2008年11月 7日
#159 特別編 大塚 卓夫 『感動・共感・空気の共鳴』-2
◆人間力
—— スタート時に苦労したことは何ですか?
苦労というものはなかったですね。当時は今と違って、ラグビーはアマチュアの権化みたいなものでしたからね。たとえば、某有名選手がアディダスとかのボストンバッグを持って秩父宮ラグビー場に現れたら、協会役員は「お前いつから広告塔みたいなことをしているんだ?そのボストンバッグはなんだ?今日はもう帰れ」ってそんなことを言われるような時代だったんですよ。
サントリーも最初、「サントリーというのは社名か商品名か?」とか言われて、「サントリーの後ろにウイスキーとかビールとかは絶対に入れるな」って言われましたね。「社名もできるだけ小さくしてくれ」って、そういう時代でしたね。あとから聞いた話なんですけど、トヨタ自動車さんも随分と困ったみたいですよ。社名であり、商品名でもありましたからね。「自動車とつけると商品になるから、トヨタだけにしてくれ」って。そういうのは最初の10年くらいだけでしたけどね。
—— 最初にやってみろとおっしゃった佐治社長の次の印象的な登場場面はどこだったんですか?
15年目の日本一になったときでしょうね。国立で胴上げしましたからね。佐治社長は東京、花園には時間があるときは必ず来て下さっていました。一度まだ全国社会人大会が花園でやっていた時に、予選で三菱自動車と戦ったことがあったんですが、佐治社長はそういう予選でも来て下さっていましたね。
花園の第2グラウンドで試合をした時に、佐治社長は少し試合に遅れて来られて、その時サントリーは自陣ゴールライン際で押されていたんですよ。それを見た佐治社長が、その後ろ側から「何もたもたしとるんじゃい、頑張らんかい!」って大きな声で一喝したんですよ。そうしたら、もう一回押し返したんですよ。そういうこともありましたね。あとから社長は大笑いしていましたよ(笑)。
—— 5年で日本一とおっしゃった社長が、15年間温かく見守って下さったんですね。途中で、何か言ってきたりしたことはなかったんですか?
まずなかったですね。それを今の佐治信忠社長は、すっかり引き継いでくれていますよ。ありがたいですね。佐治敬三社長と似ていますよ。
—— 社長がそれだけ真剣ですと、周りの社員はどういった感じだったのですか?
最初にやったことですが、私も含め部員のほとんどが営業でしたから、終業後1時間以内で府中に来られるところに配属しまして、私の思い過ごしかもしれないですが、ラグビー部は営業先で歓迎されたんですよ。ビールもまだ悪戦苦闘の時代で、7月、8月はトラックにビールをいっぱい積んで酒屋に行ったりしていましてね。「5ケース、10ケースでも置かせて下さい」って。そういう訪問販売促進活動をやっていたんですよ。
そういう時に、ラグビー部の連中は、誰も嫌な顔をしないで、丸坊主になって、目の色を変えてやってくれていましたよ。私にとっては、何よりも嬉しかったですね。ですから職場の抵抗はなかったですよ。
—— 創部時に大塚さんが心配されたことは、10年、15年やって杞憂に終わりましたか?
杞憂でしたね。逆に言うと、普通の社員よりも早く出世している者もいますからね。
—— その理由は何だと思いますか?
いろんな意味での力はないといけないんですけど、先代の社長から現在まで、人間力みたいなことが社員1人1人の評価になっていますね。そういうところがサントリーとしての土壌となっていますから、スポーツマンとして持っているいいものをひとつの人間力として評価してくれる世界が、サントリーという企業にはあったんじゃないかなと思いますね。創部28年ですから、もうそろそろ第一期生には50歳になる人も出てきますからね。その人たちの半分くらいは、管理職に就いていますしね。
◆創部の精神とその基本的考え方
—— 大塚さんとして、毎日が楽しかったと思うのですが、どこが一番楽しかったですか?
やっぱりチームが階段を上って行っている時です。4部で全勝し3部に上って、2部、1部と上って行って、順風満帆という感じで行ったところですね。1部に上ってから足踏みして、そこから日本一になるまで10年かかりましたが。
—— 1部に上ってから、もう少し早く日本一になれるという雰囲気はありましたか?
会社の中でも、1部に上って日本一はすぐそこだという雰囲気はありましたね。その期待はきつかったですね。
—— 大塚さんとしてもきつかったのですか、それとも大塚さんはその状況すらも楽しかったのですか?
まぁ、ラグビーに携わっているというのは楽しかったですが、結果が出ないというのは辛かったですね。結果が出ないからといって崩しちゃいけないところもあるし、求められている側からすれば、そんなことを言い訳にせず、勝てるようにも変えていけなければいけないんじゃないかなっていう考えもありましたからね。
こちら側としては、外国人を入れて強くするという話もありましたが、それをしてしまうとアマチュアの中で育ってきたサントリーのラグビーの根幹が崩れてしまう。ラグビー部員の会社でのポジションも「プロ的な存在でいいのか?社員として仕事もしながらラグビーもやっているというポジションだけは譲れない」というのはありましたからね。その辺のジレンマがいちばん大きかったですね。
—— 『創部の精神とその基本的考え方』は大塚さんが書かれたのですか?
間違いないですね、これは。私の字によく似た字です(笑)。ちょっといい格好しすぎてますけど、やっぱり夢はこんな感じで良かったかなと思いますね
—— 1980年にお作りになって、これは少なくとも27~28年はサントリーラグビー部の精神に生きていたと思います。今年になって変わったと思うところは、外国人選手がたくさん入りました。チームの中で、プロ選手とアマチュア選手がどう一緒になっていくかというところがこれからの1つの課題だと思うのですが、今の現状をご覧になっていかがですか?
いちばん辛い質問ですね。プロとアマチュアの融合、企業スポーツの在り方というのが、プロ野球の球団を持つということと、ラグビーというスポーツの中でチームを持つということとは全然違いますよね。これをどうこなしていくかですね。
—— 協会が作るトップリーグの在り方に左右されますし、こういった課題はサントリーだけでは解決できないところだとは思うのですが、世の中の大きな流れとして、そっちへ行かないと成績を残せないというのもありますし、そういうこともあって今シーズンのサントリーの形になったと思うんですよね。今、すごく難しいところに来ていると思うのですが...
そういうチームを持つ方が楽だと思いますよ。だけど、ラグビーで飯が食えるかと言うと、食えないですね。ラグビーというスポーツだけで、それだけの集団を食わせられるかといったら、ノーですよね。そこにジレンマがあるというのが面白いですよね。そう考えなきゃ仕方ないですよ。
—— どちらの方向に行くと思われますか?
これから日本協会と、トップリーグの稲垣COOがどういう判断をするかでしょうね。サッカーはしっかり独立していますね。サッカーでもJ1とJ2ではまだ差がありますけどね。ラグビーは今ちょうど過渡期ですね。企業依存、これからプロ選手が増えていって、それでも成り立っていくかというところでしょう。
—— 今のサッカーや野球とは少し違った「プロ」になる可能性もありますね
チームが独立して、選手を集めて給料を払う。入場料収入があって、企業のバックアップがあって、そういう中で成り立っていくものですからね。イギリスのプロリーグなんかを、私も詳しくは知らないですが、今の現場の連中が、しっかり勉強して参考にしなければいけないですね。純粋のラグビーのプロっていうのは、南半球のスーパー14くらいじゃないですかね。イギリスは少し違うと思いますね。
◆部長兼担当役員兼総監督
—— 話を戻しますが、当時は総監督という立場だったんですか?
そうでした。
—— いつまでですか?
部長兼担当役員兼総監督というのをやめるまででしたから、優勝の前ですね。15年で優勝でしたから、12年、13年というところですかね。仕事ではちょうどサントリーオールドの神話崩壊という時期でしたかね。洋酒担当常務として、「お前、ラグビーなんか語ってる場合じゃないぞ」という感じでした。私自身もそう感じてました。その頃までですね。
—— そこで一度退いたんですね?
そうです。
—— それから、また戻ったんですか?
戻ってないです。退いてから、3年くらい経って、サントリーフーズに行きました。
—— サントリーフーズに行ってから、サントリーが初優勝したんですね?
サントリーフーズの社長になったのが、93年の秋なんで、優勝したのが95年ですから、そうなりますね。
—— 本業の洋酒のピンチがあっても、ラグビーから離れるというのはかなりの決断だったんではないでしょうか?
あっさりでしたよ。決断というよりは、それまで洋酒の天国でのめりこんでいましたから、そういう環境がなくなったということで受け入れました。会社全体のピンチでしたから、そんな時に洋酒の全体の責任者がラグビー部に関わっていてええんだろうかというのは、自分でも感じていましたし、会社にもそう見られていると思いました。
だからといって、試合を見に行かなくなったわけではなく、試合は見に行っていました。ラグビー部も厳しい時代でしたね。ほぼ目の前に優勝が見えながら、足踏みしていた状態でしたから。ラグビー部は僕がいなくなっても何とかなるだろうという感じでした。とにかく会社としての大ピンチでしたから、どっちが本業なんだということでの決断でした。
—— サントリーフーズのラグビー部はいつできたんですか?
平成元年くらいですね。私がフーズに行って、2年くらいですかね。もともと同好会があったんですが、最初は「新人社長のゴマすりチームや」なんて言われていましたね(笑)。「今度来た社長は、サントリーでもラグビーをしていたから、お願いしたら部費が出るかも知れんぞ」なんて言ってたみたいです。1年くらい経って、「そんなんだったら、ユニフォーム代くらいは会社に面倒見てもらえ」ということで始まったんです。初めは関東社会人リーグ4部に登録しました。
—— またラグビーに関わるということで、血が騒いだりしましたか?
ゆっくり見ていこうと思っていました。サントリーに追いつこうとか、そういう意気込みではなく、ボチボチやっていこうと思ってました。会社の業績も2年、3年して落ち着いてきましたので、社員の注目を集めるチームがあって、会社の名前を背負って活躍する部があってもいいじゃないかというくらいでしたね。
—— 大学卒業後、サントリーでラグビーに関わるまでは、ラグビーはどうだったんですか?
私自身、大学を出て就職という時に、近鉄、神戸製鋼、川崎重工...みんなすごく強い時代でした。私は右膝の怪我が重かったのもあるし、就職とラグビーは一緒にしたくないと思っていましたし、私の親父が大阪で薬屋をやっていて、兄貴と手伝うということも考えていました。なのでラグビーとは全く関係なく、公募に応募して、寿屋に入ったんです。もう一つの理由は、ラグビーの先輩があちこちにいたので、あっちに行ったらこっちに言われるし、こっちに行ったらあっちに言われるしということで、まったく関係ないところに行こうと思っていました。
—— お酒は好きだったんですか?
家系的にあまり強くはなかったんですね。ですから若い頃にセールスしてる時に、取引先が50人~100人くらいいる間でお酌して回って、飲まなきゃけないというのは、最大の苦痛でした。
—— 入社は何年でしたか?
昭和28年です。
—— 本当にいい時代の、何でもありのような時代だったんですね
飲食店革命を起こして、お酒の世界でも面白い時代を過ごしました。
—— そういう仕事をしている中で、ラグビーに対する未練はまったくなかったんですか?
個人的なことですが、入社した翌年に胸の病気で入院しました。逆に言うと、それでラグビーと自分をうまく切り離せました。療養所に入っていたんですが、10月に北海道国体があって、オール大阪の連中に、「予選はいいけど、優勝決定戦だけ来てくれよ」と言われて、結局オール大阪が勝って近畿代表で出ました。
初めは会社にも内緒で出てたんですが、それがバレまして、「そんな名誉なことを遠慮しないで行ってこい」と言われ、北海道に行って国体に出て来ました。1回戦で負けました(笑)。国体から帰って来て研修が始まりましたが、これでラグビーは上手くやめられました。それからは10年くらい見るのも嫌でしたね。
(続く) 2/3
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:五十嵐祐太郎)