2008年7月23日
#150 清宮 克幸 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史7代目キャプテン 『土壇場でサントリーの選手は力を出す』
◆キャプテンをやらせてほしい
—— キャプテンには自分から志願してなったんですか?
そうですね。2年間も、練習終わったらビール飲んで、夏合宿でもビール飲んでという、非常に楽しいエンジョイクラブになっていたので(笑)、「そろそろ本気で日本一になろうよ」と声を挙げまして、キャプテンをやらせてほしいと言いました。
—— 優勝しても、練習後や合宿で飲むという伝統はなくならなかったんですか?
全然なくならなかったですね。当時の社会人のラグビー自体、そういうレベルだったということですよ。練習は1時間半くらいしかやらないし、グラウンドに来る選手は25人位しかいないし、みんな仕事仕事で、休んでましたからね。
—— 当時、清宮キャプテンも営業だったんですか?
いえ、僕は当時は総務でした。だから時間通りに練習に行けました。19時半から練習でしたが、営業で夜の仕事がある人たちは、グラウンドに週に2回くらいしか来ていなかったと思います。当時は強制力もそんなになくて、時間は自分で作れ、みたいなところもあって、そういう中でも「この日はみんなで来ましょうよ」という日もあったんですが、それでも週に3日くらいでした。
僕が当時いちばん大きな過ちを犯したのは、せっかくみんなが集まっている日なんだからということで、ラグビーをちゃんとやろうと、スクラムを組んだり、ラインアウトを組んだり、ブレイクダウンの練習をやったり、コンタクトプレーがサントリーは全然できていなかったので、集まった時はそういうことばっかりやっていました。それで週に3日休みがあったので、「3日のうち、2日はこういうメニューで走りましょう、走ってください」というものを出して、「フィットネスは個人の責任」のようなカッコイイことを言ったんです(笑)。
いま考えたら、そんなの出来る訳がないんですけどね。当時僕は中野島の寮に住んでいて、中野島の寮生は、僕とか今駒(憲二)、武山(哲也)とかでしたが、近い世代の人は仕事から帰ってきて、夜遅い時間に多摩川沿いの土手とかをしっかり走っていました。僕も当然走っていましたし、みんなやっているだろうと思ってました。
先輩たちに「やってますか?」と聞いても、「お~、やってるやってる」と答えていたんですが、全然やっていませんでしたね。そうしたら、まったく走れないチームになってしまいましたね。ボールの争奪をテーマに、ボールを奪われないチームを目指してたんですが、そこに全然たどりつかないチームになってしまいました(笑)。
それから世代が大きく離れていたこともありましたね。僕は下から5番目くらいでした。結局下で若い奴らが声上げて頑張っていても、先輩たちが言うことを聞いてくれないんですよ。それは世の常ですよね。後輩に何かしてくれと言われても、聞かないんだなぁと感じました。組織として、やはりベテランにはベテランのリーダーが必要なんだと思いました。
◆熊谷ラグビー場Bグラウンド
—— バイスキャプテンはいたんですか?
駒さん(今駒)だったかなぁ。2つ上ですね。まだ若い方でした。
—— 早稲田でのキャプテンとは違いましたか?
学生は全員来ますし、毎日練習がありますから、全然違いますね。ですからサントリーで自ら手を挙げてキャプテンをやってみたら、学生の時と全然違って、「ざまあみろ」と思ってた奴もいたでしょうね(笑)。シーズンもひどい成績で終わって、いちばん覚えているのは入れ替え戦ですね。
相手は東京ガスで、熊谷ラグビー場でした。しかもBグラウンド。もうモチベーションも何もなくて、熊谷ラグビー場にみんなでフワーっと「だりいなぁ」なんて言いながら行って、Aグラウンドに入ろうとしたら、係員の人に「お~い、入っちゃダメだよ」と言われて、「え~?僕ら今日ここで試合ですよ」と言ったら、「あ~君たちここじゃないから、奥だから」と言われて追い出されました。しかもAグラウンドは他で使っているわけでもなく、空いていたんですよ。
結局奥のBグラウンドで、観客席も50席位しかないところに追いやられました。「2度と熊谷ラグビー場に来るか!」とみんな文句を言ってたら、試合が始まり、その日はすごい風が吹いていました。僕の同級生や大学の仲間が東京ガスにもいたりしたんで、大勢応援に来ていました。当然みんな東京ガスの応援です。サントリーとの実力差は歴然でしたからね。
しかし、実際試合が始まると、サントリーは風上にもかかわらず、全然点が取れないんです。そこから後半の残り10分くらいまで負けている状況が続いて、東京ガスも後半からはパスは回さず、とにかくキックで深くまで蹴ってきました。これはもしかしたら、みたいな雰囲気になってきて、応援に来ていた同期の友達も途中までは東京ガスを応援してたんだけど、実際にサントリーが降格したらマズイなって思ったみたいで、途中からすごく緊張感が出てきたみたいです。
東京ガスのスタンドオフは守屋(泰宏)という僕の後輩で、後半初めてパスを投げたんです。そのパスが1バウンドになって、こぼれ球を吹田(長生)が拾ってトライしたんです。チャンスは本当にその時の1回だけで、その時も守屋がパスじゃなくて蹴っていたらまたドロップアウトで、負けていたんじゃないかなと思います。負けていたら、次の年に入ってきた永友(洋司)たちは、2部リーグから始めることになってたんですね(笑)。
—— 勝った喜びよりも危なかったなという感じでしたか?
「ヤバかったな~」という感じですよね。今でこそ笑い話ですけどね。
—— それで考え方を変えたんですか?
そうですね。いろいろ考えなくちゃいけないことを気付かされたし、最初の一歩になりましたね。貴重な1年でした。
—— キャプテンとして、自分のプレー自体はどうでしたか?
多分チームの中でいちばん良かったんじゃないかなと思います。僕はちゃんと走ってましたからね。
◆外部スタッフを招いた
—— キャプテン2年目を迎えて、それまでと変えたことは何ですか?
外部スタッフを呼びました。フィットネスコーチに宝田雄大という早稲田の先輩を招いて、フィットネスに着手しましたね。ボールがあるところにたどり着いていませんでしたからね(笑)。そういう外部のコーチを招くっていうこと自体、当時は先駆けだったと思います。サントリーには以前からいましたが、当時トレーナーがいるチームもまだ少なかったですね。
—— 2年目のシーズンはどうだったんですか?
最後にワールドに負けました。東日本社会人リーグ2位ですね。全国社会人大会はベスト8でした。すごく悔しい負け方でしたね。
そしてキャプテン最後の3年目は神戸に負けました。当時、神戸は6連覇中でした。後半残り10分でいったんサントリーがリード、秩父宮は満員でした。僕が裏にチョンパン(チョンとパントキック)を蹴って、それを尾関(弘樹)が取ってトライして逆転しました。「うゎ~」と盛り上がった次のキックオフで、相手が蹴ったボールをお見合いしてしまって、ポテンと落ちてコロコロ転がったボールに両チームの選手が跳び込んだら、サントリーのペナルティーを取られ、ショットで逆転。たった2分のリードでした(笑)。勝負の綾とはそういうもんですね。
—— キャプテンを譲ろうと思ったのは、どういうきっかけですか?
最初から3年で終わるつもりだったんです。3年たったらやめると思っていたので、特に考えなかったですね。次の年には監督として土田(雅人)さんが来ることになっていたので、次のキャプテンは土田さんが選びました。
—— キャプテンをやっていて大変だったのは、やはり1年目ですか?
振り返ってみると、1年目は若さも露呈して結果が出ませんでしたけど、2年目のシーズンはそこそこ手応えもつかんで「行けるな」という感覚はありました。大変だったことと言うと・・・、大変でもなかったんですけど、嫌な思いをしたことはありました。3年目のシーズンも当然自分がキャプテンのつもりでいて、他にも誰もいなかったんですけど、僕が若かった部分もあったんですが、監督のガン(山本巌)さんとケンカしました。
僕はもちろん3年目もキャプテンをやるつもりで、いろいろ準備していたら、「誰がキャプテンお前だって決めたんだ?」と言われて、「は?」という感じでした。「お前がキャプテンかどうかは、俺が決めることだ」と言われ、ケンカになってしまいました(笑)。当時浜さん(浜本剛志)とか稲垣さん(純一)もいましたし、土田さんもいて、「まぁまぁ清宮」と抑えられました。赤坂のラランジェというお店でしたね。「あんたがいるからサントリーは強くなれないんだ」と言った記憶があります(笑)。
—— 土田キャプテン時代に土田さんも監督に「全部僕がやるんで黙って見ていてください」と言っていたそうです
土田さんはそのやり方で結果を出しましたからね。僕はガンさんと早稲田の先輩と後輩という中ですし、ぶつかることはないなと思っていたんですが、ぶつかってしまいましたね。土田さんはそういうところをうまくやるんですよね。ぼくは「そんなこと、グラウンドに1日も来ない人に言われたくないよ」という感じでした。
別にガンさんと僕の仲が悪いわけではないですよ。お互いにサンゴリアスを愛していましたし、ガンさんの言い分は、「そんな簡単に決めるとじゃないんだ」ということだったと思います。若いキャプテンはそんなこと言われたら頭に来ちゃいますよね。僕ももうちょっと歳をとっていたら、上手くぶつからずにやっていたかも知れません。
—— 監督は他のキャプテンを考えていたという、あるいは少し頭を冷やさせようとしていたことも考えられそうですね?
あったかもしれませんね。そしたらただの逆ギレですよね(笑)。でも僕がいちばん覚えているのは、間に入った土田さん、浜本さん、稲垣さんが間に入って、「まぁまぁ、やめようやめよう」ってなだめているシーンですね(笑)。いろいろお世話かけたなと思います。それが3年目のキャプテンの始まりです。
◆昔はクラブ活動の延長
佐治敬三社長が突然、東芝との練習試合に現れました。何年振りかで勝ったんですが、汗だくの選手たちにハグされて、「服が汚れるからやめてください」「かまへん」というやりとりがありました。とても印象的な出来事で、その時に撮った写真です。
—— 3年目はどうでしたか?
当時6連覇中の神戸に一瞬でもリードするところまで行きましたからね。それなりに成果は出た年だと思います。ラグビー界に、「やっぱり神戸を負かすのはサントリーだ」ということを思わせたと思います。それで翌年サントリーが神戸に引き分けて、トライ数で勝ちましたね。
—— キャプテンを辞めてからはどうでしたか?
チームを外から見ようという気持ちでしたね。土田さんがチームを変えるのに永友(洋司)を選んだんです。
—— 今のチームと当時とどこがいちばん違うと思いますか?
ポテンシャルがいちばん違うと思います。体力、運動能力ですね。それはサントリーだけではなく、どこのチームも同じだと思います。この10年で日本のラグビーは遥かに進歩していますね。
—— 環境も違いますか?
全然違います。昔はクラブ活動の延長で、好きなことをやらせて頂いてありがとうございます、という感じでした。大学生より練習時間も短かったです。劇的に変わったのはトップリーグが開幕してからですね。どのチームも仕事の時間に制限を設けました。それまでは、例えば東芝なら17時まで仕事でその後練習でしたね。
—— キャプテンをやっていちばん得たものは何ですか?
...何でしょうね。部員同士仲良かったですし、人間関係でもめるような話もなかったですけど、キャプテンをやって3年間でいちばん感じたのは、"土壇場でサントリーの選手は普段出せない力を出す"ということですね。
負けたら終わりという試合に、すごくいい動きをしますね。これをシーズンの最初から出来ればすごいチームになるなと1年目から感じていました。でも逆に絶対そうはならないんです。トーナメントに入って集中できるのは、環境が変わるからです。トーナメントに入ると仕事も休ませてもらえますが、シーズン中は仕事をしながら戦うというのがサントリーの美学でもあるとみんな言ってました。
トーナメントに入ると、チーム全体で合宿に入るので、短期間ですごく変わります。負けたら終わりということで、1年間できなかったことが出来るようになるんです。それが印象に残ってますね。
僕がキャプテンを辞めた翌シーズンは、全国大会に入って完敗しました。トヨタに50点くらい取られました。その年はトーナメントではなく、リーグ戦方式だったので、大敗しても他の試合できっちり勝って、サントリーは次に進むことができました。それが例年のシステムだったら終わりでしたね。
—— 監督としてではなく、元キャプテンとして今の選手にメッセージをお願いします
昔よりそれぞれの責任が明確になっていると思います。戦略に関しては監督の僕にありますし、チームを動かしていくのはキャプテンですし、個人個人が自分の役割をきちんと果たしてくれればいいと思います。意見が違ったり考えが違うこともあると思いますが、そういう時は言いたいことを言っあって、そういう事が出来るチームが熱いチームだと思います。遊ぶ時は遊んで、やる時はやる、そういうチームになってほしいですね。
—— 現キャプテンはどうですか?
1年目は試合に出られませんでしたし、去年も半分ですから、今年が勝負ですね。頑張ってほしいです。
■サントリー歴代主将 | ■サントリー戦歴 |
---|---|
2006年~ 2005年~ 2003年~ 2000年~ 1999年 1995年~ 1992年~ 1991年 1989年~ 1987年~ 1985年~ 1982年~ 1980年~ |
|
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)