SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2008年10月29日

#158 特別編 大塚 卓夫 『感動・共感・空気の共鳴』

◆マーケットを下から見る目

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—— ここまでずっと歴代のキャプテンにお話を聞いてきましたが、このスペシャル版の最後に創部当時からのことをよくご存知だという大塚さんにインタビューさせて頂きます

今日は古い話になると思っていますが、サンゴリアスは創部は何年でしたか、28年ですかね。ラグビー部が出来たときに、まだ生まれていない子が現役にゴロゴロいるわけですよね。

—— 山下キャプテンもまだ生まれていないかもしれないですね

そうですね。ギリギリですね。

—— いま座られている後ろにはソフトドリンクもずらっと並んでいますが、サントリーフーズの社長もされていたんですね?

はい、私は現役の最後10年近くは、サントリーフーズの社長をしていました。

—— それは、サントリーフーズが上昇気流の時ですか?

そうです。洋酒の天国と地獄を見ましたね。サントリーオールドが1千万ダースを達成して、洋酒天国の時代でしたね。それから焼酎が人気になり、洋酒が売れなくなった地獄の時代の、ちょうどその辺ですね。

—— その時にサントリーフーズに行かれて、頑張らなくてはというのがあったんですね

その時のサントリーは、1番がウイスキーで2番がビールで、飲料は3番目の柱だったんですね。

—— いちばんに取り組まれたことは何だったんですか?

知らないこともなかったんですが、お酒のマーケットと飲料のマーケットでは全然違いましたから、そこで元ラグビー選手として、どこに穴があるかということを探しましたね。それで面白い発想をしたんですよ。飲料の成功はこの発想に尽きると思うのですが、"売り場"という言葉を会社の中から捨てたんですよ。"売り場"というのはメーカーサイドから見た消費者との接点ですから、下から見る目がなかったんですよね。"売り場"という言葉をやめて、飲んでるお客さんはどこで買うかということを考え、"買い場"にしたんですよ。そうすることで、飲料のマーケットがよく見えたんですよ。

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—— その時は他の飲料会社もそこには気がついていなかったんですね

気がついてなかったというよりは、そういう発想がなかったでしょうね。それで、マーケットの末端を分析しましたら、サントリーという酒メーカーの看板を背負っていますから、どうしても酒の流通の脇役として飲料をとらえていたんですよね。その時、ちょうど時代の転換期だったことも幸いしまして、飲料販売全体の約50%が自動販売機になったんですよ。そして残りの50%のうち40%がスーパーやコンビニだったんです。

酒屋などは残りの10%しかなかったんですよ。サントリーという酒の流通の看板を背負っていましたから、その時はその10%のところで一生懸命やっていたんです。それをやめて、人、モノ、金の使い道を自動販売機とスーパー、コンビニに変えたんですよ。ヒット商品もありましたからね。烏龍茶から力がつきだして、はちみつレモンがヒットしました。その中で、何としても強くしなきゃいけないものが缶コーヒー、BOSSでしたね。

—— BOSSというネーミングはどうやって決まったのですか?

あれはもう商品開発グループが試行錯誤して決めたんです。そういうのは若いものに任せて、年寄りは口を出さない方がいいんですよ。自動販売機の商品の半分はコーヒーなんです。それと、その半分を支えているのは誰かというと、トラックドライバー、タクシー運転手、街を走り回っているセールスマンなんですよ。

そういう人たちがどうやって銘柄を決めているのかというと、みんなそれぞれに好きな銘柄があるんですね。ですけど、その銘柄がない時がありますよね。事前に決めている銘柄がなかった時に、「じゃあこれだな」という2番手銘柄を作ろうという切り口でやっていましたね。それが意外に当たったんですよ。それといちばん売れている缶コーヒーから順に並べたら、「こんなん飲めるかい」っていうものばかりです。実際に売れているものは、甘いものが多かったんですよ。

自動販売機を見ていると、そんなにコーヒーが並んでいるとは見えないですよね。これだけ選べるのに、みんな決めているものがあるから、買う時にはそこしか見ていなんですよ。さっきも言いましたように、買い場という発想をしたことで、色々と見えてきましたね。

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◆やろうやないか

—— 売り上げを上げるわけではないですが、別の視点からのラグビー部作りというものはありましたか?

『ワインレッドの彷徨』(小林信也/双葉社)はお読みになりましたか?

—— はい、読みました

あれは当時の創部のところの話ですけど、ラグビー部作りに関してはオーナー(当時)の佐治敬三の一声ですよ。

—— 佐治社長は、何と言われたんですか?

その頃、陸上部を持ちませんか?という話、それと同時にサッカー部を持ちませんか?という話が両方来ていたんです。いずれサッカーのトップリーグというのが出来て、すごい人気になると思うので、いま買い時ですよって。

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—— その話が来たのが1970年代でしょう、ちょっと早過ぎでしたね

ラグビー部の創部が1980年ですから、早かったかもしれないですね。そんな話があった時に、東京大学ラグビー部出身の平木英一常務(当時)が関西経済連合会の世話役みたいなことをしていまして、それで佐治敬三が彼の人柄やバイタリティーに惹かれて、ここで世話役をしているんじゃなくて、うちに来いって言って、サントリーに引っ張ってきたんですよ。それで会社のヴィジョン作りなどをやっていましたね。素晴らしい人でした。

それで、陸上とサッカーの話があった時に、「そんなんやるんだったらラグビーやりましょうよ」って役員会議で言い出したのが、平木常務だったんですよ。「大塚さんもいるんだから」なんて言われたんですけど、その時は「ちょっと待って下さい、私なりに研究させて下さい」って言いましたね。その時、社長も「それは面白いな」って言っていましたよ。

それで、次の役員会議でまたそのことについて話し合ったんですけど、私は「無理です」と言ったんです。私はラグビーが大好きでしたけど、ラグビーは学生時代で終わりって決めていましたから。それと新日鉄とかトヨタ自動車、神戸製鋼、古河、近鉄とか、そういう「1万人規模の工場を持っていて、終業のベルが鳴ったら10分、15分でジャージに着替えた選手が敷地内のグラウンドに出てくるようなところしか、強くなれないスポーツです」って言ったんです。それと「スタッフを入れたら最低40人以上の所帯ですし、会社として無理なスポーツです」ということを偉そうな顔して喋ったんです。

そしたら佐治さんが、「ようわかった、お前がそこまで考えているなら安心だ、やろうやないか」とおっしゃったんですよ。その一声で決まりましたね。

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—— 佐治社長はやりたかったんですね

そうだと思います。佐治さんは、最初からゴタク並べて無理とか言わないでやってみないと、やってからそういうこと言ってもいいじゃないか、それでその時また方法を考えればいいじゃないかっていう、考え方の人でしたからね。

—— では、無理と言ったことが、逆に火をつけてしまったんですね

そうですね。企業規模として無理だとか、ラグビーは工業スポーツだとか言ったことが、火をつけてしまいましたね。でもこちらとしては辛かったですね。元ラグビー部が会社にゴロゴロいるのが目障りだ、なんて言われるんじゃないかって思っていましたから。

オーナーからは「無理ということは、話としてはよくわかった。けど、やってみないと分からないじゃないか、お前やってみろよ、やってみなきゃ分からない」って言われましたね。平木常務も、「ラグビーは最高のスポーツや」なんて言っていましたね。佐治敬三の「やってみなはれ」の一声で決まりました。

◆4人でスタート

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—— その言葉を聞いて、内心は嬉しかったんじゃないんですか?

嬉しかったですね。血が沸きましたね。その時、「やる限りは日本一」という話もしました。佐治社長が「何年で出来る?」とおっしゃったので、「10年」と答えたんですが、「5年でやれ」って言われて。結局15年かかってしまったんですけどね。

—— では、やることが決まって、すぐ準備に取り掛かられたんですか?

そうですね。最初に監督、選手集めに取り掛かったんですが、ラグビー協会の小林忠郎(こばやしただお)さんや白井善三郎(しらいぜんざぶろう)さん、同志社大学ラグビー部部長をされていた岡仁詩(おかひとし)さんにアドバイスをもらって、監督は若い方がいいだろうってことで、山本巌(やまもといわお)に初代監督に就いてもらったんです。

その前に、佐治社長が「ラグビーをやるなら、社員にいいのがいるじゃないか」って話していたんですよ。ラグビー部が出来る前に浜本(剛志)、松尾(尚城)の2人に、関東ラグビー協会からアジア大会か何かへの召集がかかったんですよ。

3月20日から4月10日くらいの間だと思うんですが、当時の人事課がその召集を握りつぶしたんですよ。そのことを佐治社長がものすごく怒ったんです。人事課としては、その時期に入社式とか入社後の研修とかがあって、2人に入社後もラグビーをやるのかと確認したら、2人とも「やりません」と言ったので、行かせなかったんです。それに対して佐治社長は、「研修よりも海外の大会に出て色々と見てきた方が、本人にとってよっぽどプラスだ。相談もせずに勝手に断って、本人がやめたからと言っても行かせてやるのが人事の仕事だろう」って怒っていましたね。

そして、その後にラグビー部の話が来たんですよ。そして、「全日本クラスの選手がいるんだからやらせよう」って。稲垣(純一)、浜本、松尾、そして監督の山本の4人でスタートしましたね。そして、その4人に好きなようにしてもらうように、私は担当役員という形で、会社との仲立ちをしていました。

—— それがラグビー部の基盤になったのですね。そこからチームにしていくことも大変ですよね

そうですね。そこで、協会の小林さんや、同志社の岡さんに協力してもらって、東京都社会人リーグの4部からのスタートでしたから、「1部に上がるくらいだったら、こんな選手がいるよ」って紹介してもらったりとか、ネットワークをそういう形で広げながらやっていましたね。

—— やっぱり一番重要だったのは、グラウンドや設備よりも人ですか?

人でしたね。まず早く強くなって、胸を張れるようになりたかったですね。最初はサントリーのビール工場には古瓶置場があったんですけど、その時代ぐらいから古瓶置場がいらなくなったんですよ。昔はビール会社には広大な瓶置場が必要だったんですけど、缶が多くなってきましたからね。

瓶から缶の時代になったので、その広大な場所に野球場やテニスコート、バレーボールのコート、クラブハウスを作ったんですよ。それが今の府中ですね。そこの野球場を使って、ラグビーの練習をしていましたね。そして、階段を上っていく毎に、テニスコートやバレーボールコートをなしにして、さらに野球場もなくして、ラグビー場になったんですよ。

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(続く) 1/3

(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:五十嵐祐太郎)

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