サントリーウイスキー蒸溜所便り

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山崎蒸溜所便り

【100周年企画】鳥井信治郎とジャパニーズウイスキー~やってみなはれ~

2023年11月21日

こんにちは、水野めぐみです。
今回は山崎蒸溜所100周年企画の第二弾として、サントリーの創業者・鳥井信治郎のウイスキーづくりへの挑戦の歴史を取りあげます。


20231121yamaD001.jpg山崎ウイスキー館エントランス


山崎蒸溜所のウイスキー館は、11月から館内の展示をリニューアルし、より詳しく山崎蒸溜所の歩みをご覧いただけるようになりました。ぜひ山崎蒸溜所へ訪れた気分でご覧ください。


20231121yamaD002.jpg鳥井信治郎にまつわる展示コーナー


サントリーの創業者・鳥井信治郎は、1879年(明治12)に大阪で生まれました。13歳で丁稚奉公に入ったのは薬種問屋の小西儀助商店。当時、外国から輸入した薬品や葡萄酒を扱うことで知られていた店です。ここで学んだことの中でも、信治郎は特にいろいろな薬種を調合する楽しさにとりつかれたといいます。この経験が後に、ウイスキーのブレンド技術を磨く土台となりました。

そして、若干20歳にして鳥井商店(後の壽屋洋酒店)を立ち上げて独立しました。
始めに手掛けたのは「赤玉ポートワイン」。この商品の大ヒットが、蒸溜所建設を大きく後押しすることになるのです。


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赤玉ポートワインの展示コーナーでは発売当時のボトルも見ることができます


当時、ウイスキー事業の取り組みには周囲から多くの反対がありました。なぜなら、本格的なウイスキーづくりは本場のスコットランドやアイルランド以外では不可能だと考えられていたからです。ましてウイスキーは熟成に長い時間がかかります。建設の費用に加えて「寝かせている間ずっと利子がつく」という反対の声の中で、信治郎は「仕事が大きくなるか小さくなるか、やってみんことにはわかりまへんやろ。」と答えました。
洋装や洋食など、この国の生活が洋風に移行しつつあった時代。赤玉の成功に確信を得た信治郎は、「日本にもいつかウイスキーの時代が来る」と強く信じていたのです。
この「やってみなはれ」の精神と、日本でのウイスキーづくりへの熱い思いが結実したのがここ山崎の地でした。

信治郎と同じ想いを抱くものが集結し、1923年(大正12)、山崎蒸溜所の建設が始まりました。
国産ウイスキーという新しい市場への挑戦の歴史は、まさに信治郎の「やってみなはれ」から生まれた「開拓者精神」によるものです。


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操業期の山崎蒸溜所に関する展示コーナー


ここで一つ、エピソードをご紹介します。
蒸溜所の操業当時、原料の大麦ばかりが運ばれる中、製品は出てこない。地元の人は「大麦をくらうウスケ様(なる怪物)がいるらしい」と噂していたというのです。
その時、蒸溜所の中では連日大麦から麦芽をつくり、仕込み、蒸溜してひたすら原酒を貯蔵庫に送り込んでいました。製造に歳月を有するウイスキーという酒について、一般にはあまり知られていない時代の挑戦だったのですね。


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山崎蒸溜所の遠景(2023年10月撮影)


山崎蒸溜所から始まったサントリーウイスキーの歴史は、いまや100年。ジャパニーズウイスキーは世界中の人に愛され、山崎蒸溜所にも国内外問わず多くの方が来場されるようになりました。

「日本人の味覚に合ったウイスキーをつくりたい」。そう願い、挑戦を続けてきた鳥井信治郎。山崎蒸溜所が100周年を迎え、山崎蒸溜所発のジャパニーズウイスキーが海外のお客様からも注目を集めていることを、信治郎はどのように思うのか。尋ねてみたい想いになります。


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場内にある鳥井信治郎の銅像


ウイスキーを愛する人々の期待に応えるべく、これから始まる100年も、愉しみにしていただければ幸いです。もちろんわたしたち案内係も、創業者の思いを胸に、日々の仕事に向き合っていきます!

【100周年企画】第一弾はこちらから
★ジャパニーズウイスキーの始まりの場所~山崎蒸溜所~



【お知らせ】
山崎蒸溜所は更なる山崎の魅力をお伝えすべく、見学施設の改修工事を実施しておりましたが、2023年11月より営業を再開しました。一部見学ツアーの予約は抽選制となっています。詳細は山崎蒸溜所ホームページでご確認いただき、予約のうえご来場ください。

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