SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2016年1月 6日

#463 森川 由起乙 『ラグビー選手であり続けて日本代表に入る』

大きい体にたくさんの逸話が詰まっている森川由起乙選手。淡々と、そして一生懸命に話してくれた姿には、挫折や苦しい経験を乗り越えた強さを感じます。一度は辞めようとしたラグビーを今でも続けていることに感謝しながらグラウンドを走り回る姿をいつまでも見せて欲しい選手です。(取材日:2015年12月15日)

◆父親に言われたからやっている

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—— 第一印象として体が大きいと感じましたが、子供の頃から大きかったんですか?

小学生の時は、体重はそれほど重い方ではありませんでしたが、身長は大きい方だったと思います。僕は小学1年の時に兄弟と一緒に野球を始めて6年までは野球をやっていました。中学1年になる時に父親の勧めでラグビーを始めて、そこから一気に体重が増えて1年間で20kgくらい体重が増えました。

—— お父さんは元々ラグビーが好きだったんですか?

担任の先生がラグビースクールの校長先生をやっていた方で、その方の紹介もありましたし、弟が2人いるんですが、小学1年生の時から弟がラグビーをやっていた関係で、父親がラグビーにハマって、大学や社会人のラグビーを見るようになっていたので、僕にもラグビーを勧めてきました。

—— お父さんは何かスポーツをやっていたんですか?

バレーボールと重量挙げをやっていました。中学まではバレーボールで、高校から重量挙げをやっていたみたいです。

—— 出身は?

兵庫県の尼崎市です。僕が通っていたラグビースクールは小さいところで、東京だとラグビー部がある学校が多いと思いますが、兵庫県はラグビースクールが主流なので、一般の人の認知度はあまり高くはないと思います。

高校になれば、関西学院や報徳学園など花園の常連校があるので認知度は高いんですが、中学まではスクールばかりなので、他の友達から「ラグビーって何?」というリアクションをされていました。

—— 野球のセンスはありましたか?

兄弟でバッテリーを組んでいて、ピッチャーとキャッチャーを交代でやっていたので、ある程度は出来ていたと思います。次男はそのまま野球を続けて青森山田高校に進んで、甲子園にも出場したので、僕も甲子園まで応援に行きました。兄らしい結果は残すことが出来ませんでしたが、甲子園に出ている兄の姿を見て、当時高校生だった僕にも良い刺激になりました。競技は違いましたけど、良いライバルと思い、ラグビーにも活かせたと思います。

—— 野球を続けようとは思いませんでしたか?

ラグビーを始めた当初は、楽しいとは思ったんですが、僕はあまり走るのが得意ではなかったですし、野球の方が友達も多かったので、正直、野球に未練はありました。

一度やると決めたことを簡単には止めさせてもらえなかったので、ラグビーを始めた当初は、「父親に言われたからやっている」という思いがあったと思います。親はやることに対して人一倍応援をしてくれるんですが、「止める」と言ったら反対をされますし、めちゃくちゃ怒られていました。

—— 熱いお父さんなんですね

そうですね(笑)。僕が中学生くらいまではめちゃくちゃ怖かったんですが、大人に近づくにつれて、だんだん見守ってくれるようになったと思います。

◆1ヶ月にお米を90kg

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—— ラグビーを始めて1年間で20kgも増えたということは、たくさん食べたんですか?

とにかく父親に「食べろ」と言われていました。僕は男5人兄弟の真ん中なんですが、両親と兄弟の7人で1ヶ月にお米を90kg食べたことがありました(笑)。よく合宿などで使う大きな炊飯釜でご飯を炊いても、ほぼ兄弟5人だけで1日で食べきってしまっていました。

母親は料理を作るのが大変だったと思います。だから、1人にこれだけのおかずという感じではなくて、メインのおかずが大皿で2つくらい出てきて、そこからは兄弟の争奪戦になります。その光景は暑苦しかったと思いますが(笑)、みんながご飯の時にちゃんと揃うようにして、7人でご飯を食べるようにしていたので、静かな日はなかったと思います。

そういう食生活だったので、一気に体が大きくなりました。中学の入学式の時には、身長が163~164cmくらいで、体重が50kgくらいだったんですが、中学2年になる時には、身長が168cmくらいで、体重が72kgになっていました。その次の年も20kg増えたので、2年で40kgくらい増えました。そして、高校に入る時には体重が103kgになっていました。

—— 中学の3年間で体重が倍になって、どういう感じだったんですか?

もう走ることは出来なかったですね。中学ではランパスやコーチが蹴ったボールをみんなで追いかけるような練習をしていたんですが、いつもみんなから置いていかれて、1人で走っているような感じでした。だから、面白くなかったですし、走ることが嫌でした。

高校の時も他の人よりも走れなかったんですが、走ることを重視する学校で、負けず嫌いだったので、意地で周りについていっていました。高校2年くらいから体脂肪を気にし始めましたし、走るためには何が必要かを考えるようになって、試行錯誤しながら取り組んでいました。実際に自分が走れるようになったと感じたのは、大学になってからだと思います。

—— 徐々に走れるようになっていったんですね

中学で体が一気に大きくなって、高校では体重をキープしたまま筋量が増えていき、大学で動けるようになったと思います。

◆その子の先を繋げたい

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—— これからもラグビーを続けていくと決意したのはいつ頃ですか?

中学2年に上がる前の頃だったと思います。中学1年からラグビーを始めて、まだ全くルールが分からない時に兵庫県のスクール選抜に選ばれました。ルールも分からないのに県の選別に選ばれて、そこでこれまで経験したことのないような練習をやりましたし、夏の時期に毎回吐くほど練習をさせられて、そこで一気にラグビーが嫌いになりました。

当時の兵庫県代表の監督が、ちょうど監督を辞めようと思っていた時期だったみたいで、その時に言われた言葉が「自分は今年いっぱいで辞めるつもりだったけど、ある1人の子を見つけて、その子の先を繋げたい」と言って、僕が高校を卒業するまでコーチであり続けてくれました。

僕が直接言われた訳ではなく、親から間接的に聞いた言葉だったんですが、ルールを分かっていない僕に対して、これほどの言葉を言ってくれたことが中学1年でも感じるものがあって、「これは続けなアカンな」と思いました。

—— なぜそういう言葉を言ってもらえたと思いますか?

なぜでしょうね。父親には、よく「グラウンドにいる時には常に負けず嫌いな顔をしている」と言われますね。負けることが嫌ですし、「お前はこれが出来ない」と言われることが嫌です。「プロップだからパスもキャッチも出来ないからボールに触るな」と言われるのは大嫌いなので、家でも常にボールを触りながらパスの練習をしたりしていました。出来ないことを無くす作業を繰り返していましたね。

—— ラグビーを面白いと感じ始めたのはいつ頃からですか?

高校1年の時に花園に出た時からですね。高校でもまだまだ力不足の部分はありましたが、監督が1年の時から3番で使ってくれていました。僕が1年の時に、3年生に兵庫県ラグビースクールで一緒だった先輩が4人もいて、リーダーシップとチームのまとまり感があり、花園で準決勝まで進むことが出来たので、全てが面白かったですね。しかも、準決勝は0-3で負けたんですが、確か僕のハンドでペナルティーゴールを決められて負けたので、そういった意味でも忘れられないですし、面白かったので、1年目から良い思い出が出来たと思います。

◆弱音を吐くのが好きじゃない

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—— 高校2年生と3年生の時はどうでしたか?

2年の時もベスト4までは行きましたが、準決勝で垣永さんがいた東福岡と対戦し、垣永さんにボコボコにやられました(笑)。3年に上がる時に大きな怪我をしてしまったんですが、その時に素早い処置をしていただいたので、いま僕がプレー出来ていると思います。

—— 復帰するまでにはどれくらい時間がかかったんですか?

復帰までに1年かかり、プレー出来るようになったのは大学1年の4月でした。

—— 高校3年生の時には全くプレーが出来なかったんですね。その時の気持ちは?

ラグビーをやりたくても出来なかったですし、3年ではキャプテンを任されていたんですが、僕は話すのが上手い方ではありませんし、プレーで引っ張っていくタイプだったので、頭を上手く使うことが出来ず、フラストレーションばかり溜め込んでいたと思います。一時期はラグビーを忘れたくて試合を一切見ない時もありました。

—— それでもキャプテンとしてラグビーを続けたんですね

高校時代は色々な人に支えていただきました。キャプテンなのにプレー出来ないことで、我慢することは身に付きましたが、怪我をすると成長が止まってしまうので、もうあの時のような経験は味わいたくないと思いますね。

人生で初めて大きな怪我をして挫折を味わいましたし、リハビリがキツ過ぎて、逃げ出しそうになりました。父親に弱音を吐くのが好きじゃないので、1人で抱え込んでしまい、一杯一杯になってしまう時期もありましたね。

—— どうやってその時期を乗り越えたんですか?

帝京大学に進むことは決まっていたので、「大学1年の4月からプレーする」ということを目標に、とにかくリハビリも頑張りましたし、必死に取り組むしかないと思うようにしました。

◆父親は「そうか」と ...

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—— 帝京大学のグラウンドに立った瞬間は嬉しかったですか?

ラグビーがやっと出来るという思いになりましたし、もう凄く嬉しかったですね。

—— 復帰後はそのまま順調に成長出来ていましたか?

順調に来ていましたが、復帰してすぐのゴールデンウィーク明けに流通経済大学と試合をして、そこでまた同じ個所を怪我してしまいました。試合中はあまり痛さもなくてプレーを続けたんですが、翌日病院に行ったら、同じ怪我をしていることが分かり、「またあの1年を過ごさなければいけないのか」という思いになりました。その時に初めて父親に「ラグビーを止めてもいいかな」と伝えたんです。電話で伝えたんですが、「また同じ個所を怪我してしまい、もうリハビリに耐えられないかもしれない」と言ったら、父親はその時「そうか」と一言だけ言いました。

岩出監督(雅之/帝京大学ラグビー部監督)にも「ラグビーを止める方向で考えたいんです」と伝えました。岩出監督はその時、僕の怪我に対して、「お前が怪我でラグビーが出来ない体になっても絶対に就職先を見つけてやるから、ラグビー部に残ることを優先した方が良い」と言ってくれましたし、「ラグビーが出来なくても、お前には人生がある。その怪我のために人生まで捨てることはない。とにかくここには残れ」と言われました。

高校の時は、ラグビーは早稲田というイメージが強くて、父親も早稲田というイメージを持っていました。ただ、実際に練習を見学した時には、帝京大学に魅力を感じましたし、岩出監督と話をしていて熱い人だと感じました。岩出監督は選手に対して思いやりがありますし、選手1人1人のことを考えてくれているので、この人のもとでラグビーが出来て、本当に良かったと思います。

◆プレーの幅も広がった

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—— 2度目の怪我では、また復帰までに1年間かかるという感覚でしたか?

2度目の怪我の時は手術という選択をしなかったので、5月に怪我をして早くて8月には復帰できると言われました。最初は安静にしていましたが、その選択をしたおかげで、今では怪我をした個所をテーピングで固定しなくても普通にプレーすることが出来ています。

怪我をする前は常に100%でプレーしていて、負けず嫌いなので、タックルされて無理な態勢になっても倒れたくなかったんです。「ここで倒れたら負け」と自分に課していて、タックルされても倒れないように常に100%でプレーしていたんですが、復帰してからは、常に100%でプレーすることを、少しの間は控えるようにしました。あとボールをもらう前に半歩だけでもずらすことで体にかかる衝撃が半減するので、真正面でぶつかることも控えるようにしました。そういうプレーを心掛けるようにしていたので、大学2年からはプレースタイルがガラッと変わりました。

以前はハーフから走らずにボールをもらって、自分で走り出してクラッシュするプレースタイルでしたが、ボールをもらうまでの動きを全て変えて、アングルやボールをもらう前のコース取りを考えたスタイルになりました。

—— プレースタイルを変更するために、バックスの動きなどを見て研究したりしたんですか?

バックスの選手やバックローの選手に話を聞いたり、その人のプレーを見たりしました。どういったコース取りで走っているのか、ボールをもらうまでにどういったスペースを見ているのか、ということを教えてもらったり、ビデオを見ながら自分で研究したりしましたね。

—— プレースタイルが変わったことで、ラグビーの見方も変わりましたか?

自分にもこういうプレーが出来るのかとか、こういう幅を使うことが出来るのかと気づきましたし、このスタイルの方が今のラグビーにはついていけるとか、プロップがこういうプレーをしたら他のみんなが助かるんじゃないかと思いましたね。スタイルを変えたことで、プレーの幅も広がったと思います。

◆一番魅力のあるチーム

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—— ラグビーを始めてからずっとプロップですか?

基本的にはプロップですね。高校の時に一度だけロックをやったことはあります。1番、2番、3番はプレー出来ると思いますが、3番はトップリーグでは通用しないレベルだと思います。

—— 大学時代で思い残したことはありますか?

2回目の怪我から復帰して、それ以降は一度も怪我をしませんでしたし、2年から試合に出させてもらえるようになったんですが、試合に出られない時もなかったので、やり切れたという思いはありました。

—— 社会人でもラグビーを続けようと思ったのはいつ頃ですか?

大学3年か4年頃だったと思います。最初の頃は怪我のこともあったので、社会人ではあまり長く出来ないんじゃないかとネガティブな考え方をしてしまっていました。そこでも岩出監督に気づかされたことがあって、「お前の考え方は間違っている」と言ってもらい、その時の考え方を全てひっくり返してもらえました。

ラグビーだけを考えると、トップリーグでやるならサントリーとしか思っていなかったんですが、親に対しての恩返しはお金としか考えられていませんでした。岩出監督と話をして、お金以外での恩返しは何かと考えた時に、僕がラグビー選手であり続けて、日本代表に入ることだという思いになりましたね。

親に対しては、兄弟が多く家計が苦しい中でも、常にそばにいてラグビーをやり続けさせてくれたので、まずはラグビーで恩返しをすることが、僕が現役であるうちの目標でもあります。だから、サントリーでラグビーをすることを決めました。

—— なぜ社会人でラグビーをするならサントリーだったんですか?

トップリーグの中でも一番魅力のあるチームだと思いますし、ラグビーだけじゃなく仕事もやりたいと考えていました。あと、会社からの応援やサポートが大きいと思いましたし、当時は元さん(申騎/サンゴリアスOB)が練習に来てくれていたので、色々な話を聞かせていただきました。引退後も仕事で活躍できるように現役のうちからちゃんと仕事も任せてもらえて、様々なサポートをいただきながらラグビーと仕事を両立できる会社なので魅力を感じましたね。

僕がこれまでに見た試合の中で一番好きな試合が、サントリー対三洋電機(現パナソニック)の試合で、トニー・ブラウンのゲームメイクに対して、サントリーは15人全員が立って動き回って、攻撃に一体感のあるサントリーのラグビーがカッコ良くて、憧れていました。大学の時から機動力には自信があったので、どこまで通用するかという部分で、サントリーでチャレンジしたいという思いもありました。

◆チームに対しての結果を残したい

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—— 実際にサンゴリアスに入ってみてどうでしたか?

まだ大学の時みたいに余裕はなくて、ガムシャラにやっている感じではありますが、1番のジャージを着て試合に出させてもらっているので、責任感を持って取り組んでいます。ただ、責任を感じ過ぎて小さくなってプレーをすることだけは嫌なので、サントリーのラグビーを楽しむため、そして1番を着てグラウンドで暴れるためにも、良い準備をして試合に臨むようにしています。

—— 試合を重ねて手応えはありますか?

1列目がハタケさん(畠山健介)、北出(卓也)の3人で出ることが多いんですが、コミュニケーションの量が圧倒的に多くなっていますし、特にスクラムに関しては手応えを感じています。まだ相手の動きに対して臨機応変に対応しきれていない部分があるんですが、1試合ごとに勉強になるスクラムを組めていますし、良いスクラムが組めてハタケさんについて行けたと感じることもあります。

その中でもスクラムでまだハタケさんの方に寄せられなかったり、3番のサポートが出来ない時もあるので、試合を見返してどうすればいいのかを考えるようにしていますし、今シーズンの開幕戦の時よりも落ち着いて試合に入れるようになってきていると思います。

—— ボールを持ってのプレーについては?

まだまだボールを持てていないので、もっと走らなければいけないと思います。

—— 今シーズンの目標は?

怪我をせずに1試合でも多く試合に出続けることが、まず1つです。ただその中で、試合に出て結果を残さなければ意味がないので、チームに対しての結果を残したいと思っています。僕のポジションはセットプレーが軸になりますし、セットプレーがしっかりとすれば第5節のNTTコム戦の前半のように安定してスコアを重ねられるので、責任は大きいと思います。特にスクラムでは絶対にチームに貢献出来るように頑張っていきたいと思います。

—— ファンに注目してもらいたいポイントは?

スクラムですね。それに加えて、持ち味であるフィールドプレーを見せられればと思っています。

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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:五十嵐祐太郎)
[写真:長尾亜紀]

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