2008年9月22日
#155 田中 澄憲 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 12代目キャプテン 『絶対にあきらめない』
◆言いたいことは言いました
—— 永友洋司監督から要請されてのキャプテン就任だったんですか?
そうですね。
—— その時の状況は?
会社で呼ばれて、行ったらキャプテンをやってくれと言われました。そのとき僕はちょうど30歳の年で、正直なところ、「30歳になる奴がキャプテンやる必要はないんじゃないの?若い奴がやった方がいいんじゃないの?」という気持ちはありましたね。だから、最初は「いや~」という感じだったんですが、洋司さんとしたら監督3年目で最後の年なので、先のことではなく、今年1年のことだけを考えて選んだらキヨしかいないと言われて、そう言われたらやらなきゃいけないなと思いました。
—— 結果的にはその場で返事をしたんですか?
そうですね。その場で返事をしました。
—— 田中選手から見て、その時のチーム状況はいかがでしたか?
前のシーズンがトップリーグ8位で、マイクロソフトカップにギリギリ出場できたところでした。その後のマイクロソフトカップにしてもそうなんですが、みんなすごく頑張っているんだけど結果がついてこないという感じで、何とかしなくちゃいけないというのがあって、洋司さんも自分ですごく責任を抱え込んでしまっていて、早野さん(貴大=前キャプテン)とはあまりコミュニケーションはとれていなかったんじゃないかと思います。そういう意味では、監督とケンカできる、言いたいことを言える間柄ということで、僕が選ばれたということもあると思います。
—— 監督の思惑通りかはわかりませんが、田中選手は永友監督と結構やりあったんですか?
言いたいことは言いましたし、その年はマットさん(林正人/当時コーチングコーディネーター/現 慶応義塾大学ラグビー部監督)が来て、任せるところは人に任せるようになりました。そうなって僕の意見も聞き入れてもらえるところも出来ましたし、体制は変わりましたね。
—— 具体的にはどういうところですか?
たとえば、試合前の日の練習は、僕はあまりいろんなことをやる必要はないと思っていて、前日はキャプテンを中心に確認だけを40分~1時間くらい合わせて、気持ちの面で試合に持っていくというような方がいいと思うんです。それを、あれが心配だ、これが心配だと全部やって練習が長引いていたのは僕は好きじゃなかったんで、そういうところを言ったりしました。あとは怪我をしてしまう可能性が多少増えてでも、練習にもうちょっとコンタクトを取り入れてほしいと言ったこともありました。
—— そういったところが聞き入れてもらえるようになったんですね?
そうですね。全部が全部ではないですが、いろいろと聞き入れてもらえました。マットさんも結構的確にアドバイスをくれていたんで、そういう意味では洋司さんもだいぶ楽になったと思います。前は1人で全部考えて抱え込んで、やっている中でやっていることが本当に正しいのかと悩んで、大変だったと思います。
—— 選手に対してはどういうところを気をつけていましたか?
僕がキャプテンになったときの最初の挨拶で、冗談半分本気半分で言ったんですが、それまでチームが勝てなくて、選手もスタッフもお互いフラストレーションが溜まっているんじゃないかと思い、そういうのを僕に全部言ってくれと言いました。監督とケンカするのは昔から慣れてるから、俺に言ってくれと伝えました。不満は持たずに俺に言って、情熱を持って試合をして勝ちにいこうと言いました。
監督に対しては、自分で感じたことや選手から出てきたことはストレートに伝えていましたし、洋司さんもストレートに返してくれました。だから監督と選手の間で苦労したという感じはありませんでしたね。
◆規律
—— キャプテンになって自分自身の姿勢が変わったとところはありますか?
プレーは変わらないですが、どういう風にやれば妥協しないで練習できるようになるか、体を張れるかとか、グラウンドに立っているんだということをどう意識させるかということを考えるようになりました。なにより勝つことに対して、日々どう情熱を持ってやっていけるか、そういう精神的な部分を考えるようになりました。
—— ハーフというつなぎ役のポジションならではのこともありましたか?
大学の時もキャプテンをやっていましたが、勝てなかったんで、「勝ち運ないんじゃないかな」と思ったこともありました。
—— 大学でのチャンスは基本的には4年生の1回しかありませんからね。
そうですね。
—— チーム状態は良くなってきたんですね
そうですね、非常にわかりやすくなりました。マットさんがきて、「3つの武器を持つ」と今まで以上に明確な目標を持てたんで、練習もやりやすかったですし、はっきりしていましたね。
—— 練習時間はどうでしたか?
長くはなかったです。長くはないですけど、フィットネスなどもしっかりやりました。あの頃はひとりひとり目標体重みたいのがあって、それが出来ないと、火曜日の朝6時ころから会社に行く前にクラブハウスで自転車をこがされたりしました。
洋司さんはよく「規律」という言葉を使っていたんですが、ラグビーにはやはり規律が重要だということで、フィットネスでみんなで走るにしても、少しでもフライングをした人がいたら、やり直したりしてました。それはエディー(ジョーンズ/テクニカルアドバイザー)なんかもよく言いますね。
—— 3つの武器とは何だったんですか?
ストップ・ザ・ドリフト(ドリフトディフェンスを止める)、ゴー・フォワード、もう1つが思い出せないですね(笑)。
—— トップリーグはどうでしたか?
開幕戦にトヨタに勝って、勢いに乗るかなと思ったら、次の三洋戦かなんかに競って負けて、そのあと神戸とやって負けて、そのときに大悟(山下)が大怪我しましたね。勝てそうで勝てない試合が続きました。最終的にリーグ戦は6位で、マイクロソフトカップは決勝まで行って、東芝に負けました。シーズン終盤はチームの雰囲気もすごく良かったです。後半は上り調子でしたね。でも東芝との間には差がありましたね。
—— シーズンが終わったところで、もう1年キャプテンということはありませんでしたか?
それは上が前から決めていたことでしょうから、特に考えなかったですね。チーム状態としては非常に上向きになっていたんで、誰がやっても良かったんじゃないですか?フィットネスなどはやってきたことは結構な貯金になりましたね。
—— 1年間あっという間だったと思いますが、楽しかったことは何ですか?
1年間楽しかったですよ。大学の時にキャプテンをやったときは、結構選手に対してもいろいろキツイことも言っていたんですが、社会人になって、直弥(大久保)なんかを見てても、いい刺激をもらって、勝つチームというのは、いい選手がいて、いい監督がいるというだけじゃなく、チーム内の結束力があるなと思い、お互いに健闘を認め合って、AチームもBチームを互いをリスペクトしあって、出てる選手が出ていない選手の気持ちを背負ってプレーすることだったリ、そういうことが大事だと思うようになりました。
—— 辛かったことは?
あんまりないですね。楽しかったですね。学生の時みたいに自分が自分がという感じでもなかったんで、若い選手のことも考えていましたし、学生のときとは全然違いました。
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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)