2010年12月28日
#220 特別編[故・山本和宏氏 追悼特集] 高澤祐治+吹田長生 『まだまだですよ-1』
◆理学療法士をチームの中に
—— 高澤先生たちがサンゴリアスに関わるようになったきっかけは?
97年か98年だったと思います。初代トレーナーの皆川彰さんが僕を誘ってくれたんです。当時は僕もたまに試合に行くくらいでした。山本君(和宏)と僕は順天堂浦安病院で僕がまだ研修医だった頃に一緒に仕事をしたことがあって、彼がスポーツのフィールドにすごく興味があるというのを聞いていました。僕が本格的にサントリーの仕事をするようになったのは、土田さん(雅人)が監督になった年(95年)で、その時に土田さんが「メディカルが強くないとチームは勝てない。そこをしっかり整えたい」ということをおっしゃって、「それであれば、理学療法士をチームの中に入れて欲しい」ということを伝え、それがスタートです。
—— 当時は、そういう取り組みは他のチームはしていなかったんですか?
全然なかったと思います。
—— それまでとは、チームへの関わり方が大きく変わりましたか?
変わりましたね。僕自身も変わりましたした。山本君は最初は順天堂浦安病院に勤めながらだったんですが、家が千葉の山奥にあって、そこから夜遅くに車で府中に来て選手を見ていました。当時は練習が夜からでしたから、それから選手を見て、ミーティングをして、夜中に自宅へ帰るという生活をしていました。
—— 最初にサントリーのチームを見た時、ドクターとしてどういう印象を持ちましたか?
怪我が多いというよりは、怪我から治っていく過程の選手たちが、何をしていいか分からない状態でした。それで困っている選手があまりにも多いことに気づきました。もちろん皆川さんも選手のケアやトレーナー的な仕事をしていたんですが、例えば病院で手術をした後の選手の復帰までの過程を見るスタッフがいなかったんです。それは病院で見るよりは、スポーツのフィールドで誰かがいて見る方が良いんじゃないかと思いました。
—— メディカルを強くすると言われた時に、そういうスタッフィングを自分でイメージしていたんですか?
そうですね。僕がこだわったのは、リハビリの部分だけです。例えば、お茶の水の駅で誰かが捻挫をして、順天堂病院に来て、レントゲンを撮ったら骨は折れてないとなれば、湿布を貼って、痛み止めを出して、しばらく安静にして下さいということで終わりますが、スポーツ選手の場合はゴールが違って、競技復帰をして、しっかりとしたパフォーマンスが出せるようにして、更にその後の再発の予防もしなければなりません。普通の診療とは少し離れたところなんです。前十字靱帯の再腱手術をして、1週間入院したとして、復帰まで8カ月くらいかかるんですが、その7~8カ月間誰が見るのか、ということです。4カ月くらいは病院でのリハビリになりますが、そこから先はしっかりとした人が見てあげないとダメだと思ったのが始まりですね。
—— サントリーに入った時すでに、リハビリ過程の選手が多くいたんですか?
捕まえればたくさんいました(笑)。さすがにそんなにたくさん見れないので、少しずつ見ていきました。
—— そういうところを山本さんにお願いしたということですね?
そうですね。ずっと夜中まで頑張ってくれました。
—— 他にもスタッフを強化したんですか?
土田さんが監督になった年は、山本君の他に、もともといた皆川さんに加えてトレーナーの石山さん(修盟)、それから栄養士の山田さん(由香)が加わりました。山田さんは平尾さん(誠二/現神戸製鋼総監督)が監督で土田さんがコーチのジャパン(日本代表チーム)の栄養士をやっていました。
—— ラグビーのチームとして新しい取り組みに着手したんですね
最初の頃のメディカルミーティングは、チームドクターの僕、トレーナーの皆川さん、石山さん、PT(理学療法士)が石原さん、山本さん、栄養士の山田さん、フィットネスコーチの吹田さんが中心になっていつもやっていました。
山田由香(栄養士)、皆川彰(トレーナー)、土田雅人(監督)、アンディー・フレンド(コーチ)&ジョ シュ(息子)、高澤祐 治(ドクター)、ダミアン・ヒル(コーチ)、武田三郎(マネージャー)
前列左から
石山修盟(トレーナー)、正田豊(主務)、山本和宏(理学療法士)、稲垣純一(チームディレクター)、吹田長生(フィットネスコーチ)、山口聡子(通訳)
( )内は肩書き=当時
—— 人数としては、今とそんなに変わらないですか?
そうですね。そこがスタートで、今のメディカルの体制の始まりですね。
—— それからは、良くなっていくのが目に見えて分かっていった感じですか?
そうですね。例えば、昔だったらテーピングをぐるぐる巻きにしている選手がいたんですけど、今はほとんどいないですよね?オールブラックスを見ても、ワラビーズを見ても、あんまりそういう選手はいないですよね。もちろんテーピングすることが悪いことではないんですが、山本さんが入ったことによって、あくまでも、ゴールはテーピングをしなくてもパフォーマンスが出せるところだということを彼がかなりやってくれたので、テーピングを巻いてないと怖くてプレーできないという選手が減りましたね。
◆サントリーでやりながら学んで
—— 山本さんは、スポーツのそういう部分をどこで学んだんですか?
サントリーです。それまでは、一般の方はやっていたんですが、スポーツの方はサントリーでやりながら学んでいきました。彼はサントリーに来て、自分のフィールドがどんどん広がっていきました。ラグビー以外にも順天堂で手術をするスポーツ選手は結構いるんですが、ほとんどの人は彼のリハビリを受けています。そのベースをサントリーで身につけました。それが10年ちょっと前です。
—— そのスタート時の体制で何年くらいやったんですか?
トレーナーが1人変わったり、フィットネスコーチが吹田さんから若い新田君(昭博)になったりとかはありますが、そういう少しずつの変化がありながら、今まで続いている感じです。
—— 最初のスタッフィングの完成度が高かったということですね?
大きな枠は合ってましたね。どういう体制が正解で、どういう体制が間違っているということではなく、チームによってやり方がありますし、スタッフの時間的なズレがありますから、サントリーではこの体制でやってきていい感じで出来ているということです。
[吹田]
何年前でしょうか。ちょうど社会人大会の東芝との決勝だったんですが、花園で小雨の降る中での試合でした。前半の20分位だったと思いますが、今も東芝で現役でやっている松田(努)がライン参加して抜けてきて、僕は11番で逆サイドだったんですが、センターのアルフレッド(ウルイナヤウ)が抜かれたんで、バックアップで急いで入っていって、僕がタックルに入ろうと思った時に松田がステップを切ったんです。そこに全く見えないところからアルフィーが飛び込んできて、僕はトップスピードだった時に足元に入って来たので、それで脱臼してしまいました。
普通は交通事故などでないと脱臼なんてしないみたいですが、とにかくめちゃくちゃ痛かったです。その時は自分では結構冷静で、ぶつかったのでどこか折れていないかなと自分でいろいろ触っていたんですが、折れてるということはなさそうでした。ただ、足が変な方向を向いていて、これはヤバいなと思いながらも、立ち上がろうとしたら全然立ち上がれなくて、「あ、これダメだ」と思って、ロッカーに下がりました。
最初は興奮していたので、大丈夫だったんですが、後半が始まるくらいから、ちょっとでも動いたら電気が走るような痛みが出てきて、これは尋常じゃなかったです。全く動けなくて、本来だったら救急車に乗るような怪我なんですが、ぜんぜん救急車が来なくて、タクシーに乗せられそうになったんですが、痛くて乗れなくて、そうこうしてたら救急車が来ました。
そして、病院に行ったんですが、そこに入院してしまうと、半年くらいは出れないのでどうしようかと話していました。正直な話、そこで初めて高澤先生と話したような感じで、それまでもチームドクターとして、試合の時にはいつも見かけるというような存在だったんですが、特に紹介があった訳でもなく、何となくいるな、という感じでした。
高澤先生の話では、動脈が切れているかもしれなくて、そのままにしてたら足がダメになってしまうということだったんで、それだけはすぐに見てもらったんですが、動脈は大丈夫でした。それで、うちの親父が飛行機を取ってくれていて、席を縦に3席取って、そこに板みたいなものを敷いて、寝るような格好で乗りました。カーテンもついていて、それを閉めて乗りました。
特例で滑走路までも救急車で行きました。同じ飛行機に東芝の社長なんかも乗っていたんですが、みんな「かわいそうだな」というような感じで見てきました。僕は試合の泥だらけのジャージのまま乗って、そのままお茶の水の順天堂病院に行きました。飛行機の中ではずっと高澤先生が足を触っていてくれて、いろいろ見てくれていました。
とりあえずは、チームに残って、ちゃんとリハビリをしたいということがありました。最初は選手としてチームに残っていたんですが、1年過ぎてもちろん治る訳もなく、翌年、稲垣さん(チームディレクター/当時)にフィットネスコーチとしてチームに残って欲しいと言われました。それまで全く知識もなく、分かりませんと言ったんですが、3カ月くらいオーストラリアからアシュレーというコーチが来て、彼についてずっと学びながらリハビリをする生活をしました。
山本さんはフィットネスコーチになった最初の年は、まだいませんでした。ちょうど2年目の時に来ました。僕がコーチになった1年目は、何年振りかで全国大会に出られず、予選で負けた年でした。それで、コーチ陣も含めて一新するということになったんです
稲垣さんがフィットネスコーチに任命したのは何ででしょうね。ラグビーは教えられないからじゃないですか(笑)。とにかく、チームに必要な存在だと思ってくれたんだと思います。足も治さなければいけないというのもあったと思いますが、それから5年やりました。2年目にスタッフを一新して土田監督が来たんですが、私には残って欲しいと言われました。
それから普通に歩けるようになるまで5年かかりました。しばらくは装具をつけていましたし、杖は一生必要だと言われていました。今は杖も要らなくなりましたが、膝から下は麻痺しています。普通の力が100だとすると、30くらいだと思います。トレーニングは常にやっていないと、バランスが悪くなってしまいます。
僕のコーチ2年目の時に、システムをゼロから作るということで、高澤先生をヘッドに、メディカルスタッフを構成することになり、僕がフィットネス、山本君がリハビリということでスタートしました。トレーナーや栄養士はそれぞれプロのスタッフでしたが、我々だけが全く分からないという状態でした。そういう中で、みんなお互いに結構ぶつかることがあって、全く上手くいかなかった時期もありました。それぞれの役割等の線引きがまだできていなくて、最初は難しかったです。
「これはいかん」ということになって、週1回のメディカルミーティングをするようになったんですが、そこで役割分担を明確にして、お互いの領域に踏み入れないということになって、スムーズにいくようになりました。簡単に言えば、怪我をした選手は先ずドクターのところへ行き、出来ないということになると、山本さんのところでリハビリをして、山本さんはしっかり治してからフィットネスの僕のところへ引き継いでという流れです。それが上手くいくようになると、日本一が続いて、他のチームも真似するようになりました。
山本さんは寡黙ですよ。入院していると聞いてから亡くなるまで、会いに行くチャンスはあったんですが、病状とかを聞いているとなかなか行けなくて、それがすごく心残りです。山本さんの何がどうというより、毎日を思い出しますし、2人で喜んだことと言えば、日々そうでした。山本さんが治してくれた選手を僕が引き継いで、そういう選手が試合に復帰して活躍するとやっぱり嬉しかったですね。メディカルスタッフとして、チームが日本一になったことは皆の誇りだと思います。他のチームに比べて怪我をしないとか、復帰が早いとか、そういう結果が全てだったと思います。
本当に彼にはお世話になりました。サントリーを辞めてからも、いろいろなチームでコーチをしたんですが、そこにも彼に手弁当で来てもらったりしてたので、本当にたくさんの思い出がありますし、いちばん信頼している人の1人でした。ですので非常に残念な思いでいっぱいです。
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)
[写真:長尾亜紀]