2008年7月30日
#151 永友 洋司 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 8代目キャプテン『俺たちはここまでやって優勝した』
◆今のチームは僕らの時に似ている
—— キャプテンになられた経緯は?
土田さん(雅人)が監督になられて、最初に打診を頂いた時には、僕は「やりたくない」と答えました。それまで高校日本代表と大学と、ずっとキャプテンをやっていて、チームがあまり良い成績を残せていませんでした。高校日本代表では勝ち越しという結果を残しましたけど、高校では花園を逃してますし、大学4年生の時の大学選手権は獲れていません。そうやってずっとキャプテンをやってきましたが、あまり良い成績を残せていないんです。ただメンバーとしては、ある程度成績を残せていたので、どちらかというと裏方としてチームを支える方が合っているんじゃないかと思っていました。
ですので、土田さんから「キャプテンやらないか?」と言われた時も、「いや~僕がやったら間違いなく勝てないですよ」と話しました。そうしたら土田さんが「ジャンケンだけでいいから」という形で言ってくれました。実際ラグビーではキャプテンの存在は大きく、それだけでは済まないということは分かっていたんですが、最後は誰でも出来ることじゃないですし、非常に光栄なことだなと思って引き受けました。正直キャプテンというものに対して、コンプレックスやトラウマ的な、嫌だなぁというところはありました。
—— チームでは年上が多かったんですか?
そうですね、僕はまだ3年目でしたので、年上の方が多かったですね。でも、そのことに関しては、そんなに気にすることはありませんでした。実際にキャプテンになっても、ベテランの方たちがすごくサポートして下さったので、初めて日本一を取った時なんかは、僕らの世代の人間とベテランがすごく融合して勝ち取ったという感じでした。ちょうど今のチームはそういう感じなんじゃないですか、大悟(山下)を中心に、若い選手も多いですし、大久保(直弥)とか澄憲(田中)とか歴代のキャプテンもいますし、よくまとまってるなという感じが僕はしています。僕らの時に似ているなという気がします。
—— 同期は2人だけだったんですか?
はい、唯一の同期・岡安(倫朗)は、大学時代から一緒にやっていた仲間です。彼のお陰で出来たこともたくさんあります。大学の時にキャプテンをやった時もサポートしてくれましたし、お互い若かったけれどとても気を遣ってサポートしてくれました。
最近でも、僕らは会社で中堅のポジションにあって、お互い「仕事も頑張らなきゃいけないね」と話しあっています。ラグビー部のイメージを少しでも良くすることが出来ればという意識で、彼も僕も仕事をやっています。
—— 新監督と新キャプテンになって、チームは変わりましたか?
僕がキャプテンになった時点では、それまでの2年間しか知りません。それまで清宮さんがリーダーシップを発揮されてやっていましたが、僕らが入った頃に変わり始めたんじゃないですか?話によると、それまでは練習が終わってからお酒を飲んだりしていたそうですからね。僕らが入った頃はもう飲んだりはしてなかったですよ。
—— 練習日や時間は変わったんですか?
僕らの時も変わりませんでしたね。最初は月水金でやってました。
◆ひたすら泥臭いプレー
—— 練習時間はそんなに変わらないまま、社会人大会、日本選手権優勝ですね
先ほども言いましたけど、その年に頑張ったということではなく、それまでの積み重ねがその年に結果として出たんだと思っています。
—— コンプレックスは一掃されましたか?
勝ったのはすごく自信になりましたね。あとは前ヘッドコーチだった本城さん(和彦)や、土田さん、清宮さんが作ってきた土台があったので、僕らがそこで勝てたということをすごく思っています。彼らの熱や情熱が僕らに継がれただけで、僕がキャプテンをやっていなくても、あの勢いだったら優勝していたかもしれないと思います。
あの年は勢いがありました。それから運もありました。その年のシステムで、予選でトヨタに40点くらい取られて負けたんですが、2位グループで上がって神戸製鋼を倒して(引き分け=トライ数で勝利)勢いに乗って、東芝、三洋と倒したんですね。とにかく7連覇中の神戸を止めたという事が、チームにいちばんの勢いを与えましたね。
—— どうして止められたんだと思いますか?
やっぱりスポーツには運がありますから、ボールの転がり方とか、観客とか、レフリーとか、いかに味方につけるかですね。あの時も、最初は"僕らは勝っちゃいけない"という空気だったんです。お客さんは神戸製鋼の8連覇を見に来ていました。逆にサントリーの応援はほとんど社員でした。それが試合の最後の方になると、社員じゃないお客さんたちがサントリーを応援してくれて、それに乗って、いろいろな要素がサントリーに傾いてきたと思います。
—— そういう周りの環境を味方につけるコツは何ですか?
やっぱり練習でやったことしか試合では出せないと思うので、僕らの時は練習は土田さんがリードしてやってくれていましたが、ひたすら泥臭いことをやっていましたね。それからベテランが若手をすごく引っ張ってくれましたので、僕らが刺激を受けてやっていましたね。派手なプレーではなく泥臭いプレーなんですが、観客の方には印象に残っていると思います。そういうのを見ると、お客さんは「サントリー頑張れ」と思ってくれるんだと思います。でもそういうものは出そうと思って出せるものではないので、練習の時から一生懸命やることですね。
◆腹をくくって自分のことは後回し
—— 練習はキャプテンが考えてやっていたんですか?
監督といろいろ話しながらやっていました。僕は言葉でどうこう言うよりも、自分から動いて引っ張っていくタイプだと思うので、そういった姿をチームメイトに見せるということはすごく意識していました。
—— 苦労はありましたか?
いや~、大変ですよ。チームを勝たせることが最優先ですから、自分のプレーに関しては2割か3割くらいしか考えられないですね。でもやって良かったとは思います。ある程度腹をくくって、自分のことは後回しにして、チームのコミュニケーションなどを大事にしました。
—— コミュニケーションで気を遣ったことは何ですか?
とにかく話を聞くことですね。みんないろいろ抱えてましたね。副キャプテンの栗原さん(誠二)が仲を持ってくれて、選手たちのストレスを栗さんが聞いてくれたりしていました。「何でもキャプテンの洋司に言っちゃうと大変だから」ということで、選手たちも気を遣ってくれていたそうです。栗さんと土田さんとはいちばんコミュニケーションをとりました。
—— 嬉しかったことは何ですか?
そうですね...、考えちゃいますね(笑)。う~ん、やっぱり大変なことしかないんじゃないですか(笑)?勝ったことがいちばん嬉しいですね。よく「大変なことは何ですか?」とかも聞かれますが、表現が難しいですよね。やった奴にしか分からないと思うんですよ。だから今の大悟もそうですし、それまでのキャプテンもそうですが、あいつらの苦労も彼ら自身は言わないと思いますし、やった奴にしか分からない、すごく大変なポジションだと思います。
—— プレーヤーとしてはどうですか?
さっきのことと矛盾するように聞こえますが、キャプテンじゃなかったら、ああいうプレーは出来なかったかも知れないなと思うようにしています。
—— チームの過去の栄光の写真などを見ても、"ミスターサントリー"という感じですね
ポジション的においしいだけです(笑)。
◆澄憲は大きな存在
—— 以前、田中澄憲選手にインタビューした時に、「同じポジションの永友さんに練習中に顔を踏まれた」と言っていました
キャプテン最後の年くらいに、澄憲が入ってきたんだと思います。澄憲は明治でもキャプテンやってましたし、サントリーでもキャプテンをやりましたから、彼もすごく大変な苦労をしてきたと思います。僕は当時監督だった吉野さんに、「僕がキャプテンなので、試合には僕を使ってください」と言いました。それだけ僕にとって、彼は大きな存在でした。あいつが入ってこなかったら、僕はここまで長くラグビーを続けてこれたかという疑問もあります。チーム内にライバルが出来たということはとても大きかったですね。
先輩と後輩ですけど、グラウンドの中では容赦しませんでしたね。誰がいちばん嫌だったかと言ったら、その時は澄憲でした。こいつには負けたくないと思っていましたね。あいつには感謝してます。あいつもあいつなりに僕にちょっかい出してきてましたけどね。それで良かったんだと思います。周りの連中はどう見てたんでしょうね。「またやってるよ」とか「そこまでやるか?」と思って見ていたんでしょうね。でも本当にそういう相手がいたということが、すごく大きかったですね。
—— キャプテンをやったことが監督になった時に活きましたか?
キャプテンを選ぶときとかに参考になりました。最初のキャプテンは早野(貴大)で、次に澄憲にやってもらいました。キャプテンをやっていた時にチームスタッフとミーティングをして、チーム作りにかかわったことで、すごく参考になりましたね。
—— トップリーグになってから、サントリーは昨シーズン初めて優勝しました
嬉しかったですね。僕はもう転勤して東京を離れましたけど、試合はずっと見に行ってました。先ほども言いましたが、チームの状態が僕らの時と似ているなというのがあって、若手とベテランが上手く融合していますね。いい感じで機能しているなと思います。これからどんどん、すごくなっていくんじゃないかと思います。
—— 日本選手権の戦いぶりはいろいろと意見がありますが
あれが実力だったんじゃないかと思います。三洋との対戦が3回目でしたしね。2回目は上手く戦えたというところですね。うちの良さを出して相手の良さを消しましたね。3回目は三洋の強さが出ましたし、あれが今のサントリーの実力なんですね。若さも出ましたね。結局は一度もリードを奪えずにノーサイドを迎えました。途中、早い段階で澄憲が出ましたが、あれはいいタイミングだったと思います。それから大悟が一生懸命引っ張ってる姿が印象的でした。
—— サントリーのラグビーカルチャーはどんなイメージですか?
一言でいえば、僕は本当にラグビー部、サントリーという会社に感謝しています。
—— 迷わずサントリーに入ったんですか?
僕は小西さん(義光)にあこがれて入りました。それから仕事とラグビーの両立ということがひとつのポイントだったので、引退後のことを考えても、サントリーでした。カッコ良かったですよ、優勝した時は。胸張って、仕事もやって19時半から練習して、日本一になって。周りからは「サントリーは仕事終わるの遅いから大変だよ」と言われてました。練習が終わってからまた仕事に行ったりもしてましたね。そういうこともあったので、優勝した時はすごく気持ち良かったですね。俺たちはここまでやって優勝したんだという感じでした。
◆優しさは捨てちゃいけない
—— ラグビーを始めたのは?
高校からです。
—— ラグビーにはまった原因は何ですか?
兄貴がラグビーをやっていたんです。初めてラグビーのテストマッチを見たのが、フランス対ジャパンの試合でした。9番は小西さんで、聞いたら宮崎出身だということで、驚きました。僕の中では宮崎と言ったら、東国原知事ではなく、小西義光ですね(笑)。
—— ラグビーをやる前は何かやっていたんですか?
サッカーをしていました。だから蹴るのは得意でした。
—— ラグビーの面白さは何ですか?
やはり僕なんて体が小さいじゃないですか。試合でももちろん狙われます。けれどそういう人たちを倒したり、もともと負けん気が強い方だったので、小さい奴が大きい奴に対してチャレンジできるという魅力がすごくありましたね。高校に入っていきなり試合に出されたんですが、最初のプレーで脳しんとうでしたね。気づいたらベットの上で、「あれ?何でだろう?」という状態でした。
—— しばらくラグビーをして、社会人になって、魅力は変わりましたか?
人という財産ですね。ラグビーを通じてすごく増えました。いろいろな人と友達になれたというのがあります。ノーサイドの精神とか言いますが、お金じゃない財産をたくさん得ました。
—— キャプテンをやる上で大事だと思うことは何ですか?
キャプテンにもタイプはいろいろあると思いますけど、僕は優しさは捨てちゃいけないと思います。冷酷にならなければいけない、クールにならなければいけない、カリスマ性を持たなければいけない、とよく言われますが、そういうのもありだと思いますが、優しさを持っていることが大事だと思います。「優しさが選手や監督を迷わすこともあるんだよ」と言われたこともありますけどね。
◆自分たちで判断する力
—— 今の選手に向けてメッセージをお願いします
まずはひとつ、僕はファンとして期待しています。今年も良い成績を残してくれるんじゃないかと思っています。グラウンドの中で何が起こるか分からない時に、自分たちで判断する力を練習の中で身につけて行って欲しいと思います。日本選手権の反省を活かすという意味でも、あそこで流れを変えられずにずっと同じような戦い方をしていたというのが僕の中で印象にあります。そういうものを練習から意識して身につけて行って欲しいと思います。
実際、練習と試合では全然違いますから難しいと思いますが、練習でやったことしか試合では出来ないと思うので、基本的なプレーがしっかり出来ていれば、いろんな対応が出来ると思います。試合の状況、流れを見ながら、うちの流れじゃない時にどうやってペースをつかんでいくか?選手がグラウンドの中で考えなければいけないことですので、ひとりひとり、どういう風にやって行けば良いのかを、練習から考えてやって行って欲しいと思います。
—— そのコツはどういうところだと思いますか?
ポイントは9番かなと思います。去年の数字を見ても、ボールが止まっている時、セットプレー、スクラム、ラインアウトがうちの強みでしたが、日本選手権でそれが出せませんでした。ということは、ボールが動いている時にも強みを出していかなければならないということです。そういう意味で9番ですね。もともとあるうちの強みを活かしながら、フォワードを使うのかバックスを使うのかという判断は9番の役目になってきますので、9番がポイントになってくるんじゃないかと思います。
■サントリー歴代主将 | ■サントリー戦歴 |
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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)