2016年2月 3日
#467 寺田 大樹 『悔しさしかありません』
新人選手で唯一、今シーズンのトップリーグレギュラーシーズンで出場機会のなかった寺田大樹選手。その長身とフィットネスを活かしたプレーに、本人も自覚している課題を乗り越え精神面が加われば、来シーズン初キャップ獲得への期待が高まります。1シーズン目を終えた寺田選手に訊きました。(取材日:2016年1月15日)
◆毎年10cmずつ伸びた
—— 身長がチームの中で篠塚選手(196cm)に次いで高い寺田選手(195cm)ですが、いつ頃から大きくなったんですか?
小学6年の時に165cmくらいあって、中学に入ってからは毎年10cmずつ身長が伸びました。両親も身長が大きくて、母親が170cmくらいで、父親は180cmくらいあると思います。両親よりも祖父の方が大きくて、若い時は180cm後半はあったそうです。祖父は90歳後半の年齢で、身長の平均が160cmくらいだった時代にそのくらいの身長があったので、当時は相当大きかったと思います。
—— 生まれは?
秋田県です。周りにそんなに大きい人はいなかったんですが、親戚も含めて家族は大きいと思います。兄が僕とまったく同じ身長で、姉も170cmくらいあります。兄は高校までバレーボールをやっていて、僕よりも細いですよ。
—— 身長が毎年10cm伸びた時は、何か特別なことをやっていたんですか?
小学生の時はたくさん寝ていました。だから、「寝る子は育つ」っていうのはあながち間違っていないと思いますよ。
—— どのくらいまで伸びていましたか?
大学に入った時が193~194cmくらいで、卒業する頃に195cmくらいになっていました。最近は測っていませんが、さすがにもう伸びてはいないと思います(笑)。
—— よく食べていた物や飲んでいた物はありますか?
小さい頃から牛乳が好きで、兄弟3人で1リットルの牛乳を毎日2~3本は飲んでいました。なので母親が毎日牛乳を買っていました。普通の人であれば、喉が渇いたら水を飲むと思うんですが、僕ら兄弟は水ではなくて牛乳を飲んでいました。
—— 身長が大きくて得をしたことはありますか?
いまラグビーが出来ていることだと思います。小学生の時に兄と一緒に野球を始めて、中学までは野球をやっていました。ファーストとピッチャーをやっていたんですが、ピッチャーでは身長を活かした投げ方ではなく、下からのアンダースローで投げていました(笑)。(ちなみに、同じく長身の篠塚公史選手も野球をやっていた頃はピッチャーでアンダースローだったそうです)
ある時、中学の担任の先生から「身長を活かしたスポーツをやってみないか?」と言われて、バスケットボールやバレーボールを勧められました。その時、兄がバレーボールをやっていて、野球も一緒にやってきてバレーボールも一緒にやるのは嫌だったので、違うスポーツをやってみたかったんです。
その担任の先生が秋田工業高校のラグビー部の監督と知り合いで、その監督から「ラグビーをやらせてみないか?」と言われていたらしく、それでラグビーを始めることになりました。その言葉がなければバスケットボールをやっていたかもしれないですね。
兄も秋田工業高校に通っていて、兄の友達にラグビー部のキャプテンだった高橋大祐さん(秋田ノーザンブレッツ)がいて、母親がラグビーに興味を持っていたらしく「ラグビーをやってみたら?」と言われました。僕はそれまでラグビーについては全く知らず、興味もありませんでした。
◆野球の経験が活きている
—— ラグビーをやってみてどう感じましたか?
ルールも分からなかったんですが、新人戦にも出させてもらいましたし、「ラインアウトで飛んでボールを取るだけで良い」と言われていました。ボールを取るだけで凄く褒めてもらえて、それが嬉しかったことを覚えています。
秋田工業高校は走る練習が多いんですが、中学までは体力に自信がなくて、ついて行けるか不安でした。でも、実際に練習をやっていくうちにどんどん体力がついていって、高校では体力に自信を持つようになっていました。今のプレースタイルもそこが原点になっていると思います。チームがそれほど強くはなかったので、常に味方をサポートすることを意識して走っていました。
—— どんどん成長していったんですね
本当にゼロからのスタートでした。秋田工業高校に入る選手の半分は未経験の人ばかりで、みんなで一緒に頑張って成長していったという感じがありました。
—— 野球の経験がラグビーに活かされていることはありますか?
ボールの落下地点に入ることやキャッチについては、野球の経験が活きていると思います。
—— ラグビーを本格的に取り組み始めたのはいつ頃ですか?
ラグビー部に入って半年くらいで新人戦があって、その新人戦から本気で取り組むようになったと思います。これまで自分の身長を活かせることもありませんでしたし、こんなに褒めてもらえることもなく、自分の存在を認めてもらえたことが嬉しくて、その経験があったからラグビーが面白くなっていったんだと思います。
—— ラインアウト以外で面白さを感じたところは?
その時はまだ体が細くて、アタックでもボールを持って前に出ることが出来ませんでしたし、タックルも弱かったんです。チームの中で出来ることは走って、サポートプレーをすることだけだったので、そういうプレーに徹していました。
ラグビーは15人じゃなきゃ出来ないスポーツだと思います。野球もチームスポーツなんですが、自分との勝負という部分が大きくて、個人の力が大きいと思います。そういうところを比べても、ラグビーは本当のチームスポーツだと感じますし、ラグビーは絆が強くなると言われますが、それを本当に感じたのが高校時代でした。高校の同期とは、今でも連絡を取っていますし、そういうところがラグビーの凄さだと思います。
—— 自分の力がラグビーで通用すると感じたのはいつですか?
高校1年の終わり頃だったと思います。新人戦で東北大会まで進んで、決勝で仙台育英高校に負けました。その決勝で、1年で一緒に新人戦に出た同期からパスを受けた時に、僕がボールを落としてしまい、ノックオンで試合が終了してしまいました。それが本当に悔しかったです。
野球では地区大会の初戦で負けてしまうようなチームでプレーしていたので、東北大会の決勝でも僕の中では大きい舞台でした。そういう舞台で僕のミスで勝てなかったことが悔しくて、それが忘れられませんでした。
それまでは「ルールがあまり分からないからいいや」という甘えがあったと思うんですが、それからは自分がプレーしている立ち位置が理解できましたし、プレーに対して真摯に取り組むようになったと思います。そういう考えでラグビーに取り組むうちに、徐々に通用する部分を感じることが出来たと思います。
—— それ以降はチームも強くなっていきましたか?
次の年からは東北大会でも優勝し、全国大会に出場することができ、2年の時に初めて花園に行きました。
—— 初めての花園はどうでしたか?
大阪は秋田よりもラグビー人気が高いですし、花園への憧れもありました。初めての全国大会で、そういう雰囲気の中でプレー出来たことは良い経験になったと思います。
◆後悔する前に行ってこい
—— 大学はなぜ明治大学に行こうと思ったんですか?
当時は目標を高く持てていなくて、全国大会にも出場しましたし、選抜にも国体にも出場したので、自分の中で納得してしまっていて、高校3年でラグビーは止めようと思っていました。あと、兄が高校を卒業して就職をしたんですが、その姿がとても楽しそうで、その兄を見ていたので僕も高校を卒業したら就職しようと考えていたんです。
そういう気持ちではいたんですが、夏合宿が明けた頃に明治大学から声を掛けていただきました。凄く悩みましたが、当時の監督だった黒澤光弘監督に「明治から声を掛けてもらえたんだから挑戦した方が良い」と言われ、親に相談しました。親には「お前が行きたいんだったら認める」と言ってもらえましたし、当時の明治大学の監督だった吉田義人監督が高校まで来てくれて話をして下さいました。
当時の僕はまだラグビーの知識が多くない中でも、早明戦の凄さを感じていましたし、憧れもあったので、明治大学から声を掛けていただいたことは素直に嬉しかったです。黒澤監督にも「後悔する前に明治に行ってこい。明治大学に選んでもらえて行かないことがあるか」と言われて、その言葉で、これまでの考えを変えて、明治大学に進むことを決めました。
—— 大学進学で初めて東京に来たと思いますが、東京はどうでしたか?
秋田の田舎者だったので、ビルの高さと多さに驚きましたし、都会だなと思いましたね(笑)。同じ秋田工業から明治大学に行った村井(佑太朗/釜石シーウェイブス)と一緒に試験に行ったんですが、2人で周りをキョロキョロしていました。
—— 明治大学のラグビーはどうでしたか?
入った当初は、体が細くて身長だけの僕が、なぜ重戦車と言われるようなフォワードが強い明治に入ることが出来たのかと思っていましたが、明治に入った以上はフォワードとして、体を強くしてサポートプレーヤーでやっていこうという思いがありました。
—— 明治大学でもラインアウトは強みだと思っていましたか?
やはり周りと比べても身長が大きかったので、武器だと思っていました。
—— 体力面についてはどうでしたか?
入った当初は、チームの中でも上位に入るくらいの体力はありました。他の人よりも体重が10~20kgくらい軽かったこともあると思いますが、バックスくらい走れていました。
—— 明治大学に入り、体を大きくしていったんですか?
ウエイトトレーニングと食生活を変え、体を大きくしていきました。寮で生活していたので、栄養指導をしてもらい、朝からご飯をたくさん食べるようにして、90kgくらいしかなかった体重が、最終的には100kgを超えるくらいに徐々に増えていきました。
—— 体重が増えることによって体力面やスピード面はどうでしたか?
やはり体重が増えたことで体力面などは下がってしまっていたので、自信を失う時期がありましたが、ロックとしてやっていく上では体を大きくしていかなければいけないと思っていました。
◆一心不乱に走りまわっていた
—— 大学では何年生からレギュラーでプレーしていたんですか?
1年の最後の早明戦で初めてリザーブに入ることが出来て、2年からはレギュラーで出させてもらっていました。
—— 初めての早明戦はどうでしたか?
緊張し過ぎて、あまり覚えていないんです。先輩でずっと早明戦に出たいと思っている方たちがいる中で、1年で出させてもらえることになって驚きました。早明戦のメンバー発表の時に、18番で名前を呼んでもらえたんですが、呼ばれると思っていなかったので、反応することが出来ませんでした。
初めての早明戦は今までにないくらい緊張しました。選手入場でグラウンドに入った時に、今はなくなった国立競技場だったんですが、3万人くらいのお客さんがいて、「これが早明戦か」と圧倒されてしまいました。
出場したのは試合時間の残りが6分の時だったんですが、ラインアウトで緊張のあまりジャンパーではなくリフターの位置に入ってしまい、そこから自分が何をしているのかが分からなくなり、試合が終わるまで一心不乱に走り回っていたと思います。僕が出場した時は1点差で勝っていたんですが、試合終了直前にペナルティーゴールを決められて、2点差で負けてしまいました。1年の時にその経験をしたお陰で、それ以降はそういう状態になることはありませんでした。
—— 緊張はするタイプですか?
あまり緊張はしないタイプなんですが、1年の時の早明戦は緊張しました。
—— 大学の4年間で得たものは何ですか?
僕が大学にいる4年間で優勝することも出来ませんでしたし、1度も年を越してプレーすることが出来なかったので、悔しい思い出しかありません。大学4年の時にはラインアウトのリーダーをやらせてもらっていましたし、試合に出られなかった後輩たちもいたので、本当に悔しかったですね。
—— 4年間で更に自信をつけたところはどこですか?
大学時代はサポートプレーで常に走るということと、ラインアウトのリーダーでコーラーをやっていたので、緊張するような大舞台でも的確に行うということです。外から試合を見ていると、セットプレーが大切ということが本当によく分かります。
—— ラインアウトのコツは?
コーラーが一番大事になると思います。相手を見て瞬時に判断してコールしなければいけないんですが、まだまだ力不足のところはあると思います。相手のディフェンスの陣形があって、その陣形には必ずメリットとデメリットがあるので、そのデメリットを素早く見つけて、いかに相手の弱いところでボールが取れるようにするかが大事になると思います。
あと、大学時代は、「迷ったら自信を持って自分で取れ」と言われていたんですが、その自信を持つことが難しかったです。何度も「なんで自分で取らないんだ」と言われ続けたんですけど、背の高い相手にマークされている中で、自信を持って自分に投げるコールが出せませんでした。
その自信を持つことが課題でもあります。サントリーではコーラーではないんですが、以前よりもコーラーの人にボールを要求できるようになってきていると思います。あとはジャンプやキャッチなど、細かないスキルが大事になるので、その1つ1つを極めていきたいと思います。
◆このままラグビーを止めてしまっていいのか
—— サントリーに入った経緯は?
大学でも高校時代と同じで、ラグビーを止めて普通の社会人として働こうと考えていました。その中でサントリーから声を掛けていただいたんですが、最初はトップチームの中でやっていけるか不安に思っていました。不安に思っている中で、キヨさん(田中澄憲/チームディレクター)と何度か話をさせていただき、そこで熱い話を聞かせていただきました。
もちろんラグビーをやっていくからには上を目指したいと思いますし、日本代表になりたいという気持ちもあります。あと大学時代に優勝できなかった悔しさがあったので、このままラグビーを止めてしまっていいのかという思いもありました。サントリーではラグビーをやりながら仕事もしっかりとやらせてもらえるので、そこでサントリーに入ることを決めました。
—— 高校時代から働きたいという思いがあったということですが、働くということに魅力を感じていたのはなぜですか?
働きながら好きなことをやっている兄が凄く楽しそうだったんです。兄は公務員なんですが、休みの日にスキーやスノーボードをやったり、バスケットボールや野球、バレーボールなど、好きなことを全部やっていました。高校時代は、そういう生活に憧れがあったので、仕事をしたいというよりは、社会人になりたいという思いが強かったと思います。
大学時代は、ラグビー選手としては長くても30歳代後半まで、早ければ30歳くらいで引退しなければいけないと考えるようになり、そう考えると、仕事をしっかりと出来なければいけないと考えるようになっていました。
—— 実際に社会人になってみてどうですか?
仕事のやりがいもありますし、営業をやっていて色々な人と繋がることに魅力を感じているので、楽しく仕事をやらせてもらっています。
—— ラグビーについてはどうですか?
まだはっきりとした自信を持つことが出来ていませんが、練習をしていく中で指導して頂いたり、期待をして頂くこともあって、そういう環境の中で生活することが出来ていて幸せだと思っています。まだ試合に出られていませんが、見放されることもなく、常に気にかけていただいているので、その期待応えるためにも、更に頑張らなければいけないと思っています。
—— 今の課題は何ですか?
課題しかないと思います。一番はフィジカル面で、サポートプレーをするにしてもフィジカルは必要で、それが出来なければ、仕事をしていないのと同じだと思います。フィジカルを上げるために、全体練習の後にウエイトトレーニングをしたり、食事に気を付けたりしています。その他にも色々と指摘していただいていることがあり、少しずつは出来るようになっていますが、まだまだ力不足だと思うので、毎日の練習でどれだけ細かい所にもこだわっていけるかを考えて取り組んでいます。
徐々には良くなってきていると思いますが、「今日はここが良かったけど、ここは出来ていない」とかその逆があったりしているので、全部が繋がって良くなっていき、それが常に出せるようにしていかなければいけないと思います。
—— 体は大きくなっていますか?
サントリーに入った時は体重が100kgを切るくらいだったんですが、今は105kgくらいまで増えました。
—— 大学時代と比べて、トレーニング方法や食事などに違いがありますか?
サントリーに入って最初の頃に、周りの選手の食事に対する意識が全く違っていて、自分の食事に対する意識の低さに恥ずかしさを感じました。大学時代は寮だったので、食事を出していただいていたんですが、ただたくさん食べればいいという考え方でした。今は栄養管理や水分まで考えて摂るようにしています。
—— 課題を克服し理想の姿となるまでには、今はどのくらいまで来ていると思いますか?
まだ20%くらいで、トップリーグでプレーするためのスタートラインにも立てていない状態だと思います。練習をしていても、チームメイトに対抗する力もないので、悔しさしかありません。
ただ、日々のウエイトトレーニングの中で、自分の体の変化を感じているので、グラウンドでプレーとして現れたら自信にも繋がると思うので、そういうプレーを積み重ねていかなければいけないと思います。
—— 同期が4人いて、他の同期がトップリーグでプレーしましたが、焦りなどはありますか?
焦りはありますが、その現実は自分の中で受け止めていて、自分はまだスタート地点にも立てていないと思っているので、同期に頑張ってもらいたいと思っています。ただ、将来的には同期で一緒に試合に出たいと思います。
—— 来シーズンの目標は?
やはりトップリーグの試合に出ることです。1年間で経験したことを2年目に繋げていかなければいけないと思っています。
—— 高校時代の監督やご両親からは何か言われていますか?
地元に帰った時には必ず高校に顔を出しているので、その時に話をするんですが、「試合に出るところを見たい」と言われます。今までお世話になった人たちに対して、試合に出る姿を見せて恩返しをしたいと思っています。
—— ファンの人にはどういうところを見てもらいたいですか?
声はよく出している方だと思います。垣永さんが試合中によく吠えていますが、僕も吠えている方だと思っています。僕の場合は自分に言い聞かせている部分があるんですが、そういう姿を見てもらいたいと思います。
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:五十嵐祐太郎)
[写真:長尾亜紀]