2008年7月16日
#149 甲野 晃弘 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 6代目キャプテン 『個人個人がプロフェッショナル』
◆勝ち運がある奴
—— 土田雅人 現GMがキャプテンを2年務め優勝し、チームのレベルが一段上がったとあとの引き継ぎでしたが、引き受けるまでの経緯はどのような流れだったんですか?
私は土田と同じ歳なんです。普通同い年の奴を次のキャプテンにはしないですよね(笑)。僕も全然意識していなくて、たぶん栗原(誠二)とか村井(成人)とか、あの辺がやるんだろうなぁと思っていました。そしたら突然土田がやって来て、土田が言うには、「キャプテンは"勝ち運"がある奴じゃないとダメだ、優勝経験があるのが大事だ」ということで、栗原とか村井は準優勝の経験しかなく、僕は高校時代に目黒高校で、花園で優勝経験があったので、私になったみたいです。最初私は断って、栗原説、村井説も浮上したそうですが、やはり私に、ということだったので、もう断る理由はないと思い、引き受けました。
—— 最初に言われてから、受けることにするまで、どのくらいの時間があったのですか?
1週間くらいです。2、3日だったかもしれませんが、その場ではすぐに引き受けず、「ちょっと考えさせてくれ」と言って考えました。あまりに突然でしたからね。
—— 土田キャプテン時代には、何か補佐的な役はやっていたんですか?
いや、全くそういった役職はなかったですね。普通の1選手でした。
—— サントリーに入る前、高校や大学でのキャプテン歴はあったんですか?
高校の時はキャプテンはしませんでしたが、中央大学では4年の時にキャプテンをやりました。ただ、サントリーは強いチームでしたし、本当に自分でキャプテンが出来るのかという不安はありました。それに結構みんな我がままでしたから(笑)。
—— お山の大将のような選手がたくさんいたということですか?
そうですね。各大学のエース級が集まって来ましたからね。もちろんキャプテン経験者もたくさんいました。そんな中でどうやってまとめて行けばいいんだろう、というのは正直ありました。
—— どちらかというと、同い年の土田キャプテンのやり方を継承したんですか?それとも独自のやり方を取り入れましたか?
基本的には継承しましたね。土田がやっていたことをとにかく続けて行こうという形でやりました。例えば合宿とかでも、菅平とは別に、山中湖にスクラムを組むだけの合宿にフォワードで行ったり、練習内容も基本的にあまり長くやらずに、短い時間で集中してやっていました。
—— 土田GMにインタビューした時は、練習になかなか集まらないのを集めたり、練習の中で競争心を持たせることを、監督から全権を渡されてやっていたそうですが、甲野キャプテン時代はどうでしたか?
私の頃は山本巌さんが監督で、監督自身は私に全権を委ねてくれましたけど、バックスの方は分からなかったので、逆にお願いしていましたね。
—— 土田キャプテン時代よりは、監督はグラウンドに来てたんですか?
来てましたね。練習内容は僕が考えてやっていましたが、練習の中での個人指導はやってくれました。
◆同期のサポート
—— キャプテンは1年間だけということで頼まれたんですか?
特に年数については話していなかったですね。実際2年目になる時、来年もお願いしていいかという話もありました。けど1年で勘弁してくれという話をして、清宮(克幸/現監督)とか今駒(憲二)が伸びてきていたので、まだ少し若かったんですが、もう清宮にやらせてもいいんじゃないかという話をしました。
清宮は独自の視点も持っていましたし、当時から既に良い素質を持っていたので、僕がまだキャプテンをやって、清宮がぶつぶつ言いながらやるより(笑)、先輩には言いづらいこともあるだろうけど、あまりそういうことも気にしない奴でしたから、清宮にキャプテンを継ぎました。
—— 清宮現監督とは練習中にぶつかりあったりしたんですか?
ぶつかり合ったというよりは、練習が終わってからもっとこうしよう、あぁしようという話をたくさんしました。
—— キャプテンで苦労したことは何ですか?
自分のプレーが出来ないことですね。周りのことばかり見ちゃって、試合をしてても、何か納得いかなかったですね。気ばっかり使ってしまってました。
—— 逆に、良かったことは何ですか?
同期の上杉(法靖)とか武田(三郎)とか、1軍と2軍の間を行ったり来たりしている奴らが、しっかりサポートしてくれたことですね。同期や1つ下の村井とか山本(俊嗣)が、僕がキャプテンをやるなんてことは驚くべきことだったんで、しっかりサポートしてくれましたね。
—— 1回優勝した後、しばらく苦労しましたね
そうですね。1度優勝してから次負けて、その次も負けて、その次に僕がキャプテンになったんです。選手を見ても、あまり目新しい選手が入ってこなかった年で、戦力的には少しずつ下がっていた時だったんじゃないかと思います。ちょうど僕がキャプテンになった年に、練習生としてカナダ人選手が入ってきたりしたんです。彼がサントリーに来た初めての外国人選手でした。
—— 練習の時間はそれまでと変わらなかったんですか?
そうですね。
—— メンバーはどれくらいいたんですか?
当時はギリギリ30人位だったんじゃないかなと思います。スタッフもあまりいませんでしたね。
—— キャプテンを辞めてからはどれくらいプレーされたんですか?
3年か4年やりましたね。もうあまり試合にも出してもらえる歳じゃなかったんですが、出してもらった時はハッスルしてました(笑)。
—— 後輩の清宮キャプテンになってから、チームの課題などは見えていたんですか?
そうですね。どちらかというと個々のプレーじゃなくて、組織プレーでしっかり点を取るための取り組みと、陣地をいかに稼ぐかということを重点的にやってきました。
◆番狂わせがある試合
—— ラグビーはいつから始めたんですか?
高校からです。きっかけは、もともとは野球部を希望していたんですが、中学の時にテレビでラグビーを見ました。東京都の決勝で、国学院久我山と早稲田学院の試合で、下馬評とは反対で、早稲田学院が勝って花園に行きました。
それで番狂わせがある試合って面白いなと思いました。ハンドボールをやっていた時期があったんですが、ハンドボールもラグビーも体をぶつけるスポーツだし、ちょっとやってみようかなと思ったんです。それで中学校の体育の先生に相談したら、目黒高校に知り合いの先生がいるから一度練習を見に行くかと言われ、12月頃に行ったら、次の日から練習に参加しろと言われ、それから土日はずっと行きました。
—— 背は高かったんですか?
184cmで、今と同じです。もっと細かったですけどね。最初は全然ついて行けませんでした。
—— 辞めようとは思わなかったですか?
僕はありませんでしたが、何人か辞めたと言いだす奴がいました。すると監督が「部員全員で走って迎えに行け」と言って、北千住まで行って、家の前で「○○君、辞めないで一緒にやろうよ」と言いに行きました(笑)。4時間か5時間は走りましたね。
結局彼は帰り一緒に走ってグラウンドまで帰ってきました。彼の親が「あんた行きなさい」って言って突き出した感じでした。家の人はラグビー部員が大勢来て何かと思ったでしょうね。目黒高校はなにかとそうやって走っていました。
普段は久我山と一緒に練習していたんですが、雨で久我山の生徒が来ないと、久我山まで走って行くんです。「練習試合やろうよ」と迎えに行かされました。久我山までは1時間かからないくらいで行ける距離だったんで、まだ良かったですね。監督は梅木監督という、そういう面白い名物監督でした。
—— それだけ走れば、体力面は全く心配なかったんじゃないですか?
そうですね。高校の時の体力はすごかったですよ。
—— 逆に高校でラグビーを初めてやった時はかなりきつかったんじゃないですか?
本当にきつかったですね。身長はありましたが、体も全然できていなかったんで、毎日足がつって、最初は全然面白くなかったですね。辞めたい辞めたいと思っても、どうせ迎えが来るので辞められませんでしたね。
—— いつ頃からラグビーが楽しくなり始めたんですか?
1年生の夏過ぎくらいから、久我山と1年生同士で試合をするんです。やっぱり試合が出来るようになってくると楽しいですよね。自分がトライしたりボール持って走ったりできるようになってくると楽しいですし、勝つと嬉しいし、負けると悔しい、そういうところですね。
—— チームは強かったんですか?
強かったですね。3年間花園に行きましたし、2年の時は優勝しました。
◆試合に出ることが楽しかった
—— 大学は中央大学ですね
はい。もともとは明治に行きたかったんですが、明治で2軍3軍で過ごして、4年生になってやっと1軍で出られるというよりも、1年生から試合に出たいという気持ちがあって、中央にしました。
—— その頃になると、ラグビーの楽しさはまた少し変わりましたか?
同じですね。とにかく試合に出ることが楽しかったですね。
—— 中央大学のラグビー部はどうだったんですか?
毎年リーグ戦で4位で、交流戦で負けるという感じでしたね。
—— 4年生でキャプテンをやった年はどうでしたか?
4年の時もやはりリーグは4位で、交流戦で慶應と当たって、26-13で接戦でしたが負けて、シーズン終了でした。慶應はその年、優勝しました。その後1年留年してから、サントリーに入りました。単純に単位が取りきれなかったんです。
山本巌さんはサントリーに取ってくれると言っていたんですが、卒業できないとなった時、待ってくれるかは分からなかったので、「また1から就職活動やり直しかな」という話をしたら、「もう1年待つよ」と言ってくれたんで、もう1年ラグビーしなくちゃダメだなとなって、春はやらなかったんですが、5年生の夏からもう一度始めました。
—— 中央大学卒業生としてサントリーで主将を務めるのは初代ですね?
そうですね。長谷川慎、小野澤宏時と後に良い選手が入りましたけどね。もともと高校ジャパンの監督が山本巌さんで、その時からの縁でキャプテンになったというところもあります。
—— サントリーに入ってからはどうでしたか?
86年に入りましたが、有名選手ばかりでしたね。入社は土田の1個下になります。小西(敏補)さんがキャプテンの時です。小西さん、すごく怖かったですよ(笑)。
—— 高校、大学とやってきたラグビー部とは全然違う雰囲気でしたか?
夜の練習ということに最初はびっくりしました。仕事して疲れてクタクタになってからの練習でしたから、最初は体がノリませんでしたね。全然慣れませんでした。仕事が終わってから夜に練習があるということは知っていて、それも覚悟の上で入社したんですが、最初は本当にきつかったですね。練習が終わってまた仕事に戻る人もいて、それを見てすごいなぁと思っていました。
—— チームの雰囲気はどうでしたか?
先輩が後輩をすごく大事にしてくれているという感じでしたね。
◆勝ち運がある奴
—— 土田雅人 現GMがキャプテンを2年務め優勝し、チームのレベルが一段上がったとあとの引き継ぎでしたが、引き受けるまでの経緯はどのような流れだったんですか?
私は土田と同じ歳なんです。普通同い年の奴を次のキャプテンにはしないですよね(笑)。僕も全然意識していなくて、たぶん栗原(誠二)とか村井(成人)とか、あの辺がやるんだろうなぁと思っていました。そしたら突然土田がやって来て、土田が言うには、「キャプテンは"勝ち運"がある奴じゃないとダメだ、優勝経験があるのが大事だ」ということで、栗原とか村井は準優勝の経験しかなく、僕は高校時代に目黒高校で、花園で優勝経験があったので、私になったみたいです。最初私は断って、栗原説、村井説も浮上したそうですが、やはり私に、ということだったので、もう断る理由はないと思い、引き受けました。
—— 最初に言われてから、受けることにするまで、どのくらいの時間があったのですか?
1週間くらいです。2、3日だったかもしれませんが、その場ではすぐに引き受けず、「ちょっと考えさせてくれ」と言って考えました。あまりに突然でしたからね。
—— 土田キャプテン時代には、何か補佐的な役はやっていたんですか?
いや、全くそういった役職はなかったですね。普通の1選手でした。
—— サントリーに入る前、高校や大学でのキャプテン歴はあったんですか?
高校の時はキャプテンはしませんでしたが、中央大学では4年の時にキャプテンをやりました。ただ、サントリーは強いチームでしたし、本当に自分でキャプテンが出来るのかという不安はありました。それに結構みんな我がままでしたから(笑)。
—— お山の大将のような選手がたくさんいたということですか?
そうですね。各大学のエース級が集まって来ましたからね。もちろんキャプテン経験者もたくさんいました。そんな中でどうやってまとめて行けばいいんだろう、というのは正直ありました。
—— どちらかというと、同い年の土田キャプテンのやり方を継承したんですか?それとも独自のやり方を取り入れましたか?
基本的には継承しましたね。土田がやっていたことをとにかく続けて行こうという形でやりました。例えば合宿とかでも、菅平とは別に、山中湖にスクラムを組むだけの合宿にフォワードで行ったり、練習内容も基本的にあまり長くやらずに、短い時間で集中してやっていました。
—— 土田GMにインタビューした時は、練習になかなか集まらないのを集めたり、練習の中で競争心を持たせることを、監督から全権を渡されてやっていたそうですが、甲野キャプテン時代はどうでしたか?
私の頃は山本巌さんが監督で、監督自身は私に全権を委ねてくれましたけど、バックスの方は分からなかったので、逆にお願いしていましたね。
—— 土田キャプテン時代よりは、監督はグラウンドに来てたんですか?
来てましたね。練習内容は僕が考えてやっていましたが、練習の中での個人指導はやってくれました。
◆同期のサポート
—— キャプテンは1年間だけということで頼まれたんですか?
特に年数については話していなかったですね。実際2年目になる時、来年もお願いしていいかという話もありました。けど1年で勘弁してくれという話をして、清宮(克幸/現監督)とか今駒(憲二)が伸びてきていたので、まだ少し若かったんですが、もう清宮にやらせてもいいんじゃないかという話をしました。
清宮は独自の視点も持っていましたし、当時から既に良い素質を持っていたので、僕がまだキャプテンをやって、清宮がぶつぶつ言いながらやるより(笑)、先輩には言いづらいこともあるだろうけど、あまりそういうことも気にしない奴でしたから、清宮にキャプテンを継ぎました。
—— 清宮現監督とは練習中にぶつかりあったりしたんですか?
ぶつかり合ったというよりは、練習が終わってからもっとこうしよう、あぁしようという話をたくさんしました。
—— キャプテンで苦労したことは何ですか?
自分のプレーが出来ないことですね。周りのことばかり見ちゃって、試合をしてても、何か納得いかなかったですね。気ばっかり使ってしまってました。
—— 逆に、良かったことは何ですか?
同期の上杉(法靖)とか武田(三郎)とか、1軍と2軍の間を行ったり来たりしている奴らが、しっかりサポートしてくれたことですね。同期や1つ下の村井とか山本(俊嗣)が、僕がキャプテンをやるなんてことは驚くべきことだったんで、しっかりサポートしてくれましたね。
—— 1回優勝した後、しばらく苦労しましたね
そうですね。1度優勝してから次負けて、その次も負けて、その次に僕がキャプテンになったんです。選手を見ても、あまり目新しい選手が入ってこなかった年で、戦力的には少しずつ下がっていた時だったんじゃないかと思います。ちょうど僕がキャプテンになった年に、練習生としてカナダ人選手が入ってきたりしたんです。彼がサントリーに来た初めての外国人選手でした。
—— 練習の時間はそれまでと変わらなかったんですか?
そうですね。
—— メンバーはどれくらいいたんですか?
当時はギリギリ30人位だったんじゃないかなと思います。スタッフもあまりいませんでしたね。
—— キャプテンを辞めてからはどれくらいプレーされたんですか?
3年か4年やりましたね。もうあまり試合にも出してもらえる歳じゃなかったんですが、出してもらった時はハッスルしてました(笑)。
—— 後輩の清宮キャプテンになってから、チームの課題などは見えていたんですか?
そうですね。どちらかというと個々のプレーじゃなくて、組織プレーでしっかり点を取るための取り組みと、陣地をいかに稼ぐかということを重点的にやってきました。
◆前の日に酒盛り
—— 社会人になる時、サントリーにすぐ決めたんですか?
サントリーには行きたいと思っていて、他のチームからの誘いも来てたんですが、サントリーは最後に来てくれました。どうしようかと思っていたところだったので、最終的にサントリーに誘っていただいて、安心してサントリーに決めました。
—— サントリーが良いと思っていた理由は何ですか?
仕事とラグビーの両立が出来るということと、山本巌さんがいたということですね。
—— もともと社会人でもラグビーはやろうと思っていたんですか?
やろうと思っていました。あちこちチームも見に行かせてもらっていました。
—— サントリーに入ってキャプテンになるまで5年、キャプテンを1年やって、その後3、4年ということで、10年弱ラグビーをされましたが、最も印象的な出来事は何ですか?
やっぱり土田がキャプテンになって、ポンポンポンと勝って、当時の東日本リーグを優勝したというのが、「やれば出来るじゃん!」ということで、勢いに乗りましたね。あの年はいつも試合の前の日に「明日頑張ろうね」と言って、酒盛りをしていたんです。それでトントンと勝って行ったんで、すごく上手く行ったなぁという年でした。2日酔いにならないようにしていましたけど、相当飲んでましたね(笑)。
—— 本当はあまり良くないですよね?
良くないですね(笑)。今じゃ有り得ないですね。でも何でしょう、そういう周りのノリの良さというか、チームが一丸となってやっているという感じがしてすごく良かったですね。
—— 土田GMがそうしていたなんて、想像もつかないですね
土田が先陣を切って飲んでましたよ(笑)。だんだんそれが縁起担ぎになってきて、辞められなくなっちゃったんですね。
—— 当時の会社の方の応援はどうでしたか?
すごくたくさん来てくれていましたね。少し低迷していた時は全然社員の方を会場で見ませんでしたが、それを考えても当時は結構来てくれていましたね。土田のキャプテンシーもすごかったですからね。相手チームの研究も然り、どういう対策を取るかなども明確に示してくれました。
—— キャプテンを継いだ時、どういうことを意識されていたんですか?
見習う部分が多かったですね。土田もまだ現役で残ってましたから、いろいろアドバイスをもらいながらやってました。でも「勝ち続けるのは難しい」と土田も言っていました。負けて終わった年だったんで、今年はなんとしても勝ちたいと意気込んでいました。
◆優勝の喜び
—— ラグビーの最大の魅力はなんだと思いますか?
ゲーム中の魅力というのは、やはり相手を1発でガツンと倒してボールを奪った時ですかね。ボールを持ってどんどん当たっていくプレーというよりも、タックルに行って倒して奪うプレーの方が好きですね。快感です。こういうプレーがルールの中で正当に出来るというところじゃないですか。
—— 他にもありますか?
優勝した時の喜びですね。あれは絶対に他では味わえないですよね。一緒に苦しんだメンバーは一生付き合える仲間でもあります。
—— そうなると、やはり勝たないとだめですね
勝つ喜びがあると無いとでは全然違いますね。
—— 昨シーズンは久々に優勝しましたが、試合は見ていましたか?
もちろん見ていました。勢いがありましたね。「今年は行くんじゃないかな」という空気が最初からありましたね。
—— 06-07シーズンと比べても違いを感じましたか?
昨シーズンは失点が少なかったですよね。そこの所は随分研究したんじゃないかなと思います。
—— 今のチームの選手にメッセージはありますか?
「勝ってくれ」としか言いようがないですが、チーム一丸となっていて、とてもいい状況なんではないでしょうか。
—— 選手が先頭になってチームが進んでいくためには、どういうことが大事だと思いますか?
個人個人がプロフェッショナルになることじゃないでしょうか。サントリーでは一時期、フォワードの前3人が直人(中村)、坂田(正彰)、長谷川(慎)という時代がありましたが、あの3人って当時サントリーの看板でしたよね。あれくらい1人ひとりがプロフェッショナルな意識を持っていればいいんじゃないかと思います。
—— その意識を持つための秘訣は何だと思いますか?
派手にやった方が良いのか、地味にやった方が良いのか、分からないですが、前の選手は地味にやった方が良かったりしますね。難しいですね、分からないです。
■サントリー歴代主将 | ■サントリー戦歴 |
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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)