2008年8月14日
#153 大久保 直弥 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 10代目キャプテン 『ハラハラするくらいの競争をしてチームの信頼が得られていく』
◆失うものは何もない
—— キャプテンを務めた00年から02年までの3年間、"優勝"という文字が目立ちますね
誰がキャプテンをやっても勝ってましたよ。すごく良いチームだったと思います。
—— 具体的にどういうところが良かったんですか?
ベテランはほとんどいませんでしたね。ちょうど世代交代の時期で、初優勝した後の3年間は、どうしても優勝した時の財産や貯蓄で戦っていたような感じでした。僕がキャプテンをやる前年に近鉄に負けてベスト8に残れなかったという悔しい思いをして、今思えばその負けがあったからこそ世代交代が上手く行ったんだと思います。
—— その年にベテランはかなりいなくなったんですか?
バサッといなくなりましたね。清宮さん(克幸)にしても、今泉さん(清)にしても、岡安さん(倫朗)にしても、チームには残っていましたけど、その優勝した時の世代のメンバーに依存しないでチーム作りをして、チームを変えようとしました。
—— 若いメンバーがそのポジションを掴んでいったんですね?
そうですね。平均年齢が25~26歳だったんじゃないでしょうか。キャプテンの僕が3年目で、いちばん上が洋司さん(永友)で20代最後くらいでしたね。次に慎さん(長谷川)ぐらいだったと思います。
—— それだけ世代が集中したメンバー構成は、サンゴリアスの歴史の中でも珍しいんじゃないですか?
そうですね。失うものは何もないという感じでやってましたね。
—— そういう若いメンバーの中でも、さらに若い方だったんですか?
元(申騎)とかザワ(小野澤宏時)が1年目で入ってきた時ですからね。
—— キャプテンに指名されたのは突然ですか?
キャプテンを誰にするという話になった時に、土田さんと僕の同期がいて、僕は怪我で思うようにできなかった坂田さん(正彰)が続けるべきだと思っていたんですが、監督の判断で僕らの年代、当時3年目にレギュラーが揃っていたのもあって、その中で決めるということになりました。
その中で誰にするかという話になって、澄憲(田中)がキャプテンとして大学時代の実績もありましたし、ゆくゆくはというのもあったと思うんですけど、まだ当時は洋司さんの存在もあって、試合に出たり出なかったりだったので、そのつなぎとして、押しつけられたというのが正確なところですね(笑)。
—— それですんなりと引き受けたんですか?
すんなりという感じではないですが、誰かがやらなきゃなぁとは思っていましたからね。危機感はありましたね(笑)。
◆肩に力が入っていた
—— 大学時代にキャプテンはやったんですか?
無いですね。ラグビーを始めたのが大学からですからね。経験もないし、ラグビー理論が構築されているわけでもないですしね。
—— キャプテンになって、意識的にやったことはありますか?
特にそういうことはないですね。理想像もありませんでしたし、監督からも「お前にチームをまとめることは期待していない」と言われてました(笑)。
—— 2年目までと自分の中で変わったことはありましたか?
人間そうそう変われるものじゃないと思っているので、基本的には変わってないと思いますが、肩には力が入っていたでしょうね。練習にしてもゲームにしても。
—— 今までよりチーム全体を広く見る感じですか?
キャプテン1年目は全然そんな余裕はなかったですね。自信がなかったんでしょうね。自信を持って言えることなんて1つもありませんでした。とにかく試合で体を張ってやる、そうやって先頭に立ってタックルに行くとか、そういうことでしか引っ張れませんでしたね。キャプテンとしてゲームを重ねていく中で自分も成長していく部分が多かったです。
—— 試合前のロッカーなどではやはりキャプテンとして話していたんですか?
そりゃ~、しゃべらなくちゃいけませんからね。喋らざるをえませんでしたが、もともとそんなに器用な方じゃないですし、二言三言でしたね。そういう意味ではやっぱり土田さんが最終的に何でもしてくれました。建前的には根性があるとか言われますが、ラグビーはこうじゃなくちゃいけないとか、そういう自分の色は全くありませんでしたね。監督として僕は自分の色に染め易い部分はあったんじゃないでしょうか(笑)。
◆新しいラグビー
—— バイスキャプテンは誰でしたか?
その時はバイスキャプテンはいませんでした。だからキャプテンとして、試合に出なければならないと思っていましたし、チーム内の競争にも勝たなきゃいけないと思ってました。
—— 今振り返って、当時の自身の調子はいかがでしたか?
調子なんて考えてる余裕もありませんでしたよ。調子なんて、悪いと思ったら悪いし、良いと思ったら良いんですよ。それは今も変わらないですね。良いも悪いもないですね。毎試合ベストを尽くして、毎回変わらず力を出すことが大事ですね。
—— そうするためのコツなどはありますか?
特別な気負いもしないし、特にミスしても落ち込まないことじゃないですか。
—— まだラグビーを始めて間もない当時、よくそういう心境でいられましたね
土田監督になるまでのラグビーへの取組みが、スローなラグビーをしていました。大きいフォワードを入れて、あまりボールの動かないラグビーをしていたんですけど、それが変わったということが大きいですね。まずは相手がどうこうというよりも、自分たちのグラウンドで練習してきたラグビーをどれだけやり切るかということでした。新しいラグビーをするにあたって、相当走り込みもしましたし、180度ラグビーが変わりましたね。
—— それがいわゆるオーストラリア式ですか?
オーストラリア式というのか分りませんが、エディー(ジョーンズ)がコーチをしていたブランビーズから輸入してきたラグビーです。その当時から毎年何人か向こうに留学したりするようになって、僕も2年目に3~4か月留学させてもらいました。
—— キャプテン1人でバイスキャプテンがいない状態で新しい取り組みとなると、監督とのコミュニケ―ションは必然的に多くなったんじゃないですか?
コミュニケーションを取る前に、僕はラグビーのことをまだ全然知らなかったですから(笑)、話といっても、「はい、分かりました」と言って5秒で終わる話でした。監督は楽だったでしょうね。
—— そういう状況で、結果は出ましたね
結果というか、実際シーズンが始まるまでは、暗中模索というか、実際にこれで本当に行けるのかという迷いはありましたね。もちろん練習試合に負けることもありました。けれどそういうこと以上にチーム内の競争が激しかったですから、とにかくよく走ってよく練習をしました。
—— 振り返ってみても、一番練習をした頃ですか?
そうでしょうね。今こうしてこの歳までラグビー出来るのも、当時相当走り込んで基礎体力がついたと思うし、やることはとにかく基本プレーをどれだけ徹底させるかということでした。下手くそは下手くそでしたね。
—— 大変だったことは何ですか?
◆ゲームにたどり着くまでがサバイバル
...。何ですかね。とにかく当時は仕事も定時までやって、19時半から練習してましたから、1日1日の練習をやりきることで精いっぱいだった記憶しかないですね。
—— その昔は選手同士が喧嘩をするくらいだったと聞きます
よくしてましたよ。練習の中でですけどね。
—— それだけみんな必死に一生懸命やってたということですか?
そうですね。やっぱりみんなゲームに出たいですからね。また土田さんの練習内容も競争心煽るような練習を抽出してくるので(笑)、1対1とかはバチバチでしたね。それを象徴するのが洋司さんと澄憲でしたよ。あの2人は、お互い負けず嫌いでしたから、走るにしてもお互いに1分1秒でも早く走るように意識してました。
浅田朗と山口大輔もそうでしたね。ゲームにたどり着くまでがサバイバルでした。そういう競争なくしてチームの成長は無いと土田さんも言っていました。1年目のチームのスローガンが「ファイティングスピリット」と「タフネス」でしたからね。この2つがない奴はグラウンドに立てないと言われました。
—— 暗中模索でしたが、成果が出ましたね
本当に1戦1戦積み重ねた結果ですね。練習でいうとディフェンスの練習なんてしませんでしたね。アタックが9割でディフェンス1割くらいの練習でした。自分たちの中で、相手がこうしてきたらこうするという発想はありませんでしたね(笑)。相手にトライを1本取られたら、走って3本取り返そうというラグビーでしたから、毎試合45-40くらいの試合をしていましたね。打撃戦ですね。
もっとこうすれば合理的だとかいうのもあるんですが、理屈でいえば効率的に点を取って、相手に取らせないようにするという方法も今思えばあったのかもしれませんが、それ以上に絶対相手にボールを渡さないというラグビーがチームに浸透して、それを突き詰めてましたね。
—— 見ている方は面白いですね
面白いんですかね。お客さんがどう感じているかを考える余裕なんてありませんでしたね。キャプテンを筆頭に頭の中が単純な人間が揃っていたので、とにかく監督とグラウンドでやってることをしようと突き進んでいました。
—— グラウンドの外では争いやもめごとはなかったんですか?
不思議とありませんでしたね。
◆負けた記憶はない
—— 1年目が終わりそれなりの結果が出て、2年目はすんなりとキャプテン継続という形だったんですか?
土田さんには「有無を言わさず」みたいな感じで言われました(笑)。またバイスキャプテンなしでした。
—— 2年目は新しい取り組みがあったんですか?
1年目もキックを蹴らないというラグビーで勝ち上がって、徐々に自分たちのラグビーにしてきた中で、神戸製鋼に準決勝で負けたんです。神戸製鋼には前の年に70点取られて大敗して、中心選手がピークを迎えていちばん良いチームの状態でした。これからチームを作るにあたっても、打倒神戸製鋼ということでやってました。
その年の準決勝でまた神戸製鋼と当たって、点の取り合いをして、最後ロスタイムに逆転負けしたんですが、その時に僕も土田さんも、前の年に70点取られた相手に惜敗して、もちろん悔しいは悔しかったんですが、多少満足げな表情をしてたらしく、神戸製鋼の選手に「あまり悔しそうじゃないな」と指摘された思い出があります。
そこで初めて惜敗で満足している自分に気付いて、とにかく日本選手権で神戸製鋼に勝とうということで、必ず倒そうと臨んだ日本選手権で引き分けました。そこでも勝てませんでした。ペナルティーを狙うという戦い方をそれまでしていなかったし、初めて日本選手権からゲームの状況に合わせて狙うべき時は狙うようになりました。その判断が、初めてキャプテンとして判断を求められたときでしたね。
その前にも「なんで蹴らないんだ」ということは、外野は言っていたんですが、それはチーム内にしか分からない、ボールを継続するためにどれだけ練習をしているかとかいうことがあって、知らない外野がガヤガヤ言うなという感じでしたね。最後の方は意地になっていた部分もあったかもしれません。
—— その年は同点優勝で、その次の年に神戸の連覇を止めたんですね?
それまでの歴史上、良くても同点で、同点を超えたことは一度もありませんでした。
—— すごく嬉しかったんじゃないですか?
それはもう嬉しかったですよ。神戸製鋼を倒すために日々練習していましたからね。神戸製鋼の選手も7連覇のあとに勝てなくなって、勝利に対する貪欲さとか、ボールに対する執念だとかは神戸製鋼の選手に教えてもらったという部分は大きかったと思います。
—— この年は5冠の年ですが、この年は1回も負けていないんですね
春から考えても、負けた記憶はないですね。優勝した瞬間のことはあまり覚えていなくて、また次の年からチーム内の競争が激しくなって、むしろ大雨の中でスクラムを組んでいたこととか、走っていたことの方が記憶にありますね。
—— 戦い方は変わったんですか?
基本的にはラックにして継続してということでした。1年目は敬介(沢木)がスタンドオフだったんですが、膝の怪我で1年を棒に振ったシーズンでもありましたね
◆意気込みにあふれていた
—— 3年目もかなりいい成績ですね?
結局チャンピオンになった後ですので、立場は挑戦を受ける側でした。そうなってからは苦しかったですね。チャンピオンになると、あとは落ちる道しかありませんからね。相手のマークもきつくなりますしね。
—— そうすると、3年目がいちばん大変でしたか?
そうですね。
—— キャプテンをやっていて良かったなぁと思うことは何ですか?
何でしょうね。いい緊張感で試合に臨めることですかね。
—— ということは、言葉として正しいかどうかはありますが、今の方が楽ですか?
自分のプレーに専念できるという面ではそうですね。キャプテンである以上はチームを勝たせることが第一なので、どうしても自分のことは二の次になりますよね。
—— 今でもゲームキャプテンをやることも時々ありますよね
それなりに時間と経験を重ねてますから、今ゲームキャプテンをやるのと、当時キャプテンとして試合に臨むのではやはり違いますね。当時の2、3年目の選手という若い僕としては、キャプテンとしてはまだまだ欠点だらけでしたね。欠点は多いですが、それ以上に発展途上国のように、まだ未熟でしたが上に上ってやろうという意気込みに溢れていましたね。
—— そうなると、やはりチームに勢いがあったでしょうね
それだけでしたけどね(笑)。みんなそれを生き甲斐に感じていたんでしょうね。
◆優勝して飲むビールは美味い
—— 日本代表になったのは何年ですか?
ワールドカップの年ですから、99年からですね。その翌年にキャプテンになったんです。
—— ニュージーランドに留学に行ったのはいつですか?
キャプテンが終わってから1シーズンしてからですね。2003年のトップリーグ開幕の年は1年間プレーして、2年目のシーズンで行きました。
—— キャプテンを先輩(早野貴大)に引き継ぐという時はどうでしたか?
もう良いかなという感じでした(笑)。もともとやらせてくれと言ってやったわけじゃないですからね。どちらかと言うとキャプテンを辞めてからの、チームの中での自分の居場所が難しく感じました。もともと海外に行ってみたいという気持ちがあったんで、後はタイミングだけだったですから、ちょうど良かったのかもしれませんね。
—— どうしてもやってくれと言われたら、キャプテンを続けていましたか?
サラリーマンだったら、そういう判断もあったかもしれませんが、前の年(2003年)にプロに転向したので、もうどうしようもないという状況でしたね。2003年にワールドカップがあったので、それでそっちに集中するということでプロになりました。
—— 元キャプテンとして、今のチームにメッセージはありますか?
組織って言うのは、常に新陳代謝があって、人が変わってもチームは変わらないので、そういう過去の成功体験に引きずられてもいけないと思うし、やはり目標があって、それに向って自分から向かって行こうという意思がないといけないと思います。
不器用でもいいから、レギュラーになりたいとか、チームで優勝したいといった自己表現が出来ないといけませんね。最近100キャップの表彰がありましたが、メンバーを見てもみんなに共通することは、不器用だということだけですよ。長谷川、坂田、田中、早野、大久保、みんな不器用ですが、何かチームが必要とするものを持てるからこそ、100試合以上ゲームに出てきたんですよね。
澄憲と洋司さんもそうですが、見てるこっちがハラハラするくらいの競争をして、そういう中でチームの信頼が得られていくと思います。そういう意味では今のチームは少し大人しいですね。言えるのは、優勝して飲むビールは美味いということです。やりきったあとのビールは美味い、それくらいじゃないですかね。
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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)