SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2010年12月28日

#224 特別編[故・山本和宏氏 追悼特集] 高澤祐治+田代智史 『まだまだですよ-5』

◆誰のためにラグビーやってるんだ

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—— 山本さんがいちばん嬉しそうだった時はいつですか?

やっぱり選手が復帰した時ですね。彼は選手をぜんぜん褒めない人で、「まだまだですよ」が口癖でした。もっともっと出来るということを言っていたんですね。

—— 闘病生活については、ほとんどの人が知らないですよね

6月の終わりくらいに、「お腹が痛い」と言ってきたのがはじめでした。普段なかなか「痛い」なんてことを言う人ではなかったですし、すごく苦しそうな顔をしていたので、「おかしいな」と思って、すぐ次の日に順天堂病院に来てもらって、CTを撮りました。そうしたら、結構怪しくて、「もう少し詳しく検査するからもう一度来て」と言ったんですが、そのとき本人が「仕事があるから休めない」と言ったんですけど、休んでもらってきてもらいました。それで朝から検査してもらって、外科の先生に診てもらったんですが、その日のうちに大腸癌が見つかって、肝臓と肺に転移しているのが分かりました。いろいろ話を聞くと、前から症状はあったみたいなんですが、忙しいのもあり、なかなか診てもらうところまで行かなかったようです。お腹が痛いという前日までグラウンドに来ていてました。

39歳という若さでしたから、外科の先生が本人にそのことを伝える時に1人では辛いだろうということで、これから一緒に治療していかなければならない訳ですし、僕も同席しました。そのとき彼は大泣きしました。その後1週間くらいですぐ入院して、最初の話ではおそらく数週間、もって1~2カ月ということで、サントリーが菅平にフィットネス合宿に行っていた頃がかなり厳しい状況でした。その頃に抗癌剤の治療を始めたんですけど、一か八かの状況だったんですが、どんどん回復してきました。本人はあぁいう性格なので、自分の弱いところを周りに見られたくないということと、選手たちに心配をかけたくないということで、チームでは選手には伝えず、一部のスタッフにしか伝えていませんでした。

後からトレーナーの吉田さん聞いた話ですが、その2週間くらい前にグラウンドで具合が悪くなって、みんなに見られないようにトレーナールームで休んでいたことがあったそうです。「いま選手には心配かけたくない、いま彼らは僕の心配をしている時期じゃない」と言って、黙っててくれと言われました。ただ、突然来なくなれば、選手も心配になってくるのは見えていますし、立場上僕の口からは話せないので、「しばらくしたらメールでも良いからみんなに"俺も頑張るからみんなも頑張れ"って送るだけでもした方が良いんじゃない?」というと、「そのうち送るよ」と言っていました。それが7月、入院してすぐの時ですね。

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抗がん剤が奇跡的に効いて、危ないという時期は何とか乗り越えたんですが、そこからは化学療法で抗がん剤との戦い、病気との闘いが始まりました。それでも常にサントリーのことは気にかけていて、「いま誰がリハビリしてるのか」「どういうリハビリをしてるのか?」「今のチームの状況はどうか?」ということをいつも言っていましたし、僕らメディカルのミーティングの内容も必ず彼のところに送るようにしていました。

シーズンが始まって、第3節でNECに負けた時に、僕も落ち込んだんですが、山本さんがものすごく落ち込んでいて、「何がダメなんですか?」と僕に聞いてきました。僕が「まだ大丈夫だよ」と答えると、「そろそろ僕の出番ですか?」と言って、「自分がそろそろメッセージを発した方がいいのか?」ということを気にしていたので、「大丈夫。選手はエディーさんを信じてやっているし、心配いらない。山本さんは自分の病気のことを心配して下さい」と言ったら安心した様子で、それから試合のDVDを見せてくれと言われて、クボタとの練習試合等も含めて、試合が終わる毎にDVDを届けに行くと、嬉しそうに見ていました。

山本さんも最初すごく心配していたんですが、チームが上向きになっていくのをすごく喜んでいました。これは皆に聞けば分かると思いますが、彼は褒めない。でもその代わり自分も一切妥協しないという性格ですし、あぁいう仕事なので、「良し良し」というやり方をしちゃうと、伸びないんですね。自分がグラウンドの中で弱みを見せないという気持ちでやって来たから、自分の弱さを一切見せなかったですね。

病院にも、回復していった時のために、リハビリ用のバランスボールなどを持ってきて、「こんなんじゃみんなに会えないから、筋力をつけるんだ」と言っていました。そういう気持ちはあっても、現実はご飯も食べられなくて、点滴で栄養を取っている状態でしたから、頑張って回復してましたが厳しい状態でした。

—— その強さは最初の試練があったから...、やはり最初ががいちばん大変だったんですね

最初は大変だったと思います。そこを自分も頑張ったということが自信にもなったでしょうね。よく彼も言っていたんですが、自分が病気になってしまった時に、みんなが「山本さんのために頑張ろう」というふうになるのはすごく嫌だったみたいで、「お前ら誰のためにラグビーやってるんだ」というのも口癖でした。

◆スクイズボトルを持ってきてくれ

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—— 亡くなられたのが、40歳の誕生日の前日でした

はい。その後、回復に向かっていたのもあったんですが、手術をしないと食事ができないので、このままずっと食事ができない状態で、抗癌剤でずっと戦うのもということで、手術に向けて抗癌剤をやめて、僕はそのタイミングで選手もみんな心配していましたから、スタッフにメールを打って、彼に手術の前に勇気を与えて欲しいということをお願いしたら、選手がみんなでDVDを作ってくれました。選手は詳しいことは知らなかったと思いますが、長期入院しているということは分かっていましたが、改めてミーティングで土田さんがみんなに話をしました。

それでそのみんなのメッセージの入ったDVDをNTT戦が終わった後に持っていたんです。NTT戦の前の夜から様態がだいぶ悪化していて、早く届けなくちゃと思ったので、NTT戦の土曜日の夜に「山本さん、これ見て元気出して」と言って渡しましたんですが、日曜日の朝にはだいぶ辛そうで、多分半分くらいまでしか見れてなかったのかなと思います。それでも「頑張る」と言っていました。それが日曜日のことで、月曜日になるとだいぶ苦しそうで、あまり言わない「痛い」っていうことも言っていたので、辛かったんだと思います。

痛みが出てきてだいぶ苦しそうだったので、麻酔を使って少し楽にさせてあげたんですが、火曜日には意識も朦朧としていて、その日の夜に危篤ということをチームのスタッフに伝えました。それで吉田さんと田代には会いに来てほしいと伝えて、来てもらいました。

それから、これは田代から聞いたんですが、山本さんが意識が朦朧としている中で、最後に打ったメールが田代に「スクイズボトルを持ってきてくれ」という内容だったそうです。意識が朦朧としていたので、変換ミスがたくさんあったそうですが、それで田代は前の日の夜中に届けに行ったそうです。それを渡す時に一瞬意識が戻って、田代からスクイズボトルを受け取ったそうです。なぜスクイズボトルだったのかは分からず、彼にはフィアンセもいたんですが、彼女にも分からないそうです。ただ、僕が勝手に解釈するには、選手もいちばん苦しい時にはスクイズボトルで水を飲むように、彼も苦しくて、戦っていたんだと思います。

山本さんが入院してからは、リハビリを山本さんの代わりに田代がやっていて、山本さんは闘病中もリハビリのメニューを田代にメールで送ったりしながらやっていましたから、最後に田代と会話ができて良かったと思います。

[田代智史]

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山本さんからスクイズボトルを持ってきて欲しい、ただそれだけのメールが来ました。同じメールがNTT戦が終わった後にも来ているんですが、その時はすごくしっかりとしたメールで、「後半戦、良い出だしで良かったですね。でもまだまだだよ」というようなメールでした。ちょうどその試合、僕は試合の時はいつもウォーターボーイとしてグラウンドにいたんですが、その時初めてメディカルとしてグラウンドにいました。そういうこともあって、気を遣ってくれたのもあるとおみますが、「ちょっとスクイズボトルが欲しいから、送ってもらえると助かるよ」というメールでした。

その前に僕は面会に行ったんですが、その時はすごく元気そうで、2回行ったんですが、だんだん良くなっている感じでした。表情も良くて、歩けるようになっていて、「次は階段だよ」なんて言っていました。リハビリのメニューもしっかりこなしていて、良かったなぁと思って、「元気そうで良かったです。僕も頑張りますよ」というメールの返事もしました。

メールを見た時、何でスクイズボトルなんだろうなと思っていました。メールにはいつも頼みごとがあって、今シーズンの全試合DVDを持って来てくれとかいろいろありました。最初に持って行ったDVDに1試合だけうまく焼けていない試合があったりして、笑いながら「頼んだことはしっかりやってくれよ」なんて言われたりしました。その後にストレッチポールを持ってきてくれというメールが来ました。ちゃんと商品を指定してきたんですが、調べたらそれが廃盤になっていて、今は売っていないものだと伝えると、「それならいい」というやり取りもしました。

その後にスクイズボトルのメールが来て、最初は送ろうとしたんですが、病室に送って良いのか、どこに送って良いのか考えてる矢先に、高澤先生から電話がかかってきて、「状態が良くない」という事を聞きました。その時のメールが、変換が間違っていたり、必死で打ったようなメールでした。それでクラブハウスを23時くらいに吉田さんと一緒に出て、亡くなる前の日にスクイズボトルを手持ちで持って行きました。行くと呼吸は厳しそうで、最初は目も開けられない状態でしたが、少し反応がありました。

ふだんの山本さんは厳しいですね。自ら教えてくれるタイプではないので、見て、僕の考えを伝えてディスカッションをして、僕の考えもしっかり聞いてくれて、山本さんの考えを言ってくれるんです。こちらが質問とかをしなければ、山本さんの方から教えてくれることはなかったです。なので山本さんが来た時はすぐ捕まえて、これはどうですか?と聞くと、「めんどくさいな、お前は」みたいな感じで教えてくれました(笑)。

「そんなことも分からないのか?」とか「そんなことも考えないでやってるのか?」とかいろいろプレッシャーをかけてくれました。だから質問する時も、ちゃんと自分で勉強してから自分の意見を持って質問をするようにしていました。ただ、正解が無い問題もあって、そういう時には非常に良いディスカッションが出来ました。

◆まだまだですね

初めに「痛い」と言ってから6カ月ですから早かったです。最後は全身に転移してましたから、本当によく頑張ったなと思います。家に帰った時の顔を見たら、やっと楽になれたんだなと思いましたし、本当にキツかったんだなと思いました。

彼は本当に「まだまだですよ」というのが口癖で、試合の報告をする時も、勝っても「まだまだですね」、負けても「まだまだですね」で、なかなか褒めなかったです。ですから、山本さんが亡くなってから、近鉄に勝って、三洋電機に勝って、チームは嬉しいんですけど、きっと山本さんは天国から「まだまだですね」って言ってると思います。だからメディカルのみんなでは、「優勝するまでは泣かない」と誓っています。きっと彼はそれまで褒めてくれないですから(笑)。

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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)
[写真:長尾亜紀]

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