2008年8月 7日
#152 坂田 正彰 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 9代目キャプテン 『後輩に伝わり新しいリーダーが生まれ、その繰り返しがサントリー』
◆キャプテンになってすぐ怪我
—— 永友キャプテンの次のキャプテンですが、誰から指名されたんですか?
誰だったかな...。そう言われてみると思い出せないですね。洋司さん(永友)がその年で終わりということは、前の年に聞いていたんですが、その後、誰かに言われたんでしょうね。
—— 監督は代わったんですか?
監督は僕の時は吉野さん(俊朗)でしたので、代わってますね。
—— キャプテンになったのは、サントリーに入って何年目でしたか?
永友さんが1年目の時に僕が入社したので、5年目の年ですね。
—— 自分の中では「来たな」という感じでしたか?意外でしたか?
洋司さんの時に神戸に勝ったり負けたり色々ありましたので、キャプテンだからどうこうということはあまり感じていませんでしたね。重みは全然感じていなかったです。
—— サントリーの中で見た先輩キャプテンは永友さんだけでしたね
そうですね。清宮さんがちょうどキャプテンをやめられた年に僕が入ったんで、直接見ていません。
—— ある程度、前キャプテンのやり方を真似たんですか?
全然ないですね。洋司さんは洋司さんで、タイプ的に僕と全然違いますから。今の自分と当時の自分は違うので、当時の自分を思い出せないと上手く比べられないですけれど、たぶん全然違いますね。
—— キャプテンを引き受けた時に、どういうことをやろうと思いましたか?
どういうことをやろうというよりも、今まで大学(法政)でそこそこのチームでやって、サントリーに来てサントリーも良くなってきた中での引き継ぎだから、やり方云々よりも、自分がそこにいて、1年間満足する結果を残すためにも、やっぱり自分がちゃんとしなくちゃいけないなと思いました。
キャプテンという立場をもらった以上は、プレーも含めて自分がしっかりしなくちゃいけないなと思いました。先輩もいっぱいて、かなり年の差もありましたが、そういうこともひっくるめて、自分がしっかりしなくちゃいけないなということです。
—— 同期や後輩よりも先輩の方が多かったですか?
そうですね。その頃のサントリーは若い人がキャプテンをやることが多くて、洋司さんも3年目ですし、清宮さんもそれくらいですから、みんな若かったですね。こんなこと言うのも変なんですが、キャプテンの時って全然覚えてないんですよ(笑)。
◆年を越せなかったシーズン
—— 日本代表には既に選ばれていたんですか?
大学4年生の頃から代表には呼ばれていました。大学4年の時に法政のキャプテンをしていて、99年の南アフリカのワールドカップの時の予選に僕は行っていました。代表で僕がいない間に法政が東海大学に負けてしまうということもありました。自分がキャプテンになってあまり良いことないですね(笑)。
—— キャプテンの役割は重かったですか?
重いとか軽いとかではないですね。キャプテンになって、春先に怪我をしてしまって、全く動けなくなってしまったので、とても辛かったです。
—— どこの怪我だったんですか?
膝と前十字靭帯の断裂です。それも大学の4年生の時にキャプテンになって、早野(貴大)が4年生の帝京大学と大学選手権の試合をして、その時に左足の前十字靭帯を切って、阪神大震災があった1月17日に手術をしました。12月の末に怪我をして、4年生最後のシーズンに試合に出られなくて、大学ベスト8で終わっちゃいました。
それで今度はサントリーでキャプテンになった時、右足の前十字靭帯を切りました。キャプテンの時は怪我ばかりですね。
—— 怪我は何月くらいにしたんですか?
春ですね。キャプテンになってすぐです。最初はキャプテンなのでやらないわけには行けないと思って、前十字を手術しないで1年間やろうと思ってトレーニングをしたんですが、やっぱりポジション的にもテーピングだけではきつくて、手術をすることになりました。
◆全然覚えてない
—— 普段の練習の時は外から見ていたんですか?
そうですね、最初は外から見て、それからリハビリをしていました。いま考えたらそれが良かったのかは分かりませんが、自分が怪我をしていてグラウンドに立てないので、引き気味の気持ちで見ていました。あまり外からガーガー言えませんでしたね。手術して、順天堂大学病院に入院している時に、慎さん(長谷川/現コーチ)と澄憲(田中)がバイスキャプテンだったので、「これこれこうなんだけど、どうしたらいい?」と話しに来てくれました。慎さんやキヨには迷惑をかけましたね。慎さんも真面目なので、よく病院にも来てくれていろいろやってくれて、苦労かけたなと思います
—— 怪我したことによって、プレーで引っ張っていくことができなかった訳ですね
大学の時も同じ怪我をして、それもワールドカップの年ですよ。12月に怪我をして、ワールドカップはダメでした。まぁ選ばれていない可能性もありますが。その後社会人になってキャプテンになったらまた怪我で、当時は今ほど復帰も早くなく、1年くらいリハビリしていましたね。「また1年もリハビリしなっくちゃいけない」という個人的な辛さもありましたし、キャプテンとして何にも出来ない辛さもあって、結構慎さんとキヨにお願いしますという部分もありました。
—— キャプテンを代えようかという話はあったんですか?
ありません。実質、慎さんとキヨがバックスとフォワードという形でまとめてくれていました。
—— 前後の年と比べると、成績が悪かったですが、それは責任を感じましたか?
はい。今だから笑い話になりますけどね(笑)。何年か前に大雨の中でファン感謝デーを行ったことがあるんですが、そこで○×クイズをやったんです。そこで「サントリーの歴代キャプテンは10人より多いか少ないか」というクイズがあって、そこで「坂田は入るんですか~?」と言われたことがありました(笑)。それくらい迷惑かけたなという気持ちはありますし、自分自身とても悔しくて、どうしようもできない気持ちでした。
—— グラウンドには行けない中で監督などとコミュニケーションはとっていたんですか?
それはやっていました。けどそれが選手に伝わったかというと、どうしても監督経由だったり、自分で直接伝えられなかったので、良かったのか悪かったのかは分からないですけど、キャプテンとしては少し薄かったんじゃないかなと思います。
—— キャプテンをやって良かったと思うことはありますか?
その年のことは覚えてないんです。怪我したこと、そして慎さんやキヨとあーだこーだとやったこと。それからメンバーもすごく若かったんです。その年の最後の試合で相手は近鉄で、最後の方のプレーでつないでトライで勝ったと思ったら、その前のプレーがスローフォワードで、結局負けて、年を越せなかったシーズンでした。非常に苦しい1年だったからかも知れませんが、あまり記憶にないんです。
—— もう1年キャプテンをやるということはなかったんですか?
なかったですね。自分からもう1年やりたいという気持ちはありませんでした。細かいことは本当に覚えてません。これだけ覚えていないということは、辛かったのか何なのか、無意識ですが、本当に消したい記憶なんでしょうね。
◆あいつは絶対に必要です
—— 次のシーズンは春からプレーできる状態だったんですか?
行ける状態でしたね。
—— チーム自体は練習時間や勤務体制など、永友キャプテン時代とほとんど変わらなかったんですか?
そうですね。
—— 粋の良い1年目の加入でチームの雰囲気は変わりましたか?
そうですね。監督がこうだということに、彼らはしっかり意見を持っていて、その分練習中にぶつかり合いなどもあったと思います。でも僕はそこにいなかったので、その辺の調整をバイスキャプテンがやってくれていました。ただそれで結果が出ませんでした。本来なら怪我が治って、その辛い思いを無くすためにも、もう1年頑張ってってなるんでしょうけど、何ででしょうね。次の年はキャプテンをやりませんでしたね。
—— いつ頃からグラウンドに復帰したんですか?
7か月か8か月はかかりましたね。12月の終わりころに復帰したんですが、その頃にチームはもう負けていました。その後土田さんが監督になって、大久保直弥がキャプテンになりました。直弥が3年目の年ですね。
—— 大久保選手とは法政大学の頃に重なっているんですか?
1年生と4年生ですね。
—— 大久保選手は昔からああいう雰囲気ですか?
ラグビーを始めてからじゃないですか?ずっとバレーをやっていましたからね。大学に来た時は最初はすごく細くて、ウエイト場でバーベルに重りをつけないでやってましたからね(笑)。僕が大学4年生で靭帯を切った時に、1年生と4年生という関係だったのに、あいつは病院まで来てくれて、「坂田さん、大丈夫ですか」と言ってくれたのをすごく覚えています。その後もいろいろ相談はされましたね。あいつはコツコツやってましたね。そして僕は卒業しましたが、2年生から試合に出ていましたね。1年生で頑張って、1年間で監督やコーチに認められたんでしょうね。
—— サントリーに大久保選手が入ってきた時はどうでしたか?
自分が誘いに行きました。「あいつは絶対サントリーに必要です」と稲垣さん(純一/元サンゴリアスシニアディレクター)に言いに行って、直弥も1回会った時に、その場でサントリーに入ることを決めたんです。あいつはそういう男なんです。彼も大学2年から4年までいろんな経験をしたと思います。4年生の時は寮長をやったりもしてました。すごく真面目なんです。怪我しても痛いとか言わないで、首がヘルニアで動かなくても黙ってやるような奴なんです。もともとそういう性格なのかもしれませんが、ラグビーをやって変わったんでしょうね。それからサントリーに入って、メンバーになって、すぐジャパンに選ばれて、ワールドカップに出たんですね。
◆大事な時間
—— 選手として引退して、別の立場でチームに携わることになりましたがどうですか?
ずっと一緒にこのメンバーでやってこれたことは、すごく幸せだったなと思いました。今もグラウンドには行きますが、グラウンドレベルに立って一緒に練習するわけではないので、まだ辞めて半年も経ってないからかもしれませんが、自分も一緒に走りたいなとか、一緒にスクラム組みたいなと思いますね。
—— 辞めてみて、選手時代は楽しかったですか?
楽しかったですよ。すごく大事な時間だったなと思います。
—— 去年優勝して、今年はいろいろな意味でチームを再生している最中ですが、チームへのメッセージはありますか?
要は、自分たちの色をまた作っていくということだけですよね。僕が入った時の永友キャプテンの時のサントリーは、サントリーとしての形とか、みんなの意識とか、チームとしてこういうチームだということを分かっていました。直弥がキャプテンで3回優勝したときも、自分の立場は中堅でしたが、若い選手がすごく頑張って優勝した、そういうカラーがありました。
新しく清宮監督になって去年優勝しました。サントリーの歴史の中でそういうひとつひとつのチームのカラーがあって、今年は監督は同じですが、選手は入れ替わりもありますし、新しい選手も入ってきます。その中で色を出し切れれば魅力あるチームになると思います。魅力あるチームって、一緒に携わってそこにいたいとか、応援したいと思いますよね。
—— そういう魅力を感じるポイントは、何でしょうか?
初めからこういうものを目指そうという、目標や理想はあるんですが、そこへ向けてやっていく過程が大事だと思います。その過程がどういうものなのかによって、最終的にそのチームにいて良かった、苦労して良かったと思えることにつながるんだと思います。
直弥がキャプテンした時に、外から見ていて人一倍しっかりしなくちゃいけないと思ってやっているのが伝わってきたし、練習後も普段の生活も気にしていました。その時に勝ちたいとか言うよりは、絶対このチームは勝つと思いながら最後の優勝の時はやっていまいましたね。あの時はみんなそういう気持ちだったと思います。だから優勝した時はみんなで喜べました。
監督はもちろんですが、キャプテンのカラーは必ずチームに表れますね。洋司さんは俺について来いというタイプでしたし、直弥は多くを語りませんが、プレーをひたむきにやってみんなを引っ張るタイプでした。
—— キャプテン1年目に怪我でプレーできなかった、同じ境遇の山下(大悟)キャプテンにアドバイスはありますか?
アドバイスは何もないです。さっき言ったとおり、自分の思うこと、自分の色を前面に出していってほしいです。それは自分のやりたいことだけれども、チームとしてこういう風に持っていきたいという、大悟なりの考えを持って練習をしたり、話していって欲しいですね。戦術とかの話ではなくて、心とか気持ちの話です。コーチや監督が戦略の部分はしっかり考えてくれますからね。
大悟も頑張ってますよね。あんな怪我したら普通はもう出来ないですよ。プロだからやっていかなくちゃいけないということもあるんでしょうけれど、大学から日本代表に選ばれる選手で、サントリーに入って、ポジション的に苦しい所でしたが、そういう中で怪我してしまい、今年28歳です。
強気な大悟の色を全面的に出して選手を引っ張って行けたら、去年の優勝とは違ったまた違う優勝を味わえると思います。またそういうことが後輩に伝わるんですね。そういう中でまた新しいリーダーが生まれて、その繰り返しがサントリーの良いところだと思います。
■サントリー歴代主将 | ■サントリー戦歴 |
---|---|
2006年~ 2005年~ 2003年~ 2000年~ 1999年 1995年~ 1992年~ 1991年 1989年~ 1987年~ 1985年~ 1982年~ 1980年~ |
|
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)