作『維新支持の分析』は、維新がなぜ大阪で多くの有権者に支持されているのか、という問いを解くことで、ポピュリスト政党としての維新、それを支持する非合理的な有権者という広く流布した見解に正面から挑み、説得的に反駁した力作である。多くの人々が関心を寄せながら、その実像が掴み切れていない事柄を学術的に分析することは、政治学の最も重要な役割の1つであり、本書はそれを鮮やかに果たしたといえる。
 その際に善教氏が用いるのは、有権者を対象としたサーヴェイ実験や、その結果についての緻密な計量分析である。これらは政治参加や投票行動の研究において主要な手法になりつつあるが、先端的であるだけに、ともすれば専門家にのみ分かる議論に終始してしまいやすい。本書は分析結果の図示などに工夫を凝らすことで、専門家以外の読者にも学術的知見を伝える努力が丁寧になされている。
 もちろん、維新を含む地域政党や、ポピュリストとされる政党の全体像を描き出す上では、なお解明すべき課題も残されている。たとえば、本書においては政党(エリート)側が戦略的に行動して有権者を誘導した可能性は十分に検討し切れていないし、ポピュリズムの定義には議論の余地がある。維新以外の政党に適用できる知見かどうかについて、本書の主張に同意しない読者もいるであろう。
 こうした疑問は、いずれも対象の重要性と大きさゆえに生じる。地域政党、ポピュリスト政党の台頭は先進各国に共通する現象でもあり、国際的にも研究が進んでいくはずである。善教氏には、それらも十分に踏まえつつ、多くの人々に学術的分析の意義を伝える役割を担っていただけるものと確信している。

待鳥 聡史(京都大学教授)評

 

山口 慎太郎(東京大学大学院経済学研究科准教授)
『「家族の幸せ」の経済学 ―― データ分析でわかった結婚、出産、子育ての真実』(光文社)

 結婚や子育てでは、人生の中でも大きな意思決定を迫られることが続く。結婚するのか、子供を母乳で育てるのか、保育園に預けるのか、育休はどうするか。こうした家族形成の悩みにエビデンスでどこまで答えられるのかを、著者本人の優れた貢献を含む最新の研究成果にもとづいて本書は教えてくれる。
 まずは、結婚の悩みである。日本の未婚率は高まっている。その理由は、女性が子どもをもつ暗黙の費用の上昇、結婚から得られる「分業の利益」の下落である。また、ネットのマッチングサイトの分析によると、万人受けするモテるタイプの存在がわかる一方で、人の好みは大きく異なること、ネットでないと見つけられない出会いもあると述べられている。
 私たちは結婚して子どもが生まれると様々な問題に直面する。低体重で生まれる子どもが増えているが、出生体重がその後の人生に大きく関わっている。帝王切開で生まれる子どもについては、アレルギーや喘息の症状が出やすくなる可能性があるが、注意欠陥・多動性障害や自閉症との関係はないという研究結果がある。母乳育児についてはベラルーシで行われた大規模な実験の結果が紹介されている。母乳育児は生後1年間の子どもの健康面に好ましい影響を与えるけれど、長期的には効果がないとのことである。
 育児休業はどの程度の期間が望ましいのかも多くの人が悩むことである。充実した育児休業があれば仕事に復帰しやすいので、子どもを産んでも仕事を続けやすい。では、育児休業を3年取れるようにすれば、働きやすくなるのだろうか。著者は、日本のデータをもとに、構造推定という経済学の手法を用いて分析する。その結果、育休が1年あれば仕事に復帰する女性は大幅に増えるが、1年から3年に育休が長期化してもほとんど影響がないとのことである。
 日本では、男性の育休の取得率が低い。これは、男性育休制度が充実していないからではない。日本は、男性育休制度が世界で最も充実した国だと評価されている。北欧で男性育休取得率が高いのは、身近な男性が育休を取ったということが伝染していった結果だという。
 保育園に通わせるかどうかも子育てでは大きな悩みである。経済学では、保育園に行った子どもたちへの影響が注目されている。米国での有名な研究によれば、質の高い就学前教育を受けると、大人になってからの所得を上げるだけではなく、生活保護受給率や逮捕される回数も減らし、社会全体が利益を受けている。著者自身の日本のデータを用いた研究からは、保育園に通うことで、言語の発達、攻撃性や多動性の減少が見られるという。母親のしつけの質が向上し、ストレスが低下し、幸福度が上がるということが理由である。
 本書のよさは、エビデンスを教えてくれるだけではない。エビデンスをどう活かしていくべきかを著者が一人の親として書いていることが最大の魅力である。経済学の分野では研究成果を専門論文の形で発表することだけが業績になる中で、第一線の若手研究者である山口氏が一般向けの本を執筆することで大きな社会貢献となるというロールモデルを示した意義は極めて大きい。

大竹 文雄(大阪大学教授)評

 

 

〔芸術・文学部門〕

桑木野 幸司(大阪大学大学院文学研究科准教授)
『ルネサンス庭園の精神史 ―― 権力と知と美のメディア空間』(白水社)

 イタリア・ルネサンスは西洋美術史の精華であり、何よりもレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなど絵画や彫刻の巨匠を中心に語られてきたが、本書のテーマは庭園だという。しかし、庭で何が分かるのかなどという素朴な疑問は一読すれば吹き飛んでしまう。庭園とは西洋の文化史、精神史が凝縮された領域横断的なトポスだというのが著者の主張なのである。そんな気宇壮大な見取り図と、トスカーナ(フィレンツェ)とラツィオ(ローマ)両地方の名園の具体的記述とが補完し合った、読み応えのある魅力的な研究書が出現した。
 規模の大きな庭園を作るには何が必要なのか。建物があるのだから建築学は当然とし、造園のための土木・水理工学、地理学や気象学、動物学や植物学はもちろんのこと、充実の鍵となる考古学や博物学、古代の文芸や哲学、絵画・彫刻までが招喚される。いわば、文理融合型の総合芸術作品としての空間=場所こそが庭園ということになろう。では、誰が何のために誰に庭を作らせたのか。
 15世紀のフィレンツェ近郊に点在するメディチ家の初期ヴィッラ庭園群の場合、フィレンツェを支配した富裕な銀行家一族が建築家のミケロッツォやダ・サンガッロに設計させた。ローマのヴァティカン宮、後世に多大な影響をもたらしたヴェルデベーレの中庭ならば、教皇ユリウス2世の命を受けた建築家ブラマンテが手腕を発揮している。ルネサンス庭園が完成形を迎えた16世紀には、フェッラーラ公国のイッポリート2世・デステが古代学者・建築家のリゴーリオに、噴水を縦横無尽に駆使したヴィラ・デステの設計を任せている。
 すなわち、注文したのは銀行家、君主、ローマ教皇など世俗的、宗教的な権力者たちで、それをデザイン能力に秀でた建築家=造園家が請け負ったのだ。その庭園に望まれたのは閑暇の癒やしや秀麗な眺めだけではない。注文主の権力や財力の誇示、趣味や学識の展覧、グロッタ(人工の洞窟)や驚異の仕掛け、空間の象徴性や地誌的な意味づけ等々、莫大な資金を投じるからには、施主の欲望が適切に反映されることが何よりも肝要。政治と学問と美意識が生々しく交錯する特権的空間がそこにある。
 こうして、ルネサンスを代表する別荘や迎賓館の個性豊かな庭園が次々と紹介され、多面的に分析されていく。建築家としてのラファエロの古代への意識と弟子ウーディネの博物図譜的絵画など興味深い論点はいくつもある。ただし、これらの庭園は往事の形では現存しない。未完成、改変、破壊などの運命は逃れようもなく、著者によれば、そもそも庭園の命は儚く、趣味の変化に容易く影響される。だからこそ、稀少な当時の資料を探索しつつ現場に足を運び、想像力を駆使して復元を試みる。そんな庭園学者(?)の熱い思いは十分伝わってくる。
 自然と人為が融合した庭というミクロコスモスを濃密な文化的トポスとして論じた本書は、もうひとつのルネサンス論とも言える。庭園史へのさらなる眺望は今後の課題となるが、著者の別の近作『記憶術全史』を併読すれば、日本における西洋人文学の新たな段階の到来を感じるのは評者だけではなかろう。

三浦 篤(東京大学教授)評

 

鈴木 聖子(パリ・ディドロ(パリ第七)大学東アジア言語文化学部助教)
『〈雅楽〉の誕生 ―― 田辺尚雄が見た大東亜の響き』(春秋社)

 明治という「近代」を迎えた日本の諸芸術は、新しい時代に合わせた変革を迫られた。たとえば「美術」という言葉が西洋から美術制度を移植する際に生まれた翻訳語であることはよく知られている。対して「音楽」という言葉は「雅楽」の同意語として古くから存在したが、明治期に「ミュージック」の訳語となったことから、その語義には揺れが生じた。
 では「雅楽」の方はどうなったか。鈴木聖子氏の『〈雅楽〉の誕生』は、この問いへの回答を、田辺尚雄(1883-1984年)という音楽学者の再評価を軸に鮮やかに描き出す。田辺は今日の雅楽定義 ―― (1)日本固有とされる神楽、(2)外来の唐楽や高麗楽、(3)それを基に発展した催馬楽など ―― を創出し、生涯で百冊を超える著作をものしたという、日本音楽研究の祖ともいえる人物だが、これまで本格的に研究されることがなかった。あまりに多作で思想に一貫性を見出し難いこと、一時は「大東亜音楽科学」を唱えていたため、その実像は日本の帝国主義と切り離して論じ得ないことも影響したのかもしれない。
 本書の一番の功績は、田辺の膨大な著作や関連資料を丹念に読み込んで、近代批判の視点だけでは見えてこない彼の壮大なヴィジョンを明らかにしたことだろう。第一部「『日本音階』の誕生」でその原点を東京帝国大学物理学科で学んだ「科学」としての音響学に求め、第二部「進化論と『日本音楽史』」では西洋音楽史に比肩するものとして日本音楽史を叙述する過程で三分類の雅楽定義を編み出した経緯を、そして第三部「大東亜音楽科学奇譚」では、正倉院での楽器調査や東アジアでのフィールドワークが、雅楽を中心とする「大東亜音楽科学」へと展開していった様相を詳述する。
 もちろん、西洋音楽に対抗できる唯一の東洋音楽は雅楽であるという主張は、植民地主義抜きには理解できない。だが雅楽の起源を古代メソポタミアにまで辿ろうとする田辺の持論は大東亜共栄圏思想よりもはるかに早くから展開され、時代の要請とは合わない部分もあった。たしかに、「国楽」の座を得たのは雅楽ではなく、大勢で歌える唱歌だったことを考えても、田辺の言説がどれだけ直接的に軍国主義に寄与したかは疑問だ。終章では、戦後の田辺が自己矛盾を感じることなく雅楽の存続に尽力した様子が描かれるが、現代の価値観からはご都合主義にも見えるその行動は、明治以来、西洋音楽に対して不利な立場に置かれてきた日本の音楽を ―― 延いては東洋の音楽を ―― 救おうとする点では一貫していたのである。
 それにしても、この優れた著作が、自らも雅楽演奏者で、現在はフランスで日本文化の紹介に携わる女性研究者から上梓されたことは頼もしい。宮中の男性演者によって継承されてきた雅楽は、皇室と強いつながりを持つ一方、民間や海外の演奏会では、女性演者を交えて現代的にアレンジされることもある。だがそもそも、雅楽という文化は、誰のものなのか。多くの人が自分のものと感じられない「伝統」に未来はあるのか、という本書を貫く危機感は、田辺のそれとも呼応する。だからこそ、その初の本格的な論考が鈴木氏によってなされるのは必然だったのであろう。ともすれば閉鎖的になりがちな「伝統」を外に開いていこうとする鈴木氏の意志と、安易な価値判断を退ける成熟したものの見方は、現在の日本の芸術をめぐる状況を考える際にも大いに参考になる。受賞を心よりお祝いするとともに、今後の更なる活躍を期待したい。

池上 裕子(神戸大学准教授)評

 

 

〔社会・風俗部門〕

小泉 悠(東京大学先端科学技術研究センター特任助教)
『「帝国」ロシアの地政学 ―― 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版)

 本書は選考委員の間で高い評価を得た。この著者はロシアを中心とした軍事専門家であるが、視野の狭いいわゆる「軍事オタク」ではない。軍事や政治問題を、ロシアや旧ソ連諸国の社会や心理、文化、発想法などを深く理解し、日本や欧米のそれと比較しながら幅広く論じている。
 例えば「国境」という概念も、ロシア人においては国際法的な境界線ではない。つまり一般の政治学上の国境ではなく、それは主権が及ぶ範囲に関わる心理的な「浸透膜」のようなもので、国際法的な国境線を超えた「心理的な勢力圏」を画するボーダーに近いとの指摘などがその典型だ。本書の受賞が政治部門であっても不思議ではないが、社会・風俗部門にも相応しいとされた理由もここにある。
 筆者はまだ30代半ばで、昨年わが国の国際安全保障学会『国際安全保障』最優秀新人論文賞を受賞した。2016年には大部の『軍事大国ロシア』(作品社)、『プーチンの国家戦略』(東京堂出版)も上梓し、専門誌などに多くの論文を精力的に発表している。冷戦時代と比べると西側諸国では若い世代の優れたロシア研究者が少なくなったとの評価があり、この西側の事情はロシアにおいても指摘されている。しかし本著者はこの評価を覆す実力を備えた、将来を大いに期待できる有力な研究者である。
 本書では、ロシア人の意識における「ロシア」の範疇という問題から主権意識と秩序観、ウクライナ危機や中東でのロシアの復活、北方領土問題、地政学から見た北極といった問題などが論じられている。バルト諸国やグルジアのロシアによる「占領」に関しては、現地人やロシア人の社会心理もえぐられていて出色だ。
 本書の特色を5点ほど挙げたい。
 (1)語学の能力を生かして専門の文献・資料をロシア内外を問わず広く漁り深く理解して、それらを自由に駆使している。
 (2)著者はロシアで生活や研究をし、また各国に出向いてロシア人や現地人との深い接触を保っている。それゆえ文献的知識だけでなく、「現地感覚」あるいは「内部からの視点」をしっかり有している。
 (3)国際文化にも造詣が深い。例えば日ソ共同宣言に関してプーチンの「2島の引き渡し後に島の主権がどちらの国のものになるかについては明記されていない」との言に関して、『ベニスの商人』の「肉を引き渡すとあるが、血については触れていない」の有名な詭弁や一休さんの機知などを例にして見事に説明している。ちなみにロシア紙もこのプーチン発言を「厚顔だが見事な詭弁」と評している。
 (4)わが国の専門家や政治家のロシア論は、一方的な価値観や期待を投影したものが少なくないが、本書の著者は相手側の論理を深く理解し、実証的かつ醒めた眼でバランスの取れた認識、評価を行っている。
 (5)一般に若い研究者は、軽視されまいとのコンプレックスから持って回った難解な表現をする傾向が強いが、本書は難しい微妙な問題を多く扱いながら、それらをきわめて平易に表現している。これは、著者が真の実力と自信を有しているからであろう。
 本賞の受賞を踏み台にして、小泉氏がさらに飛躍することを大いに期待したい。

袴田 茂樹(新潟県立大学教授)評

 

藤原 辰史(京都大学人文科学研究所准教授)
『分解の哲学 ―― 腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社)

 社会・風俗部門では、対象は「なんでもあり」というのが、特徴といえば特徴だ。だからこそ選考過程は、すぐには理解できなかったり、思わずはっとさせられたりと、苦楽(くるたの)しいものだったりする。
 そのなかで、受賞の栄誉に輝くものには、往々にして共通することがある。それは「圧倒的」な何かがあるということだ。圧倒には、調べ尽くすこと、集め尽くすこと、表現し尽くすことなど、色々な意味がある。藤原さんの場合も、「これでもか」というほど、題名にあるように対象を徹底的に分解し尽くし、考え尽くした執念が、受賞につながったと思う。
 社会の構造を捉えようとすると、概して生産する側と消費する側への二分化が行われる。考えてみると、その常識的な二分法はちょっと変だ。生産者によってつくられた商品、サービス、情報は、流通過程を通じて、消費者に届けられる。日進月歩する流通は、社会を便利なものへと変えている。
 では、消費されたものは、ふたたび生産へとどうやって変化していくのか。その過程を、社会の進化や発展と関係なく、影で担い続けてきたのが「分解」だ。社会は、生産、流通、消費だけでは成り立たない。必ず前後には、分解が含まれる。さらに消費と分解は、混然一体の関係でもある。食する行為とは、同時に分解する行為である。喰らう私たちも、社会の分解過程を担う一つの通過点なのだ。
 付加価値を生み出す機能を持つ生産は、自然や社会の陽の側につねに立つ。しかし、明るいものにしか価値を認めない風潮は、どこか傲慢で生きづらい。比べて分解は、いつでも死と直結し、崩壊や汚れの象徴となるなど、陰の側面を一手に引き受ける。
 分解には価値を生む機能とは別に、すべてを中立に戻し、新たな時間の始まりを肥やす作用がある。分解者は規範や秩序等の堅苦しさとは一切無縁。制御された環境の空白を衝き、自己の快楽と興奮にしたがい生を享受する。それは蒼氓の美とおかしみに通じる。
 本当を言えば、生産よりも分解の方がずっと楽しく刺激的なことを、子どもの頃から多くが経験してきた。崩れゆく積み木、ロボットの切ない最期、蟻の街のバタヤ稼業、ファーブルの糞ころがし、壊れ欠けた道具や製品の数々。生産的であれと日々強制され続ける大人が忘れかけた「解きほぐす」ことの醍醐味を、本作は多彩な材料から呼び起こす。
 ただ、最初に読んだとき、これまでの作品が読者によく寄り添って書かれていただけに、内容の硬骨さに、正直、戸惑いをおぼえた。それがどうだ。少し時間を空けて読み返してみると、自分のなかで何かがぱっと弾けた(気がした)。きっと著者が仕込んだ巧妙な作用のせいで、私の思考が少しだけ発酵したのだろう。
 ウイスキーは、発酵と蒸溜の作用で人々に生きる悦びをもたらしてきた。本作の副題ほどサントリーの賞にピッタリのものは、そうない。これからも受賞者が、発酵と腐敗の効いた、どんな味わい深い作品を届けてくれるのか。呑みながら楽しみに待っている。

玄田 有史(東京大学教授)評

 

 

〔思想・歴史部門〕

板東 洋介(皇學館大学文学部准教授)
『徂徠学派から国学へ ―― 表現する人間』(ぺりかん社)

 中国古典に表わされた「道」を探求する儒学としての徂徠学と、外来思想が入ってくる前から日本に存在した「道」を継承しようとする国学と。主張としてはまったく対照的な二つの思想は、重要な側面で連続しながら、鋭い緊張関係を保っていた。1910年代に村岡典嗣が、そして40年代に丸山眞男がとりあげて以来、徳川思想史の研究において盛んに注目されてきた主題である。
 板東洋介『徂徠学派から国学へ』は、戦後の思想史研究において積み重ねられた諸見解を上手に咀嚼しながら、この大テーマに新たな角度から迫った力作である。従来、両者の思想の関係については、古典の解釈方法や言語論についてその連続と変容を語る、いわば時系列に即した分析が行われるのが通常であった。本書においてもその方法は一面で巧みに継承されている。
 しかし同時に、「表現する人間」という副題が表すように、世界と人間との包括的なとらえ方について、荻生徂徠と賀茂真淵、両者が一定の哲学を共有していた。そのことを、テクストの表面的な文言から深みへとわけいり、思想家の内面の奥底にある嘆きや嘆息まで掘り出しながら、叙述を展開するところに本書の特色がある。
 さまざまな職分によって構成され、経済発展を背景とした変動にさらされる社会。それをとらえるのに、朱子学のグローバル・スタンダードを粗雑に適用してすませることをやめ、複雑で不透明、自己の意のままにならない他者たちのうごめく空間として理論化したところに、荻生徂徠の独創性はあった。そして、徂徠が経世論から追放した、治者にとっての自己への配慮という問題に執着するところから、賀茂真淵の国学思想が出発したと板東は位置づける。
 経書というテクスト。さまざまな職分の「わざ」。古代の歌の「雅び」。それらが自己にとっては異質な「物」として迫ってくるという、内と外との断絶を確認しながら、同時にそれらに習熟し、みずからの「表現」を試みる。徂徠と真淵とが共有するそうした姿勢に、18世紀の日本に立ち現れた、「型」の思考を板東は見いだす。そしてそれは、それ以前の日本思想史にしばしば見られ、また近代にも強調される、「心」の教説とは対照的なものだと位置づける。徂徠と真淵は、この「型」の思考を対象化して言葉に載せることに成功した思想家なのである。
 おもしろいことに選考の席上では、文章がよみやすいという意見と、反対に難しいという声と、対極の評価が発せられた。それは、なめらかに議論を運びながら、同時に随所で哲学上の問いを喚起し、読者に考えさせる工夫を、叙述のなかにこらしているからであろう。「型」をめぐる問いを、みずからの思想課題として引きうけようとする。そうした著者の姿勢が、内容だけでなく文体にも沁みわたった作品として、本書は屹立している。

苅部 直(東京大学教授)評

 

古田 徹也(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)
『言葉の魂の哲学』(講談社)

 教室の黒板に書きつけた漢字が果たしてこれでよかったのかと感じたとたん、自信がなくなって、ただの線の集合にしか見えなくなって呆然とすることもある。著者によれば、だれもがときに感じるこうした現象は「ゲシュタルト崩壊」と呼ばれているという。このゲシュタルト崩壊は、夏目漱石が『門』で描き、中島敦は『文字禍』で、またホーフマンスタールは『チャンドス卿の手紙』で作品のテーマとした。著者はこの現象は人間にとって普遍的な問題であることを確認したあと、ウィトゲンシュタインが「言葉の魂」と呼ぶものの正体は何かという本題へと入っていく。まことに巧みな導入というほかない。
 では、ウィトゲンシュタインはこうした「ゲシュタルト崩壊」、あるいはその逆の「ゲシュタルト構築」(意味がなかった形状や音響が有意味なものに変化すること)と呼ばれる現象をどのような角度から考えていたのか?
 著者は、「スキーム」とか「アジェンダ」といったビジネス用語や記号論理学の人工言語などを例に取り、ウィトゲンシュタインの「言葉というものには魂があるのであって、単に意味があるだけではない」という発言をどう捉えるかをまず問題とする。ウィトゲンシュタインは、色の弁別に異常はあるが視力には問題がない「色盲(現在は色覚異常)」というものが存在するように、言葉の意味は理解できてもアスペクト(相貌)を掴むことが不可能なために言葉遊びや詩が理解できない人、すなわち「アスペクト盲」が存在することを挙げ、その理由を問うたが、著者はこれを「あるものの重要性を確認するために、そのものが存在しない事態を想定する」というウィトゲンシュタイン特有の戦略であると見なし、魂が宿ったようにしっくりとくる言葉をわれわれが選びとることができるのは、このアスペクトの変化に敏感に反応して言葉の立体的理解ができるようになっているからであるとする。
 では、魂が宿って多様なアスペクトを放つ言葉とは何なのか?この問いは、ウィトゲンシュタインに大きな影響を与えたカール・クラウスの召喚へとつながってゆく。なぜなら、クラウスは言葉には意思伝達の道具としての働きのほかに、かたち(ゲシュタルト)を成すという働きがあり、言葉を理解するとは「その言葉のかたちを把握する」実践にほかならないと考えるからである。クラウスは「当該の言葉で表現されなければならなかったものが、その言葉の創造において初めて浮き彫りになるというパラドクシカルな構造」を「創造的必然性」と呼び、われわれはこの「創造的必然性」に遭遇するまでしっくりくる言葉を探しもとめなければならないとする。つまり、「クラウスによれば、言葉を選びとるというのはそれ自体が一個の責任である」ということになる。われわれがこの倫理を失い、しっくりくる言葉を探す努力を放棄したとき、すべての面で堕落が始まり、その堕落の果てにはナチズムが現れてくるはずだ。
 日本で哲学研究というと、有名な哲学者の祖述を意味することが少なくないが、著者は日常の細部にこそ哲学の本質的問題が宿るという信念のもと、本著を書きあげている。この姿勢は高く評価されるべきである。
 ゲシュタルト崩壊という小さな問題から始めて、言葉の危機という大問題を手繰り寄せていくその哲学的膂力に喝采を送りたい。

鹿島 茂(明治大学教授)評

  

以上