SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2010年8月 4日

#200 吉田 一郎 新トレーナー 『楽しみたかったら熱くなれ』

◆野球に関係した仕事がしたい

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—— トレーナーになろうと思ったきっかけは?

高校まで野球をやっていました。千葉の田舎の進学校に通っていたんですが、何となく両親も学校の先生も大学に行くという暗黙の了解がありました。ずっと野球ばかりしていたので、1浪して結局合格した学校もあったんですが、このまま大学に行っていいのかな?と考えて、やっぱり野球に関係した仕事がしたいと思いました。

とは言っても、選手としてやっていけるほどではなかったので、何ができるか調べたら、審判かトレーナーだなと思いました。いろいろな本を読んで調べたら、野球の世界にはいろんな裏方がいて、例えばバッティングピッチャーだったり、ブルペンキャッチャーだったりいろいろあるんですが、そういう仕事はみんなプロ野球のOBしかなれない仕事でした。そういう中で、プロ野球の経験がなくてもなれる仕事が、審判かトレーナーでした。

審判も応募はしたんですが、僕は目が近視で、僕が応募した当時は、視力が裸眼で1.0以上ないと書類審査に通らず、目が悪くてだめでした。そこでトレーナーになろうと思ったんですが、25年前ですから、まだトレーナーという仕事が確立されていなくて、何をすればいいのかも分からない状態でした。

トレーナーになるためには何をしたらいいのか、試行錯誤しながら、当時強かった西武ライオンズのチーフトレーナー宛に、「どうしたらトレーナーになれるか」という手紙を出したら返事がきて、「プロ野球のトレーナーの9割は鍼灸マッサージ師です。君が大学に行こうとしているのであれば、それからでも遅くないですよ」、と書いてありました。それで鍼灸マッサージ師になれる学校に通いました。

—— どこの学校ですか?

渋谷にある花田学園という学校です。そこに3年通って、資格を取りました。鍼灸マッサージ師とひとことで言っても、鍼とお灸と、あんま指圧マッッサージの3種類の資格があるんです。2年であんま指圧マッサージ師の資格を取って、3年のときに鍼とお灸を取りました。

—— 3年で3つの資格を取るために、相当勉強されたんですか?

そんなことはないです。劣等生でしたよ(笑)。

◆野球の金田さん

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—— 野球ではどこをやっていたんですか?

キャッチャーです。足が遅くて、太っていて、ずんぐりむっくりの、昔ながらのキャッチャーというタイプでした。

—— キャッチャーの面白さは?

面白いというほど上手くはなかったです。

—— 野球との出会いは?

子供の頃ですね。親とキャッチボールをしたり、近所の友達と集まってやったりしたのが始まりですね。

—— 何が楽しかったんでしょうか?

何でしょうね。僕が子供の頃はスポーツと言ったら野球という感じで、サッカーとかバスケットという選択肢がなかったですね。やったことがなかった訳ではないですが、自然と野球をやろうという感じでした。

—— それでやってみたらそこそこできたという感じですか?

そうですね。子供の頃はそこそこ上手い方でしたね。力が強かったので、バッティングが良かったですね。中学校に上がってからも野球をやろうと思っていたんですが、野球部に嫌いな先輩がいたので(笑)、剣道を3 年間やりました。高校に入ったら絶対に野球をやりたいと思っていて、高校でまた野球を始めました。

—— トレーナーの免許を取ってからは?

学校にいる間に紹介してもらったサウナで仕事を始めました。そこは野球の金田正一(元プロ野球選手(投手)・監督)さんが関係しているサウナで、最初はお手伝いでしたが、1年半くらいでお客さんに接する仕事をさせてもらえるようになりました。1年くらいは先輩の背中を見て、あとは風呂掃除でしたね。

—— 学校に通っている間にくじけそうになったことはありましたか?

それはなかったですね。トレーナーになんとかしてなろうと燃えていました。

—— そこからどうやって野球界に進んだんですか?

ひと言で言えば人脈ですね。僕が修行させてもらったそのサウナは、野球関係者のネットワークがあって、オフシーズンになると、プロ野球チームでトレーナーをしている人たちが、小遣い稼ぎにサウナに来るような感じでした。それで「キャンプでトレーナーが足りないから手伝いに来ないか?」ということがきっかけで、野球界に入り込んでいきました。

—— 金田さんの体のケアに対する姿勢はすごいんですか?

昔の人なんで、今の人から見ると、「何でこんなことしてるんだろう?」と思うところもあるように感じるんですが、1つ1つを見ていくと、すごく理屈にかなったことをしているんですね。すごい人です。理論派というよりは、感覚派の人なんですが、感覚の奥に、ちゃんとした理屈が後からついてくるという感じなんです。感覚はすごくいいものを持っている人だと思います。

—— 今でもお付き合いがあるんですか?

今はほとんどないですね。僕がプロ野球の世界に入ったときも、そのサウナからロッテの契約書を取ってくれて、会社を辞めて契約させてくれました。それで何かの縁なのか、ちょうどそのとき金田さんが、ロッテの監督2回目が決まって、僕がトレーナーでまた同じロッテになって、「また一緒になったな」なんて言っていました。

—— それは何年頃の話ですか?

平成元年ですね。

◆ラグビーの選手はストイック

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—— サウナでの1年半は見習いで、その後のお客さん相手の対応はどうでした?

やっぱり人が相手なので、それぞれ強さも違ったり、硬さも違うので、それに合わせていくのが難しかったですね。

—— コミュニケーションの面ではどうでしたか?

サウナは昔からずっと通っている人が多いので、僕がやる前に先輩が施術していた人がほとんどなので、まずは先輩の技術に追いついていないと、「お前下手だな」と言われてしまうので、まずはしっかり努力していました。

—— 先輩は独立したりしていなくなるんですか?

そうですね。基本的には独立が多かったですね。金田さんの方針なのか、プロ野球選手になって若く1年2年で引退した選手をつれてきて育てるということが多かったですね。

—— 憧れのプロ野球の世界はどうでした?

ロッテに決まる前も、日本ハムのお手伝いに行ったりはしていたんで、それが本当に初めてという訳ではなかったんですが、やっぱり野球のそばにいるということは楽しかったですね。

—— ロッテでどれくらいやったんですか?

9年ですね。

—— 監督もたくさん変わりましたか?

そうですね、最初は金田さんで、八木沢荘六さん、ボビー・バレンタイン、江尻亮さん、いろいろいましたね。

—— 監督が代わっても、トレーナーが代わるということはなかったですか?

プロ野球の世界は、一度入ると結構長いので、よっぽどのミスをしたり、自分からやめない限りは、基本的には継続してつとめることが多いですね。

—— 比較的若い人の職業ですか?

そうですね、給料もそんなに高くはないですから、基本的には若いやつが多いですね。若くて動けて、あまり文句を言わないやつがいいんでしょうね(笑)。球団としてはそういう方が使いやすいですよね。

—— プロ野球のトレーナーの1日はどういう感じなんですか?

試合がナイターだと、球場に1時か1時半頃に行って、ホームが先に練習をします。ホームの練習が終わるのが4時くらいに終わって、ビジターだとそれから練習です。ホームの練習のときは球拾いをしていました。練習中はあまり大した仕事はありませんでした。ホームのときは練習が終わるとベテランの野手やピッチャーがマッサージに来たりして、それから軽食を食べて6時半にプレーボールです。

試合が始まってからは、中継ぎのピッチャーを順にマッサージしたりというのを5回までに終わらせておいて、その後6回以降はゲームをちょろちょろ見ながら片付けをしたりという流れです。あとは先発が打たれて降りてきたりすると、アイシングをしたりですね。

ゲームが終わってからは、腰が痛い選手がいたらマッサージをしたり、スライディングで擦りむいた傷を消毒したりですね。最終的には11時過ぎに帰るという感じです。その繰り返しです。

—— シーズンはキャンプからですか?

自主トレもトレーナーにとっては契約期間でした。選手は10ヶ月の契約なんですが、トレーナーは12ヶ月の契約でした。球団としては自主トレに期間もグラウンドにはトレーナーがいるというサービスみたいなもんですね。シーズンの切れ目としては11月ですが、間が空くという感じではないですね。

—— 野球選手の体はどうですか?

やっている当時はそういう感覚はなかったですが、いま思えば、アスリートっぽくなかったですね(笑)。日常生活もそうですし、例えば遠征に行けば、ナイターが終わって、11時から飲みに行って朝の3時か4時に帰ってきて、二日酔いのままやってたりすることもありましたからね。そう考えると、ラグビーの選手はストイックですね。

◆問題はタイミング

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—— 9年間いたロッテでいちばんの思い出は何ですか?

いちばん良い思い出は、いまでも友達なんですが、牛島和彦という選手がいて、肩を壊してしまったんですが、2年のブランクで、リハビリして、3年かかって1勝したときですね。体はアスリート体質ではなかったんですが、野球に対してすごくストックで、頭のいい選手でしたね。彼に野球の理屈を教えてもらいました。その理屈を僕はいまでも信じています。

—— それはどういう理屈ですか?

結局、野球は「だまし合い」だということです。160km/hの球を投げても、打たれる時は打たれるんです。問題はピッチャーの球のスピードではなく、タイミングなんですね。タイミングをどう外すかだけがポイントで、タイミングさえ外せば、バッターは面白いように空振りをするということです。要は心理戦なんですね。

—— ロッテ時代につらかった思い出は?

1年目のキャンプがつらかったですね。8キロくらい痩せて帰ってきました。辞めたいと思いましたね(笑)。

—— そこで辞めないで留まったのは何故ですか?

せっかく入ったのにというところと、野球が好きだということです。その後オープン戦が始まるとすごく楽になって、結局キャンプがいちばんキツいというのも分かりました。やはり合宿がいちばんつらいですね。

—— ロッテの後はどうしたんですか?

ロッテの最後の方に、伊良部(秀輝)というピッチャーが入ってきたんですが、彼がアメリカに行くときに僕を誘ってくれたんです。それで一緒に行きました。その辺りのことは本にも書いていただいたので、良かったら読んで下さい。

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※『裏方 プロ野球職人伝説』(木村公一/角川文庫)

—— メジャーリーグはどうでしたか?

伊良部のケアの仕事はキツかったですけど、野球は面白かったです。アメリカの野球がいかに本物かということを再認識しました。

—— 例えばどういうところですか?

1個1個のゲームの質ですね。どれだけファンを楽しませるかということを、メジャーリーグもマイナーリーグもよく考えていますし、それに対するサービスもきちんとできています。トレーナーの僕たちでさえ、選手のプレーを見てワクワクしていましたからね。エンターテイメントですね。回と回の間のパフォーマンスや選手の動きだったり、バッターボックスに入るまでの選手の様子だったり、すべてが面白かったですね。

—— プレーとしては?

やはり質が高いですね。日本にいた頃は、「こいつのこのプレーはすげぇな」という選手は1球団に1人か2人くらいしかいなかったですが、アメリカだと5人以上いますよね。どうしてそれが打てるの?何でそれが捕れるの?ということが多いですね。

—— 日本との違いは?

野球の考え方が全く違いましたね。やはりベースボールと野球の違いがありましたね。

◆ラグビーは怪我が多い

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—— その後はどうしたんですか?

アメリカには1年だけいて日本に帰ってきました。

—— 日本に帰って来てから仕事はすぐにあったんですか?

最初はぜんぜん見つかりませんでした。かみさんと子供がいるのに、「さて、どうやって食っていこうかな」という感じでした。本当に呑気な親父ですよね。アメリカにポッと行っちゃうんですから(笑)。アメリカに行く時は両親などからすごく非難を浴びました。「いい歳こいて何やっているんだ。プロ野球にいれば安泰じゃないか」と言われました。

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帰って来てからは、すぐには仕事が見つからなかったんですか、とにかく仕事をということで、1つは病院に入りました。そこの院長がロッテ時代にお世話になった先生で、先生の親父さんが亡くなって、先生が院長になるときで、ちょっと手伝ってくれないかと言われ、最初は週に何回かでしたが、初めて病院という場で働きました。そこで働いているうちに、前に働いていたサウナで知り合ったレフェリーの真下さん(昇)の紹介で、クボタでトレーナーをすることになりました。

—— クボタでラグビーの現場は初めてでしたか?

初めてではありませんでした。サウナで修業をしていた頃に、1回だけ、東芝に3ヶ月間くらい行っていました。なので、なんとなくこんなもんだなということは分かっていました。

—— クボタに行ってみてどうでしたか?

まだまだこれからのチームで、ごちゃごちゃした状態で、今のサントリーのようにいろんなものが揃っていない状態でした。なのでプロ野球でのやり方を彼らに見せながら、少しずつ形を作っていきました。

—— 野球との大きな違いは?

やはりラグビーは社会人ですから、プロと社会人の違いは大きいですね。あとはラグビーは怪我が多いということを感じました。野球では見たことのない怪我も多かったです。

—— ラグビーの面白いと思ったところは?

怪我が多いのもそうですが、いろいろ自分たちで考えて出来たので、スキルを上げるという意味では良い経験ができましたね。

—— クボタには何年いたんですか?

7年か8年くらいいました。4年前までいました。

—— その後はどうしたんですか?

クボタがスタッフを一度入れ替えて体制を変えるということになったので、そこで僕は辞めました。ちょうど病院の先生が非常勤ではなく常勤で来てくれという話があったので、かなり忙しくなるんですが、そこに行くことにしました。それをやりながら日本協会の仕事で、高校代表やU-23代表等に、スポットで行っていました。

—— 病院は一般の病院ですか?

一般の整形外科ですね。年配の方が多かったですね。

—— 日本協会の仕事はどうでしたか?

セレクション合宿をして強化合宿をして、遠征という流れが1つのスパンだったんですが、期間が限られるので、終わった後「あいつはどうしてるのかな?」とかが気になりましたね。

—— この選手は大物になるなと感じるような選手もいましたか?

ラグビーの競技経験はないんですが、トレーナーをやっているうちに少しずつ分かるようになって、そういう選手も何人かいましたね。特に高校代表は伸びる選手と伸びない選手がはっきり分かれて、高校代表なのに全然ダメだねという選手も多かったですね。

◆嬉しい話

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—— サントリーに入った縁は?

クボタのチームドクターが高澤(祐治)先生のお兄さんで、試合後によく一緒に飲んだりしていました。その飲みに祐治先生が来たりして、面識はあったんですが、そこで「いつか一緒に仕事できたらいいね」なんて話していたんです。そうしたら「うちに来ないか?」と話を頂いて、サントリーに決めました。ぼくももういい歳なんで、「現場に戻ることはもうないかな」なんて思ってたんですが、嬉しい話が来たという感じですね。

—— 野球に未練はないですか?

ないですね。アメリカから帰って来た時に、野球はアメリカで、しかもヤンキースだったんで、もういちばん上を見たという感覚がありました。「これ以上はないな」と思いました。選手でも、メジャーに行って、日本に帰ってきてまた野球をやってる選手は、本当に頑張ってるなと思います。

—— ラグビーの良さは?

熱いところですね、全てに対して。試合数が少ないですから、1試合に対する思いは全然違いますよね。非常にモチベーションが高いと思います。今も学生が研修でサントリーにも来ていますが、野球ではトレーナーは常に冷静でなくてはいけないというのがあるんですが、ラグビーは一緒に仕事していて、熱くなりますね。

だから学生に言っているんですが、「楽しみたかったら熱くなれ」と話しています。その中で、冷静な部分はもちろん持ってなければいけませんが、試合でトライを取ったら嬉しくなきゃだめですし、取られたら悔しいと思わなきゃだめですよね。ヤンキースはそういう意味ですごく熱いチームでした。選手と一緒に楽しまなきゃだめですね。

—— サントリーはどうですか?

面白いですね。いろんなことが起こりますしね。

—— 驚いたことは?

システムがすごいですね。大きいなクラブで整理されているなという印象です。

—— チャンピオンになる雰囲気はありますか?

やってみないと分からないというところが正直なところですが、良いと思いますよ。

—— 今年の目標は?

まずはサントリーで一生懸命やるということです。あとはその次ですね。このチームに一番いいものを残せるように頑張っていきたいです。体力が続く限りは現場で頑張りたいですね。

—— 50歳になっても現場で楽しくやっていく秘訣は何ですか?

それが好きだからですね。家族にもそれは言っています。家族には「好きで行ってるんだから、そこで疲れたとか、嫌だとかは言うな」と言われています(笑)。「朝早くて夜も遅くて大変だね」とは言われますが、好きでやってますからね。

—— お子さんは?

娘が2人います。大学4年生と1年生です。

—— 今いちばん楽しいことは?

いちばんはないですね。全てが楽しいです。

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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)
[写真:長尾亜紀]

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