2012年9月19日
#296 長野 直樹 SOS6人目 『危険だと思う道は行きたい道』
もしかしたらサンゴリアスの中で、最も多彩にスポーツを経験している選手ではないでしょうか。そして、もともと速かった足は、サンゴリアスに入ってスピードを増したと言います。2年目を迎えた逸材に、初キャップへの意気込みを訊きました。
◆サッカー、野球、アイスホッケー、体操、水泳、陸上
—— 出身地はどこですか?
生まれも育ちも兵庫県神戸市です。神戸はラグビーが盛んな街だと思いますが、僕は神戸製鋼という名前は知っていたんですが、それ以外の詳しいことは全く知らなくて、どこで練習しているのかさえも知りませんでした。自分自身、野球やサッカーにのめり込んでいて、子供の頃は主に野球をやっていました。
—— 野球の長野(ちょうの/読売ジャイアンツ)選手とは関係があるんですか?
よく顔が似ていると言われますが、まったく関係ありません。同じ名前ですが、"ちょうの"とはあまり読まれず、初めて会った人には、必ず"ながの"と間違えられます。
—— 長野(ちょうの)という読み方は神戸に多いんですか?
九州の方に多いらしいです。大分に父親の知り合いがいて、その人が「自分の学校にはすごく大勢いた」と話をしていたんですが、父親の出身は徳島なので、まったく関係はないと思います。
—— どのくらい野球をやっていたんですか?
小学1年生から3年生まではサッカーをやっていて、3年生から6年生までは野球をやりました。そして家の近くにスケートリンクがあったので、冬場の週末はアイスホッケーをしていました。もっと小さい頃は運動神経を良くするために、母親がいろんなことを考えて育ててくれたみたいで、体操教室に通わせてくれたり、水泳を習わせてくれたりしました。
—— いろいろなスポーツをやっていたんですね。どのスポーツが楽しかったですか?
性格的に飽きっぽいところがあったのでいろいろなことをやりました。サッカーをやったのは小学校低学年だったので、サッカーが面白いというよりもみんなで集まるのが楽しかったですね。
野球では、1番バッターでショートを守っていました。当時から足は速い方だったので、盗塁が得意だったんですが、ボールを投げる姿がすごく変だと言われました。ボールを投げる時に肘が曲がらないんです。バッティングセンターのマシーンがボールを投げるような格好で、すごく不格好な投げ方なんです(笑)。
—— 野球を続けようとは思いませんでしたか?
野球はすごく好きだったんですが、中学校に入った時に、1つ上の先輩から「足が速いんだから陸上部に入ってみたら?」と言われて、それで陸上をやり始めました。中学3年間は陸上部でした。
—— 種目は何をやっていたんですか?
100m、200m、短距離をやっていました。100mのベストタイム10秒85でした。陸上ではすごく良い先生に恵まれて、かなり足が速くなりましたが、やっぱり野球とかサッカーのような団体競技特有の「仲間と一緒に喜びを共有する」ということが忘れられませんでした。陸上のリレーは楽しかったですが、団体競技で仲間と喜びを分かち合うことに憧れていました。
◆高校からラグビー
—— 高校からラグビーを始めたんですか?
高校からです。関西学院高校に入学したんですが、その学校は中学もあって、地元の友達も通っていました。その高校のラグビー部が、僕が入学する前年にたまたま30数年振りに花園に出場して、その中学に通っていた友達に、何気なく「ラグビー強いねんな。自分も球技やりたいって思ってて、ラグビーっていいよな」と話をしたら、高校のラグビー部の顧問に「足の速い奴がどうもラグビーをやりたがってる」と話が伝わってしまい、入学が決まった時に顧問の先生から手紙をもらいました。
その手紙が「うちの部活はこれから強くなっていこうとしていて、もし足の速い長野君が陸上を続ける気が無いのなら、一度ラグビーの練習に来てくれないか」という内容の、すごく熱い長文の手紙だったんです。3月くらいにもらって、それで入学したら、その顧問の先生が自分の担任だったんですよ。その先生は体育の先生で、後々話を聞くと、それも全部先生に仕組まれていたみたいです(笑)。
—— もともとラグビーをやっていた先生なんですか?
天理大学でラグビーをやっていて、スタンドオフだったみたいです。
—— 日和佐選手も兵庫県の高校でしたよね
日和佐さんの高校は報徳学園高校で、報徳に毎年兵庫県予選の決勝で負けていました。僕の高校と報徳学園は最寄り駅が一緒で、ライバル関係にあるんです。僕が入学する前年、日和佐さんが1年生の時に、関西学院高校が30数年振りに優勝して花園に出ることが出来たんですが、僕は3年間花園に出ることは出来ませんでした。
日和佐さんには1回も勝てませんでした。僕が2年生のときの決勝で、報徳学園と同点になって抽選になったんですが、その時も勝ち札を引けずに準優勝でした。
—— 高校でラグビーを始めてみて、最初の印象は?
陸上部時代は、練習中に足が痛くなったりしたら休んだり、練習の合間にストレッチをしたりしていました。でもラグビーは痛いのが当たり前のスポーツで、痛くても練習をするということにまず驚きました。痛みを我慢して練習をして、病院に行ける時に治療をしていました。あと、菅平の文化にも驚きました。
—— 菅平の文化とは具体的にはどんな文化ですか?
他の大学と同じ合宿場に行って、毎朝一緒に練習して、1日に何試合もすることです。1年生の頃は経験したことのないラグビーの泥臭さなどに対応するのが大変でした。けど、その泥臭さに慣れるには練習するしかないと思っていたので、嫌でも練習に行って、辞めたいと思いながらも練習をつづけ、身体にラグビーを覚えさせていきました。
—— 陸上のベースがあるので、鍛えるのは主に上半身だったんですか?
比較的上半身ばかりトレーニングをしていました。下半身はがっしりいていたんですが、上半身がすごく細かったです。
—— トレーニングをした変化は?
昔着ていたものが着られなくなって、服のサイズが変わりました。ラグビーにおいては、体のバランスが良くなって、タックルをされても簡単には倒れなくなりました。それまでは、足は速かったんですが上半身が細いので、どうしても力強い走りが出来ていませんでした。
◆がむしゃらに走っていた
—— 陸上に比べてキツかったところは?
人とぶつかると、それだけで筋肉が疲れてくるんです。その筋肉の疲労は、陸上では経験したことがなくて、足が動かなくなったりしました。初心者病と言われるシンスプリント(すねの内側の痛み)になっていました。
—— どのぐらいで治りましたか?
最初はすぐに治らず、1ヶ月か2ヶ月くらいはずっと痛いまま練習をしていました。
—— ラグビーの面白さはどこに感じていましたか?
当時からウイングをやっているんですが、トライを取った時や、トライを取ってみんなが喜んでくれた時が嬉しかったですね。
—— 最初からトライは取れましたか?
始めた頃は難しかったんですが、ラグビーに慣れてくるにつれて、高校では気持ちよく走れました。
—— ボールを持って走ることと、ボールを持たないで走ることとは違うと思いますが、その辺はどうですか?
正直に言うと、そのことを意識し始めたのはサントリーに入ってからなんです。それまではボールを持とうが持つまいが関係なく、ただがむしゃらに走っていました。今振り返ると、もっと考えてやっていれば、もっとスピードが上がったと思うので、もったいなかったと思います。
—— 最近は走ることに関して、具体的にどういうことを意識しながらやっているんですか?
いろいろなアドバイスを新田コーチや杉本コーチに教わって、ボールを持った時にどんな態勢になっているか、ボールを持った時に足の動きはどうするべきか、などを意識しています。あとはボールの持ち方ですね。今まではボールを横に持っていたのを縦に持つように変えて、グリップを効かせて握ることによって、腕を大きく振って走ってもボールが落ちないようにしました。それと、今まではボールを持って走る時に体が後ろに反ってしまっていて、その分、足が前に出にくくなっていたんです。だからボールを持って走る時に意識して太ももを前に出すようにしました。自分の中でも、走り方の新境地が開けたように感じています。
—— 太ももを前に出す意識で走るとどうなるんですか?
意識しないとストライドが大きくならないんです。同じ足の回転で走るのならば、やっぱりストライドが大きければ大きいほど前に進む力が強くなります。
—— ストライドが小さい方が安定した走りが出来そうな気もしますが
それは場面によって使い分けなければいけません。相手が目の前にいる場合に同じ走り方をしていたのでは相手を抜くことは出来ないので、ショートステップを踏んで、相手を抜きます。そして相手を抜いたら、ストライドを大きくして走り切ります。
—— 陸上と共通している部分はありますか?
足の動かし方などは共通の部分もあります。僕はもともと足の回転が速い方だったので、アドバイス通りに走ったら、自分の走り方にすごくフィットしました。そのおかげでスピードも上がっていると思います。
—— 足がすごく太いですよね
バックスの中では太い方だと思います。やっぱりプロップと比べると、上には上がいますね(笑)。
◆ムーブ
—— 高校時代で印象に残っているプレーや試合はありますか?
やっぱり報徳学園に勝てなかったことです。
—— 3年連続決勝戦で負けたんですか?
1年生の時は、準決勝戦で負けました。しかも報徳学園に当たる前に負けてしまいました。その悔しさを大学で晴らそうと思い、関西学院大学に進学してラグビーをすることを決めました。
—— 大学ではすぐに試合に出られましたか?
試合には1年生から出させてもらっていました。
—— 大学時代はどういう思いでラグビーをやっていたんですか?
関西学院大学のレベルが関西リーグで5番目でしたし、最初の頃は日本一ということは考えていませんでした。その中で、同期に東海大仰星高校で選手権優勝を経験した緑川昌樹(NTTドコモ)がいて、彼は日本一になりたいという思いで関西学院大学に入ってきていました。「関西5位のチームを日本一にしたい」という思いを持つ彼に、すごく感化されて、日本一を目指してみたいという気持ちになりました。
—— 成果はすぐに出ましたか?
2年生の時にいきなり関西リーグで優勝することが出来て、大学選手権のベスト8まで行くことが出来ました。そして3年生の時も同じく関西リーグで優勝して、大学選手権でベスト8になりました。
—— 4年生ではキャプテンなどをやったんですか?
副キャプテンをやりました。キャプテンは緑川でした。
—— 4年生の時の成績は?
4年生の時は、就職活動が忙しかったりして、あまり試合には出ていないんですが、緑川を筆頭に、なんとかチームを同じベクトルに向けさせることができ、関西リーグでは優勝出来ませんでしたが、大学選手権ではベスト8になることが出来ました。ですが、大学4年間で関東の壁は破れませんでした。
—— 大学時代に最も印象に残っていることは?
大学3年生の時に、大学選手権の準々決勝で明治大学と戦いました。その年の明治大学はあまり調子が良くなくて、確かギリギリで大学選手権に出場してきて、「これだったら、今の明治だったら勝てる」と信じて試合をしたんですが、結局30~40点差をつけられて負けました。その時はすごくショックでしたし、自分が何も出来なかったのがすごく悔しくて、上には上がいると感じました。その試合でラグビーの奥深さを知ることが出来ました。
—— その敗戦はどこに原因があったと思いますか?
当時の関西学院大学はキックを多用したディフェンスのチームで、キックチェイスが上手くいかなくなったり、ハイパントキックの精度が悪かったりすると、アタックするという選択肢がないので、点が取れなくなってしまったんです。
いざ攻めようとしても攻め手がないので、キックが上手くいかないと守りっぱなしになってしまいました。その分、明治大学の選手は、いろいろな引き出しを持っている上に個々の能力が高く、さすが関東の大学は違うなと感じました。
—— 4年の時には改善出来たんですか?
ボールを動かそうということで、「ムーブ」というスローガンを掲げました。ちょうどサントリーがエディーさんのもとで、アグレッシブ・アタッキング・ラグビーをやり始めた頃で、身体の小さい自分達もこのサントリーのラグビーがしたいと思いトレーニングをしたんですが、もちろん1年間では思うようなラグビーは出来ませんでした。けれど、ボールを動かすという自分達のラグビーが後輩たちに受け継がれていったので、将来が楽しみです。
◆惜しみなく教えてくれる
—— ボールを動かすラグビーが、サントリーを選ぶきっかけにもなりましたか?
サントリーは日本一のチームで、日本一のチームでラグビーがしたいという思いはありましたし、アタックのチームで自分も走りたいという気持ちはありました。しかし、選手層が厚く、自分が試合に出られるか分からないですし、心のどこかで日本一のレベルでプレーするのが怖いという思いがありました。
すごく迷っていた時に、岡本太郎さんのエッセイを読んで、その本の中に「危険だと思う道は、本当は自分が行きたい道なんだ」という言葉がありました。その言葉のお陰で、自分の成長のために一番の環境でラグビーをしてみたいと本気で思えたので、サントリーに入ることを決めました。
—— 実際にサントリーに入ってみて、どうでしたか?
5月にいきなり怪我をしてしまい、それからはリハビリが続き、8月下旬からやっとプレー出来るようになったので、サントリーの練習は想像していたよりも大変でした。
—— いきなりリハビリで焦りなどはありませんでしたか?
焦りましたが、同じ関西リーグ出身ということもあって、尾崎さん(章)がよく声をかけてくださいました。尾崎さんをはじめ、ベテランの方々に「焦らなくて大丈夫。秋に結果を出せば絶対に大丈夫だから」と励まして頂きました。リハビリに17週もかかってしまいましたが、先輩方のお陰でポジティブに取り組むことが出来ました。
—— もとのプレーが出来るようになったのはいつ頃ですか?
11月くらいだったと思います。練習試合やサテライトの試合を重ねて、ウイングの動きが分かるようになってきてからです。
—— サテライトに出場してみてどう感じましたか?
試合に出場すると、自分の仕事量を数字でフィードバックしてもらうんですが、とにかくバックスの中でもウイングとしても自分の仕事量が少なかったですね。自分がどこで何をしなければいけないかを理解していなくて、他の人との差を痛感させられました。
それから、それからウイングの動きを勉強したり、どこでボールをもらえるのかをレギュラーで出ている選手の動きなどを見て研究するようにしました。
—— 他の選手に聞いたりするんですか?
僕は聞きますね。小野澤さん(宏時)にも聞きますし、有賀さん(剛)はすごく熱心に教えてくれます。あとはヒューイ(ピーター・ヒューワット)とビデオミーティングをやって教えてもらっています。
—— ヒューワット選手とマンツーマンでやるんですか?
マンツーマンです。本当に熱心に教えてくれます。僕のプレー映像を見ながら「自分ならこうする。今のプレーはこうするべきだ」と、ヒューイの体験談なども交えて教えてくれて、すごく勉強になります。練習中も気を遣ってくれて、特に僕と竜太郎(竹本)は、よく教えてもらっています。素晴らしい環境で、惜しみなくいろいろと教えてくれるので、本当に感謝しています。
◆エックスファクター
—— 自分の強みは何だと思いますか?
走力です。スピード。ディフェンスに関しても、関西学院大学がディフェンスのチームだったので、タックルは出来る方だと思います。大学時代のノウハウを活かしてやっています。
—— トップリーグでの出場はまだありませんが、どうすれば出場出来ると思いますか?
最近、『エディー・ジョーンズの監督学』(大友信彦/東邦出版)を読んだんですが、その中でチームには組織として動く人間、プラス、エックスファクターという爆発的な働きをする選手が3~4人必要だと書いてありました。サントリーでエックスファクターの選手を挙げるとすると、小野澤さんやジョージ・スミス、フーリーさん(デュプレア)だと思うんですが、自分が小野澤さんになれるかと言ったらまだなれないと思います。だから僕がトップリーグで出場出来るようになるためには、チームのために規律を守ってプレー出来る選手で、なおかつ自分のスピードも発揮出来るようにならなければいけないと思います。
それに、走るスピードも上げなければいけないんですが、反応やコミュニケーションの部分でもリアクションスピードを上げることをテーマにしています。走るスピードだけじゃなく、リアクションスピードを上げていきたいと思います。
—— リアクションスピードを上げるためにはどういったトレーニングをするんですか?
毎日の練習での意識が大事だと思います。その他に試合の流れを読む力もつけなきゃいけないので、もっとラグビーの勉強をしなければいけないと思っています。今そういう努力をしています。
—— トップリーグでの出場に向けて、現状ではどこまで成長出来ていますか?
自分の中でまだまだ伸びしろはあると思っていて、試合に出られていないのは、レギュラーの選手との間に大きな差があるからだと思います。もし自分が試合に出た時に、サントリーのラグビーをするためには何をしなければいけないかということは理解しているので、試合に出る準備は出来ています。
—— 今シーズンの目標は?
レギュラーを獲得してトップリーグの試合に出ることです。その中で、チームの2冠獲得に少しでも貢献できるように頑張りたいと思います。
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:五十嵐祐太郎)
[写真:長尾亜紀]