2008年8月21日
#154 早野 貴大 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 11代目キャプテン 『そのとき身につけたものは無駄になっていない』
◆即答はしなかった
—— キャプテンになる前に、副将などの役は務めたんですか?
それまでは何もやってないです。
—— ご自身より若い大久保直弥・前キャプテンからの引き継ぎでした
そうですね。結果から見ればそういうことになりますね。あまり年齢は関係ないと思います。
—— 最初にキャプテンをやってみてくれと言われたのは誰からですか?
永友(洋司)監督からです。
—— 永友監督になって最初のキャプテンということですね?
そうです。
—— その時は即答でしたか?
いや、即答はしなかったです。確か、仕事中に電話が鳴って呼び出されたんです。「何月何日に話があるから、ちょっと来てくれ」と。何日か忘れましたけど、行くと新監督から、「キャプテンをやってくれないか」ということで、色々お話があって、その時は即答はしなかったんですけど、何で監督が僕を選んだのかなど、いろいろ話をしたと思います。
—— 何と言われましたか?
しっかりと仕事をすることとか、ラグビーに対する姿勢などを評価して頂き、そういうところでしっかりとやってくれれば、他のことは全部やるからやってくれないかということで、話を受けました。
—— 永友監督は監督の前は何をしていたんですか?
監督の前はコーチをしていました。
—— 監督は、選手時代、コーチ時代から早野選手と接していましたね
何試合も何試合も一緒に出場しましたし、新人の頃からいろいろなアドバイスをして頂いたりした大先輩なので、そういう方に評価して頂いたので、「やりましょう」ということで、決めました。
◆考えてしまった
—— 自身のラグビー史の中で、キャプテンは初めてでしたか?
キャプテンは大学の時にやりました。
—— キャプテンを務めることに対する違和感はそれほどありませんでしたか?
違和感はないですけど、相当緊張はしました。「自分でいいのかな」という気持ちは常にありましたね。違和感ではないですね。
—— 実際にキャプテンを務めてどうでしたか?
「自分のことだけしっかりやってくれれば良い」と言われてましたが、実際キャプテンになると、少し考えすぎなところもあるんですが、いろいろ気になって、やっぱりもっといろんなことをやった方が良いんじゃないか、とか、そういうことを考えちゃっていましたね。考えなくちゃいけないことももちろんありましたが、そんなことまでやることないだろうということまで、考えていましたね。
—— 例えばどういうことですか?
例えばというと難しいですが、ものすごくいい練習していたのに、僕が「今日の練習はすごく良かった」と言うよりも、悪い点を言って直そうというような形で、少し的がはずれた発言をしてみたり、要求を高いレベルでしようということがありました。「もっともっと」というところが出てきてしまいがちで、後から考えると良かったと思うこともありましたけど。そうやって自分で言ったことに関して、また後で考えてしまったりしたところもありました。
—— バイスキャプテンはいたんですか?
1年目はいなかったです。
—— そうすると、1年目はかなり監督とのコミュニケーションが多かったんですか?
反省点でもあるんですが、あまりしてなかったです(笑)。というのは、最初の時点で、自分のプレーをしっかりやれば良いと言われれていたし、チームのことで、「こうしてくれ」という話はなかったんじゃないかなと思います。それは監督が気を遣ってくれたんですね。
◆ターニングポイント
—— チーム自体は世代交代の時期でしたか?
世代交代の時期ではなく、いちばん脂がのってる、絶好調な時期じゃないですかね。この年にトップリーグが出来て、ワールドカップもありました。この年にはサントリーからも多く日本代表が出ていました。そういう面も含めて、監督は僕がどうこうするよりも、「自分のプレーをしっかりやってくれ」というところだったんだと思います。
—— トップリーグが始まってどうでしたか?
前年のシーズンも成績が良くて、優勝候補筆頭と言われていたんですが、途中、クボタとヤマハに連敗して、今までではあり得ないような負け方というか、ビックリするような負け方をして、シーズン序盤は良かったんですけど、ちょっとずつ上手くいかないところがありました。自分でも分かっていたんですけど、軌道修正できなかったなと思います。どこのチームもアタック重視のサントリーに慣れてきたというのと、対策が取れるようになってきたというのがあって、上手くいかなくなって、ちょっとずつずれてきました。それでも、最終的には4位でしたが、最終戦に勝っていれば優勝というところでした。
—— 最終戦の相手はどこだったんですか?
東芝です。今でも忘れないですけど、東芝戦、前半はほぼ互角で、後半に最終的に10-50で負けたんです。そこがちょうどチームにとってもターニングポイントでしたね。その後のシーズンを考えると、東芝にとっても、サントリーにとっても、そこがターニングポイントでした。その年のトップリーグの優勝は神戸でしたが、この年の日本選手権は東芝が優勝しました。
—— 悔しいですね
今でも大悟(山下)とかが言いますが、もともと強いチームがいて、そこを追い越すには、「大差で勝たなくちゃいけない、圧倒的な力を見せなければいけない」ということです。もともと僕らが直弥さんがキャプテンの時に神戸製鋼に立ち向かった時もそうですね。サントリーは結局この年は、日本選手権でも2敗して、3連敗でシーズンを終えました。
—— キャプテン1年目でもっとも印象的なことは何ですか?
そうですね。トップリーグのリーグ戦の最後の試合、東芝との試合ですね。あの時の後半40分はあまり忘れたくないというか、忘れられない、コロコロと行ってしまった瞬間でした。ものすごくいい選手がそろっていて、何人もワールドカップに輩出している、そういうチームが勝てなかったというところに、僕1人の問題ではありませんが、反省点がありましたね。
◆ヒントはたくさんあった
—— 2年目のキャプテンの時にはそういうところを気をつけてやったんですか?
そうですね。ですが、2年目は自分が絶不調でした。怪我もあったんですが、僕の悪い癖でもある考えすぎなところが出てしまって、体がぜんぜん動かなくなってしまいました。今で言えば我慢できる怪我だったんですが、我慢して出てもパフォーマンスが悪かったので、試合に全く出られませんでした。
—— 試合に出ないとなると、練習の中でリーダーシップをとったんですか?
その時のリーダーシップとかコミュニケーションとか、この年はバイスキャプテンもいたので、監督も含めコミュニケーションをとりながらやっていかなければいけないのに、自分が上手くいかないところもあって、シワが寄ってきてしまったような感じです。
—— バイスキャプテンは誰だったんですか?
アラマ(イエレミア)と若松(大志/現 三洋電機)でした。永友監督と、前の年に上手くいかなかったサントリーをどうにか立て直したいということで、いろいろ話し合いましたが、上手くいったところと、行かなかったところがありました。
—— トップリーグができて、ラグビーをやっていることに関して、違いは感じましたか?
もちろん厳しい試合がずっと続くので、もともとだったら対戦しないで終わっていたチームも全部対戦するので、とにかく厳しい試合が続くというのはトップリーグが始まって思いましたし、やっぱりいろいろなチームが強化の仕方を変えてきて、全国に行くにはそういうスケジュールに変えなきゃいけませんし、いろいろな面で変化は現れていましたね。
—— 話を聞いていると、辛かったことが多かったみたいですね
僕は『スピリッツ・オブ・サンゴリアス』のインタビューでも最初に話したんですが、辛かったと思っていたのはその時だけで、後から考えると大して辛くなかったんじゃないかなと思うんです。僕だけが辛いと思っていたんじゃないかなと。上手くいかないときは何をやっても上手くいかないと思っていたんですが、後から考えると、ヒントはたくさんあったと気づくことも多いんですよね。今となってはもっといろんないいものが落ちていたんじゃないかなと思います。最終的に言えば、今の自分も今のチームがあるのも、そういう時期を過ごしたからだと思います。
—— やっている時はあまり良かったと感じてはいなかったんですか?
それはそれであります。しっかりとチームはみんなで勝とうとしていたんで、良かったことももちろんありました。1年目がさっき話したような結果で終わったので、このままではやめられないと自分で思ってたし、僕がキャプテンをやると言ったらまわりの方も協力してくれたので、やるしかありませんでした。そんな中でもやっぱり上手くいくところと上手くいかないところがあって、いろんなアタックの仕方などを永友さんが提案してくれて、それが今のサントリーにも活きていることもたくさんありますが、その時は上手くいかないということもありました。
◆もがき倒した
—— キャプテンとして引っ張る立場で、試合に出られない、というのは初めての経験ですか?
そうですね。新人の頃と3、4年目の頃にレギュラーで出ていた時に怪我をしてしばらく試合に出られなかったんですが、スーツで試合を見るというのはあまりなかったですね。
—— そうやって試合に出られない時に気づいたこととかもありましたか?
今では違いますが、その時は自分で何で上手くいかないんだろうとか、何で足が動かないんだろうということばっかり考えてましたね。ただ、そう考えながらも、チームメイトみんなに、そのことを責めれなかったし、それでも一生懸命やってくれていて、それがすごく支えになっていました。
—— 2年目は監督とのコミュニケーションはどうでしたか?
あまり1年目の反省が活かされていなかったですね(笑)。
—— 選手たちとのコミュニケーションはどうでしたか?
特に変えたと言えるほどはとってはないですね。自分が上手くいかず、怪我していて、そういうイライラしたのが出ていたかもしれないですね。監督はその辺の僕の気持ちをすごく考えてくれていたと思います。監督も歯がゆかったと思います。怪我で出られないという仕方がない部分で、割り切りがあまり僕の中ではできていませんでした。
—— チームも早野選手自身ももがいていたという状況ですか?
そうですね。もがき倒しましたね(笑)。
—— 成績はトップリーグもマイクロソフトカップも8位という結果でした
一歩間違えれば入れ替え戦という成績ですね。リーグ戦で9位になっていたら、マイクロソフトカップにも出れませんでした。
◆やっと肩の力が抜けた
—— そういう2年を過ごして、3年目を迎える時の気持ちはどうでしたか?
僕もそうですし、選手みんなそうでしたでしょうけど、当然みんな一生懸命まじめにやって、それで結果がついてこなかったり、上手くいかなかった部分がありましたから、割り切るというか、もともと強かったチームが落ちた典型的な状況ですね。振り返ると、しっかりやってきたと言えるところもたくさんありますが、やれていなかったんじゃないかという部分も見えてきました。ただ、次の年になった時に、僕自身はもう1回協力して、チームの力になりたいと思い頑張りました。そこでやっといろいろな肩の力が抜けたと思います。
—— 今思うといろいろ抱え込みすぎていたんですね
そうですね。僕も監督もチームも、ぜんぶ力んでいたというか、割り切れなかったというか、そういうもがきは僕はありました。みんなもそういうところがあったんじゃないかなと思います。
—— そういう状況の中でも楽しさはありましたか?
もちろんそんな中でも、トヨタに勝ったり、その年は実際7敗しているんですけど、1試合1試合の純粋な勝ち負けは楽しかったし、勝った時は嬉しかったです。逆にいえば、すごくいい練習、すごくいい試合をしていても、両手をあげて喜べないという部分もありました。
—— そういう経験の中から、今のメンバーに伝えられることはありますか?
こういうことがあったというのはみんな知ってると思いますし、わざわざ負けた時のことを面と向かって話す必要はないと思っています。言えるのは、そのときにやった練習とか、取り組んだことは絶対に自分の中に残っているし、当時いたメンバーはそのとき身につけたスキルなどは残ってるので、確実にそのときに身につけたものは無駄にはなってないということですね。
—— 最近のチームの雰囲気はどうですか?
チームの調子がこういう風に上がってきていることはうれしいですね。なにより僕がやるべきことをしっかりやって、役に立てるようにするだけです。
—— 後輩のキャプテンにアドバイスをしたりしますか?
アドバイスというほどではないですが、しっかりコミュニケーションをとって話をしますし、ラグビーのことだけじゃなくて、普通の話をすることも大事だと思います。ただ話をするだけでも、選手それぞれの考えとかも見えてくるんですよね。そういう話の方が大事だったりします。
—— さっきの話にもありましたが、強いチームを超える時には圧倒的に勝たなければいけないという意味では、まだ圧倒的に勝ってないですね
まだ混沌としてますね。それは大悟が常々言っていますが、まだ圧倒的に勝っていないので、まだ伸びしろがあるし、伸びなければいけません。その可能性はすごくあると思います。
—— 当然チームとしては、今年それをやってやろうという感じですね?
もちろんです。トップリーグだけ優勝して、日本選手権を落としたので、やはり喜びきれていないです。圧倒的に勝っておかなければいけない、僕はそういう風に思います。みんなもそうでしょうね。時代を築くのであれば、やはり圧倒的に勝たなければいけませんね。サントリーはそこにみんなで向かっていくようにならなければいけないチームです。去年東芝が苦労したのも、そういう面で僕は何となく分かる気がします。きっとほんのちょっとしたことだと思いますよ。
—— まずは開幕戦に圧倒して勝つことですね
そうですね。それはいちばんのターゲットですね。やっていく中でまたいろいろターゲットは変わってくるので(笑)。この年まで続けているのは罪滅ぼしです。自分にとっての。自分自身も周りも許せばもっとやります。
■サントリー歴代主将 | ■サントリー戦歴 |
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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)
[写真:長尾亜紀]