現在のバングラディッシュと酷似した60年前の日本の水事情
これまで「水の知」最前線では様々な切り口で“水”を取り上げてきましたが、今回は飲料水としての“水”にスポットを当てていきましょう。
人間が健康で快適な暮らしを営むには安全な水が欠かせません。しかし今現在、世界には安全な水にアクセスできない人々が約10億人いるといわれ、彼らの多くはコレラや赤痢といった伝染病に苦しめられています。
もっともそういった事実を耳にしても今の若い方には実感がわかないかもしれません。しかし昭和20年代、30年代の日本では、こうした伝染病は海外旅行に行って感染するものではなく、日本国内で感染してしまう病気でした。数年前、私がアメリカで開催された国際会議に出席した際、80歳くらいのご夫人に「日本では最近、水は大丈夫なの?」と衝撃的な質問をされたことがあります。
彼女は戦後まもない日本に滞在していたことがあり、当時「日本は水が危ないから生水を絶対に飲むな」と再三注意されていたため、“日本=水環境の悪い国”という認識がいまだにあったのです。まさに今の我々が東南アジアに旅行に行くときに注意されるのと同じことが、当時日本へ行くアメリカ人に言われていたわけです。実際、この頃の日本の人々は大雨のたびに冠水や雨漏りに苦しめられていました。当時は水洗トイレではなく汲み取り式のトイレが一般的ですから、冠水のたびに汚物があふれてしまい、水をめぐる衛生状態は非常に悪かったのです。ですから、昭和30年代には年間9万人以上の赤痢患者が発生し、命を落とす人も多くいました。当時子供だった私自身、赤痢にかかったことがあります。そうした経験や水に困った幼い頃の記憶が、私の眼を途上国の劣悪な水環境に向けさせたのかもしれません。
地下水に潜む目に見えぬ危険から人々を守る“水の知”
現在、安全な水にアクセスできないのは、主に東南アジアやアフリカなどの途上国です。そのなかには地下水を飲料水源として利用している地域が多くありますが、その地下水さえも自然の地質からフッ素や砒素が溶解している場合があります。どの国も日本のように安全な地下水に恵まれ、しかもきちんと水質基準が管理されているわけではないのです。
フッ素は日本では虫歯治療や歯磨きに利用され、一部の国では虫歯防止のために水道水に入れられるなど、その効能も認められています。また、砒素は温泉に含まれることもある成分です。しかし、いずれも多量摂取は健康被害を招きます。最近では飲用を控えるよう呼びかけている温泉があるのはそのためです。
微生物に汚染された水と違い、砒素やフッ素は摂取直後に健康被害が出ることはありませんが、長年多量に摂取し続けるとガンなどの深刻な病気を招いてしまいます。
しかし、飲んでもすぐに健康被害が出ないこと、見た目には清浄な水であることなどが災いし、現地の人々になかなかその危険性が理解してもらえません。
たとえば危険だから地下水は飲んでない、という人の尿からも高濃度のフッ素が検出されることがあります。それは汚染された地下水を直接飲んでいなくとも、米を炊くときの調理用水として使用しているからです。
また、煮沸したから大丈夫といって地下水を飲んでいる人もいます。煮沸すれば殺菌はできますが、砒素やフッ素はなくならないということを知らないのです。
そうした現状を目の当たりにすると、水道や浄化設備などのハードウェアを作るのと同じように、何が安全で何が危険かといった正しい知識が人々を救うには不可欠なのだと感じます。
まさに“水の知”の普及が大切なのです。
また、手や顔を洗うという習慣は日本ではあたりまえのことですが、世界にはその習慣がない国がたくさんあります。清浄な水がないので手洗いの習慣が身につけられないのですが、そういった地域ではトラコーマという感染症で失明する人が大勢います。彼らに手を洗う清浄な水を与えるのはもちろん必要ですが、同時に手洗いの習慣を教え、身につけさせることも大切なのではないでしょうか。
イスラム教にはお祈りをする前には手を洗いなさいという教えがあります。もしかすると、こうした教えも衛生的で安全な暮らし方を広めるために、宗教という形を借りた昔の人の知恵なのかもしれません。
現代において水の知識を広めるならば、学校などの教育はもちろん、海外青年協力隊の方々などにも“水の知”のアンバサダーになってもらえるといいと思います。
地域に見合う“適正な技術”を探るには、水の人間だけではだめ
日本の水環境がよくなるにつれ、昭和30年代には30%台だった日本の水道普及率も、現在では97.5%と世界的にみても高いものになりました。そうなるまでに約40年の歳月と莫大な投資が必要でしたが、日本は高度成長期の波にうまく乗り、インフラが整備されたのです。日本の国土が狭いことも水道管を張り巡らすには都合がよかったといえるでしょう。
しかし、当時の日本と同じようなやり方で現在の途上国の水問題が簡単に解決できるわけではありません。 たとえば同じ先進国でも、広大な土地を有するアメリカではすべての地域に水道管を張り巡らすというのはあまり合理的な方法ではありません。そのため小さなコミュニティで水道を作ってそれぞれ管理したり、自分で井戸を掘って利用したりするケースが多いようです。
このように国が違えば実情が違いますし、人の密集した都市部と人の分散した農村部でも水をとりまく実情がまったく違うわけですから、その国その地域の実情にあった水環境の整備の方法を考えるべきです。水道施設を整備するには莫大な資金を投資して、それを料金として回収しなくてはなりませんが、それが難しい場合もあります。なぜなら途上国の農村部では80~90%の人々が自給自足の生活をしており、現金収入がほとんどないからです。現金を持たない者が水道料金を払うということ自体、現実的ではありません。
また日本の水道は、東京都水道局を例にとると、わずか3%という先進国の中でも際立った漏水率の低さを誇りますが、同じものを途上国に求めるのも現実的ではないでしょう。漏水率が低ければたしかに水資源をムダにせず回収資金が見込めますが、一方で漏水を発見するには莫大なコストがかかります。漏水率を下げることばかりに目がいってしまうと、投資額が高くなり、その水道事業は赤字になってしまいます。ですから漏水による損失とコストのバランスをうまく取り、適正な技術に投資をするのが一番現実的といえるのです。
長年こうした問題に取り組んできて、私は「水の人間だけでは水の問題は解決しない」と実感するようになりました。水というのは貧困問題や社会の風土と密接にからんでいるもの。ですから水の専門家やエンジニアだけではなく、栄養学の知識やその土地の社会と密接にかかわり、その土地の実情を知る人との協力が不可欠なのです。
海水淡水化だけじゃない!? 小規模プラントで安全な水を作る「膜ろ過浄水システム」
世界的に見て、水汲み労働を強いられているのは女性か子供です。家長である男性は水汲み労働をしないので、そういう労働がどれだけ厳しいものなのか理解しづらい。ですから、地域によっては社会的・家庭的決定権を持つ男性が料金を払ってまで水道の整備を望まないことも多いようです。それどころか労働に当たっている女性ですら、それを望むとは限りません。
以前、私はとある国際会議で「後から井戸を作るとアクセスが不便になるので、最初から計画的に井戸を中心に家をつくるようにしてはどうか」と提案したことがありました。しかし、スウェーデンの女性研究者がそれに異を唱えました。彼女いわく、かつてそれをタンザニアで実践し、水へのアクセスを改善したところ、その井戸が壊されてしまったというのです。壊したのはそこに住む女性でした。
その地域は厳格な家父長制の社会であり、女性たちは男たちの許可なしに自由に出歩くことが許されません。そんな生活のなか、彼女たちにとって水汲み労働だけは男たちの支配から逃れられる自由な時間だったのです。ですから1キロ、2キロ先の水源まで同じコミュニティの仲間と連れ立って歩いていくのは、肉体的には過酷な労働だったとしても、精神的には数少ない楽しみだった。その毎日の楽しみを奪われた彼女は、その元凶である井戸を破壊してしまったわけです。
つまり我々が提案する改善策が、かならずしも途上国の人々が求めているものと一致するとは限らない。水というものが生活と密接したものだけに、彼らの生活のスタイルを無視してこちらの価値観を押し付けても受けいれてもらえなのです。
日本では最先端の研究は進んでいますが、途上国の実情に見合った適正な技術を研究する人が非常に少ない。実際には最新技術よりも、ローカルなものを使った技術やどこから水を持ってくるのが一番合理的か考える技術など、様々な研究を実践に移していく知恵が必要とされています。日本でももっとそういった技術に目を向ける人が増えるといいですね。
私が研究開発しているもののひとつに「膜ろ過浄水システム」というものがあります。膜ろ過というと、サウジアラビアのようなお金持ちの国が海水から淡水を作り出すために何万トンもの水を浄化させる大規模なプラントを思い浮かべる方が多いようです。ですから小さなコミュニティではお金がかかりすぎて維持管理できないと思われていますが、かならずしもそうではありません。
実際に同じ技術を応用したずっと小規模な施設が、タイの様々なコミュニティに導入され、現地の方が自分たちでオペレーションして地下水を浄化しています。
水道事業は公共事業か大企業が参画する水ビジネスのどちらかと考えられがちですが、たとえ小さく貧しいコミュニティでも、水道施設を建設した後に適正に運営していく仕組みを作ることさえできれば、自分たちで運転管理ができるのです。
最新技術や資金の提供だけでなく、それぞれの社会に見合う適正な技術を駆使し、人材を育成し、システムを作り上げ、水の基本的な正しい知識を広く伝えていく──。そうして“水の知”のギャップを埋めていけば、世界の水環境はもっと改善されるに違いありません。