SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2008年6月19日

#147 梶原 敏補 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 4代目キャプテン 『自分が輝くことに力を入れて』

◆顔がニコニコして走っている

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—— 大分にはいつまでいらしたんですか?

高校までです。

—— 高校はどちらに通われていたんですか?

日田高校です。

—— ラグビーはいつから始められたんですか?

高校からです。

—— それまでは何をしていたんですか?

中学校の頃は、田舎なもんですから、野球をしていました。僕らの時代は「巨人の星」とかが流行った時代でしたからね。長嶋さんよりは、王さんの時代ですね。小さい頃はサッカーか野球かどっちと言われたら、野球という感じでした。

—— 野球のポジションはどこだったんですか?

僕は野球下手だったんで、一応ショートとか内野だったですね。肩が弱かったんでピッチャーはやらせてもらえませんでした。いつも「ダメや」と言われていました。

—— 打順は?

5番か6番か、その辺だったと思います。学生の頃は痩せていて、大学に入った頃も70kg位しかありませんでした。

—— では、どういうきっかけでラグビーを始められたんですか?

中学時代一緒に野球をやっていた仲間が、同じ高校に入学したんですね。普通だったら、高校でも野球をやろうとするじゃないですか。ですけど、僕らの中学の野球部って髪も長くて、チャラチャラしていたんですよ。なので、高校の野球部はちょっとなぁ、って仲間と話していたんです。そんな時に、中学時代一緒に野球をやっていた仲間が1人ラグビー部に入っちゃったんですよ。それをきっかけに仲間がみんなラグビー部に入部したんです。

当時、大分では大分舞鶴高校が一人勝ちしている状況だったんですね。なので、ラグビーやる人は大分舞鶴高校に行くので、僕の高校のラグビー部の先輩は10人くらいしかいなかったんですよ。そこに、僕を含め仲間たちが6人くらい入ったので、即レギュラーという感じでしたね。そこからはラグビーをやっていました。

野球って止まっている時間が多いじゃないですか。しかも風を切って走るっていう感じでもないですよね。ラグビー部に入る前に、学校のグラウンドでいろんな部活動が練習しているところを見たんですよ。そこでラグビー部も練習をしていて、ちょうどランニングパスの練習をしていたんですね。1つのボールをみんなで追いかけて、走っている顔がニコニコして走っているように見えたんですよ(笑)。

それを見て、みんなが一致団結して1つのボールを追いかけて、楽しそうに風を切って走っているなぁ、って感じて、走るくらいなら自分にもできるだろうしと思って入ったんですけど、入ってみたら全然違っていて、騙されたって思いましたね(笑)。

—— 高校ラグビー部のいちばんの思い出は何ですか?

1年生のときの夏合宿なんですけど、大分県玖珠(くす)町というところに自衛隊の基地がありまして、その中で10日間くらい合宿をするんですね。当時、目黒高校(現・目黒学院高校)の監督をされていた、梅木(恒明)さんは大分県の出身で、里帰りで帰ってくるときに目黒高校ラグビーをみんな連れて帰ってくるんですよ。そこで一緒に合宿するという話になっちゃったんですね。東京の一流の高校生と練習をしてみると、最初は全然レベルが違うんですけど、少しずつテクニックなどを教えてもらえて、目黒高校ラグビーの人たちのレベルに近づいていくんですね。それでなんだか面白くなっていったんですよ。

あと、当時は土のグラウンドで、マネージャーもいなかったので、怪我をしたら赤チンでも塗っとけみたいな感じだったんですね。そして、そのまま練習をしているとそのうち膿んできたりしていました。練習が激しくて、家に帰る頃には顔の形が変わっているということもありましたよ。それを見て親に「もう辞めろ」って言われたこともありました。ラグビーを始めた頃なんて、「何でボールが楕円形なんだ?」なんてことも言われていましたね。

それでもラグビーを続けていくと、僕が2年、3年の時に大分舞鶴高校の強さに陰りが見えてきたんです。2年の時の県大会の決勝戦で25-7くらいで負けちゃったんですけど、いままでは100点ゲームで負けていたし、トライも取れないほど実力差があったんですけど、20点台に抑え、しかも1トライ取ったんですよ。その頃から周りの高校の力が拮抗してきて、3年の時の県大会の準決勝で大分舞鶴高校が負けちゃったんですね。

僕らはその大会で優勝し、九州大会に進んだんです。9月頃だったので、受験勉強をしないといけない時期になっていたんですけど、県大会に優勝したんだから九州大会に出ないわけにはいかないだろうってことで、行ったら勝っちゃったんですよ。当時は大分舞鶴高校が強くて、連覇していたんですね。ですから、大分県代表として負けるわけにはいかないという気持ちでした。九州大会でも勝ち進んで、全国大会に初出場して、2回戦で負けてしまったんですけど、高校時代はあっという間でしたね。

◆早稲田でラグビーをやりたい

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—— チームが強くなっていくことに面白さを感じたわけですか?

後で考えると、やはり勝ったということですかね。勝ったことのなかったチームが、優勝旗を手にすることができたっていうのは本当に自信になって、いま考えてもラグビーやっていて良かったなと思いますよ。グラウンドに出たら自分の判断でプレーするということや、トライしたら喜んではいけない、歯を見せたら怒られるとか、そういうことをみんなでやってきて勝てたということが大きかったです。そういう経験をし自信をつけたことにより、早稲田大学でラグビーをやりたいと思うようになったんですよね。そして、どんどん思いが叶っていったんですよ。

—— ポジションはどこだったんですか?

1年生の時はロックでした。最初は何もわからないから、そこに居ろという感じでしたよ。3年生が3人くらいいて、その人たちが全部サインとかを出していたので、それに従っていました。そして、2年生の時からはバックローの右サイドが多かったですね。そのあとはずっとバックローですね。2年生の時に1日だけセンターをやらせてもらったことがあったんですけど、パスが出来ずにクビになりました(笑)。

—— 早稲田では本城(和彦)選手と一緒にプレーされていたんですか?

僕の方が1年先輩なんですけど、試合に出るのは同じ時期でしたね。

—— その当時の早稲田大学は強い時期でしたか?

いや、僕が入った時は弱かったですよ。僕が1年生の時のキャプテンが橋本(裕幸)さんで、浜本(剛志)さんが慶応の4年生だった頃に僕が早稲田の1年生でした。浜本さんのいた慶応は強かったですね。僕が1年生の時は試合にも出られなかったので、ウォーターボーイをやっていましたし、早慶戦ではダブルスコアで負けた記憶があります。明治にも負けていましたから、1年生の時は良い思い出がありませんね。メンバー的には凄い人が多かったんですけど、勝てなかったです。

2年生になると主力の先輩たちが卒業してしまって、そしてライバルもいなかったのでレギュラーになることができたんです。僕が2年の時はメンバー的に凄い人はいなかったんですけど、その分チームがまとまっていましたね。ですけど、その時の大学選手権の準決勝か決勝で同志社に負けてしまいました。優勝はできなかったんですけど、早稲田のジャージを着れたということがうれしくて、またラグビーが面白く感じた時期でしたね。

3年になると自信も出てきて、春に負けちゃうんですけど一皮むけたような感じでした。秋にもまた負けちゃうんですよ。僕の前にサンゴリアスのキャプテンを務めていた、小西(義光)さんが専修大学4年生の時に交流戦で対戦し、負けて選手権に出られなくなってしまったんです。春に明治、慶応に勝っていて、夏合宿もそんな悪くなかったんですけど、それなのに専修に大敗してしまって。40-9くらいでした。以前は1月15日くらいから選手権のスタートでしたから、年を越せなかったんですよ。12月20日くらいからオフになっちゃって。未だかつてないほどの危機だったと思いますね。

そこで4年生になる前に新しいキャプテンとかが決まって、早稲田大学高等学院出身で全国大会出場経験がある寺林(務)がキャプテンとなり、早稲田立て直しのために大西(鐡之祐)さんが監督に就いてくれたんです。2月から大西さんの指導が始まって、毎週月曜は休みだったんですけど、それも返上で学校に行って大西さんの講義を3時間くらい聴かされるわけですよ。大西理論ってよく言われますけど、実は理論というよりも精神的なところがあって、勝つためにはどうすれば良いということを教えられましたね。さらに当時あまりウェイトトレーニングの器械とかなかったですけど、毎日ウェイトトレーニングもやらされていました。そういうことをやって、春に明治と対戦したんですけど、もうボロ負けしましたね。

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そういう経験をして、夏合宿に入ったんですけど、ストレートダッシュやランニングパス、倒れて起きる、ダッシュして当たるとか、本当に基本的なことばかりやっていました。最初はこんなことやってどうなるんだろう?という気持でしたよ。ですけど試合になれば、倒れて起きてダッシュするというプレーがあって、そこのスピードが問われるわけで、ただのスピードだけでなくチームとしてのスピードを上げることが大切になる訳ですよ。ダッシュした時に、どっちの足からスタートしてんだ!って言われたこともありました。そこのディテールまで教えてくれたんですよ。もう大西さんについて行くしかねぇっていう気持ちになりましたね。

サインプレーについても、これを成功させたら次にどっちに攻める、それはこういう理由があってそれをいかに成功させるかということも教えてくれましたね。けど、やっぱり3割くらいしか成功できないんですよ。ですけど、その3割を成功させたらあとはディフェンスをやってれば勝つということを、大西さんは春からずっと言ってました。そういう考えが浸透していって、夏合宿ではチームがまとまっていったんですよ。

その時、僕は6番をやっていて、7番が当時2年の土屋(謙太郎)というやつがいて、足は速いしラグビーセンスが抜群だったんですよ。春はトライをバンバン取るし、秋も活躍するだろうと思っていたんですけど、秋には出られなかったんですよ。それは、いま福島県二本松市で呉服屋の社長している渡辺という2浪して入ってきたやつがいたんですよ。しかもラグビー経験がゼロだったんですけど、そいつが4年で早稲田のジャージを着ちゃったんですよ(笑)。

渡辺は中学時代に相撲をやってて上半身が強くて、どすこいどすこいって言われてましたね。ラグビーの経験が無かったんですけど、やっぱり憧れてラグビー部に入ってきたそうです。1年2年とやって、3年の時の夏合宿のときに辞めると言って山を下りちゃったんですよ。なんでかというと、ずっとフランカーをやりたいと言っていたんだけれども、体が強いもんだから当時の監督さんが1番をやらせてたんですね。それが嫌だったみたいで。それで山を下りてからラグビー部に来なくなったと思ったら、1人でキリマンジャロに登って「これからどうするかを考えていた」みたいなんですよ。ちょっと変わり者でしたね。

結局ラグビー部は辞めてなくて戻ってきて、4年になって体制も変わって、大西さんが渡辺をフランカーに戻したんですよ。そうしたら、ルールもあまり知らない渡辺が4年の秋の試合に出て活躍するんですよ。みんな驚きましたねぇ。そして、早明戦に出て勝っちゃうんですよ。まぁ、勝ったり負けたりを繰り返していましたけどね。

◆大西さんの授業

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—— 当時、部員は何人ぐらいいたんですか?

60人ぐらいでしたかね。だから、大西さんの講義を聴いているときは本当に授業みたいでしたよ。

—— その講義は夏も行われていたんですか?

いや、講義は春だけです。最初に大西さんの理論や精神的なこと、あとは監督の経験とかも話されていましたね。

大西さんがジャパンの監督をされていたときに、たぶん1976年だったと思うんですけど、イングランド相手に7-6くらいで惜敗した、凄い試合があったんですよ。もう秩父宮が観客で溢れちゃって。その試合のビデオとかも見せてくれましたね。僕はいまだに自信をなくした時には、その試合のビデオを見たりするんですよ。本当に凄い試合でしたね。なんで、まだラグビーが不毛の時代にあんなに観客が盛り上がったんだろうって思いますよ。小さいジャパンが大きいイングランドに勝つにはどうすればいいか、というところが早稲田にも通じるところがあって、小さいくても絶対に勝てるって教えられました。

大西さんって、僕らが4年の時に監督になられたんですけど、その前から土日になるとグラウンドに見に来ていたんですよ。そして、ちょっとでもおかしなことやっていると、コーチや監督がいるにもかかわらずグラウンドに入ってきて怒鳴ったりするわけですよ。当時の僕らからすると変なオッチャンって感じでしたね。ですけど、やっぱり経歴が凄かったんで、みんな素直に聞いていましたよ。学院の監督をしていた時なんて久我山高校に勝って全国大会に行ってますからね。いまだに七不思議の1つじゃないですかね(笑)。しかも本城がノックオンして負けたって聞いてますよ(笑)。

—— 早稲田学院からの生徒が多かったという事は、当時はみんな学力で入ったのですか?

今と大きく違うのは、当時は推薦というのはなくて、スポーツ選手が入りやすい学科があったんですよ。なので、みんなそこを狙ったわけです。そこに入るためには3教科に実技をやらなければいけないんですね。50メートル走とか、3種目くらい選んで受験して、その成績が点数に反映されていたんです。やはり推薦が無かったので、スポーツ選手は集まりにくかったですね。ラグビーだけでなく、相撲や柔道、剣道といった個人競技も弱かったんです。

—— 高校では勝つことを教えられ、大学では精神的なことを教えられて、素晴らしい環境で学ばれたんですね

そうですね。ですけど、大学選手権で優勝できなかったことは残念です。僕、大学に5年間行ったんですけど(笑)、大学5年生の時は、ちょうど本城が4年になった時で、大西さんが作り上げたものの上にいいものが積み上げられてチームが充実していましたね。その時は明治も同志社も大したことなかったんですよ。ですけど、明治も早明戦になると意地を出して、準決勝で負けてしまいましたね。その時の監督が、植山(信幸)さんという方で、いまだに付き合いがありますけれど、当時は30代で兄貴的な方でしたね。負けたんですけど、まとまりは本当に良かったですね。

—— 卒業後はサントリーに入社されたんですか?

そうです。サントリーに入ったのは1983年なんですけど、ちょうどその時、椎間板ヘルニアを患っていまして、1年間は治療をしていましたね。今みたいにトレーナーがいたわけではないので、当時の監督の山本(巌)さんが色々とお医者さんを紹介してくれたんです。ヘルニアなのでなかなか治らなかったですけどね。でも、2年目からは練習に参加していました。

◆集まるのが20時、終わるのが22時

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—— 4年目でキャプテンを務めましたが、それはどういった経緯だったのですか?

僕がサントリーに入った時は、浜本さんがキャプテン(1982~1984)をしていて、次に小西さんがキャプテン(1985~1986)になったんですね。小西さんがキャプテンをしているときに、僕がバイスキャプテンになったんですよ。その時、初めて全国社会人大会に出場してベスト8になって、サントリーに少し光が見えた時でした。その時は、バックスには小西さん、本城、吉野(俊郎)、大貫(慎二)がいて、そうそうたるメンバーだったんですけど、フォワードが弱くてスクラムが弱点だったんですよ。 たしか1回戦は近鉄だったんですけど、スクラムが走られちゃって、なんとか他でカバーして勝ったんですけど、2回戦では負けましたね。それで、バイスキャプテンだったんですけど、春はジャパンに小西さんや本城、吉野が呼ばれるんで、キャプテン役を僕がやったりして、秋にもジャパンで小西さんがいないのでキャプテンをやらされていたんですよ。その流れでキャプテンになった感じですね。

—— その当時は何時から練習をしていたんですか?

今は14時とか15時くらいからやったりもしていますけど、当時は必ず会社が終わってからやっていたので、早い人で19時半くらいに来ていましたね。それでみんな集まるのが20時くらいになっちゃうんですよ。そこから1時間半くらいやって、その後に個人練習をやったりして終わるのが22時くらいだったと思います。大変なのは大変だったんですけど、そういうことが当たり前になっていましたね。

金曜日なんかは、練習が終わった後に焼肉が出たりしたんですよ。そうしたら、みんなビールを飲み出すんですよね。今はそんなこと無いですけど、昔はお金を出せばビール飲み放題でしたから。それで飲んでいると1時とか過ぎちゃって、みんなタクシーで帰ったり、寮の人なんかはクラブハウスに泊まったりしましたよ。管理人さんが優しい人で、泊めてくれたんですよ。

ほとんどの人が営業で、当時僕も南営業所っていうところにいて、土田(雅人)も同じところで働いていました。それで、だいたいどの課にもラグビー部が1、2人いて、社員の方が一所懸命に応援してくれんるんですよ。試合にも来てくれたりして。試合が終わった後には、応援に来てくれた社員の方たちと飲みに行ったりもしましたよ。楽しかったですねぇ。

—— そういう楽しさの中にも、目指していたのは強くなることだったんですよね?

そうですね。当時は新日鉄釜石とかがラグビー選手のエリートコースでしたけど、僕らの中にはサントリーっていうまだ若いチームで、「新しいものを作って勝とうよ」っていうものがありました。けどなかなか勝てなかったですけどね。

今でも思うことで、ベスト8までしか行けなかったんですけど、僕がキャプテン2年目のチームって相当凄かったんですよ、実は。弱点だったスクラムにも中里(豊)、ロックには栗原(誠治)、甲野(晃弘)、バックローは葛西(祥文)に土田、小西さんもいたし、本城、吉野、大貫、沖土居(稔)、フルバックには山本(俊嗣)でしたから、これで揃ったと、少なくとも決勝には行けるなって思っていたんですけど、このメンバーでも負けちゃうんですよ。ですけど、その経験というものは、今でも活きているんですよ。

—— それはどういうところが活きているんですか?

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このメンバーがいて負けた原因として、型にハメちゃったんですよ。作戦とかはゲームリーダーの本城とかが決めていたんですけど、結局は早稲田っぽかったんですよね。早稲田の型というか理論になっちゃったんですよ。一人一人生き様も違うし大学も違うのに、早稲田の型にハメちゃったんですね。明治なら明治、同志社なら同志社の誇りというかスタイルというものを、それぞれ持っているはずなんですけど、その気持ちを汲んでやれなかった。しかも、早稲田の型でやるもんだから、その型が崩れた時には何もできなくなっちゃうんですよ。

あと、サインプレーにないことが起きた時に、勘でやるやつもいるんですけど、そいつに対してなんでそういうプレーをしたんだ、というところまでコミュニケーションを深くしなかったんですよ。そういうプレーはダメだっていう、表面的なコミュニケーションで終わっちゃってたんですよね。やっぱりチームプレーなんですけど、個人が納得してプレーできる環境になってないと、もったいないですよ。栗原とか今野とかデカイ奴がいてラインアウトが取れんるんですけど、それだけになっちゃってたっていう。メンバーを活かしきれてなかったんですね。

それにコンディション作りもうまくいかなかったんです。全国社会人大会の2回戦、相手はトヨタだったかな。その試合の前半、みんな体が全く動かないんですよ。それは、合宿所なんてなくて、ホテルに泊まると高いので、箕面のサントリーのトレーニングセンターに泊まりながら練習し、試合まで調整をしてたんですけど、練習以外の時間って、寝ているか何か食べているかだったんですよね。なのでみんなブロイラー状態になっちゃって。

あの小西さんでさえ、汗を出しきるまで何もできなくなっちゃったんです。それで試合をやっていたので、前半のうちに3本か4本くらいトライ取られちゃって、後半はエンジンがかかってきて良い試合したんですけどダブルスコアで負けちゃったんですよ。

次のキャプテンの土田は、そういうことを分かっていて、今までのやり方を全部否定してやったんですよ。メンバーはほとんど変わってないんですけど、次の年の全国社会人大会で準優勝するんですよね。僕ができなかったことをやってくれたんです。その年、僕はベンチにいることが多くなったんですけど、ベンチから見ていてすごく勉強になりましたよ。僕の時代もうまくやれば勝てたのかなとか考えていましたね。

—— 梶原さんは、初めての早稲田卒のキャプテンですけど、早稲田卒のメンバーが多くなってきたということもありましたか?

どうですかねぇ。早稲田卒で出てたメンバーは僕と本城、吉野、栗原ですかね。まぁ、少なくはなかったですけど、早稲田派閥とかそういう感じではなかったですよ。ただ、今考えると、そういう色があったのかなって。今ではサンゴリアスカラーというものができていて、素晴らしい伝統みたいになっているんですけど、僕らの頃はそこまでいってなかったですからね。まだ寄せ集めって感じでしたから。

◆型にハメるといい仕事しない

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—— キャプテンを経験したことで、今の仕事に役立っていることは何ですか?

いっぱいありますよ。やっぱり型にハメるといい仕事しないですね。やりたいことを見つけてきて、やらせてくれっていう主体性に任せるのと、型にハメるのでは、型にハメた方は言い訳ばっかですよ。チームとしての方向性は必要ですけど、個人が輝きを持たなければチームはダメですね。

あとはコミュニケーションですね。キャプテンをしていた時は、メンバーは大学も出てラグビーもずっとやってきた一流選手ばかりでしたから、任せていたというか、あまり気持ちの部分で深いコミュニケーションを取らなかったんですね。それではダメだったんだと、今では思いますよ。

—— サンゴリアスが優勝しました。今のサンゴリアスをどう見ていますか?

そうですねぇ。僕らの頃とはルールも違うし、外国の選手なんていない頃でしたし、僕もラグビーから離れてだいぶ時間が経ってしまって、細かいところまではよく分からないですけれども、僕がキャプテンをやっていたときの問題はもう解消されているから勝っていると思うんですね。見ていて非常に楽しいですよ。

—— 清宮監督は大西監督に似ているところはありますか?

まぁ、清宮も大西さんに影響されていますからね。大西さんがずっと「創造せえ、創造せえ」って言ってたんですよ。早稲田には早稲田の、サンゴリアスにはサンゴリアスの型というものがあって、その伝統を継承していくことは大切なんだけれども、そういう型というものも創造していかなければいけないんですよ。そういうところ、清宮は持ってるんじゃないですかね。今の早稲田だって、清宮が作ったようなもんですから。たまに明治なんじゃないかと思うくらいの作戦になっちゃうときもありましたけど(笑)。清宮が目立ち過ぎているという声もたまにありますけど、選手が納得してやっていて試合にも勝てば、それはそれでいいとは思いますけどね。

—— ラグビーの魅力とは何でしょう?

ラグビーって体をぶつけ合ったりするじゃないですか。それって人間が持っている本来の姿だと思うんですよ。それがスポーツの中でできるのはラグビーだと思うんです。それに、体同士がぶつかったら痛いとか感じることって、今の社会の中ではなかなかできなくなっていますよね。

あと、やっぱりチームスポーツって、自分一人じゃ何もできないって感じますよね。野球もサッカーも、チームスポーツをやると、今でいう空気が読めるとか組織の中で生きていけるような力が身につくと思うんです。別に個人スポーツをやっている人を否定しているわけじゃないですよ。

けど最近のラグビーを見ていて思うのは、ラグビーのスピリットというものが薄れてきていると思うんですよ。トライを取って喜ぶとか、今はアフターマッチファンクションで酒を飲まない選手もいるみたいで、まぁ体のことを考えてのことだとは思うんですけど、やっぱり試合が終わったら酒を飲みながらお互いを称え合うのがいいと思うんですよね。

—— 最後になりましたが、今のサンゴリアスのメンバーに対してのメッセージをお願いします

勝つことが宿命になっていて相当なプレッシャーになっていると思いますが、勝つということにこだわるよりは、自分が輝くことに力を入れてほしいですね。ラグビーも最後までできるわけではないので、僕みたいにあの時あぁすれば良かったなんて思わないように、目標を持って頑張ってください。僕が言うのも変ですけど、どんどん言い合って、コミュニケーションを取って勝ってほしいですね。

■サントリー歴代主将 ■サントリー戦歴

2006年~
山下 大悟(H15年早大卒)

2005年~
田中 澄憲(H10年明大卒)

2003年~
早野 貴大(H9帝京大卒)

2000年~
大久保 直弥(H10法大卒)

1999年
坂田 正彰(H7法大卒)

1995年~
永友 洋司(H5明大卒)

1992年~
清宮 克幸(H2早大卒)

1991年
甲野 晃弘(S61中大卒)

1989年~
土田 雅人(S60同大卒)

1987年~
梶原 敏補(S58早大卒)

1985年~
小西 義光(S55専大卒)

1982年~
浜本 剛志(S54慶大卒)

1980年~
稲垣 純一(S53慶大卒)

2007年:
第5回ジャパンラグビートップリーグ 優勝
第45回日本選手権大会 準優勝
2006年:
第4回ジャパンラグビートップリーグ 準優勝
第44回日本選手権大会 ベスト4
2005年:
第3回ジャパンラグビートップリーグ 6位
第3回マイクロソフトカップ 準優勝
2004年:
第2回ジャパンラグビートップリーグ 8位
第2回マイクロソフトカップ ベスト8
2003年:
第1回ジャパンラグビートップリーグ 4位
第1回マイクロソフトカップ ベスト8
第41回日本選手権大会 ベスト8
2002年:
第10回ジャパンセブンス準優勝
プレミアチャレンジ2002 対 サラセンズ戦 42-61
東日本社会人リーグ優勝
第55回全国社会人大会優勝
第40回日本選手権大会準優勝
2001年:
第9回ジャパンセブンズ優勝
国際親善試合 対 ウェールズ戦 45-41
東日本社会人リーグ優勝
第54回全国社会人大会優勝
第39回日本選手権大会優勝
2000年:
第8回ジャパンセブンズ優勝
東日本社会人リーグ優勝
第53回全国社会人大会(ベスト4)
第38回日本選手権出場(優勝、vs神戸製鋼)
1999年:
東日本社会人リーグ3位
第52回全国社会人大会出場
1998年:
東日本社会人リーグ優勝
第51回全国社会人大会(準優勝、vsトヨタ自動車)
1997年:
東日本社会人リーグ優勝
第50回全国社会人大会出場(準優勝、vs東芝府中)
第35回日本選手権出場(3位)
1996年:
東日本社会人リーグ3位
第49回全国社会人大会出場(ベスト4)
1995年:
東日本社会人リーグ3位
第48回全国社会人大会出場(優勝、vs三洋電機)
第33回日本選手権出場(優勝、vs明治大学)
1994年:
第2回7人制全日本選手権(ジャパンセブンス)で優勝
東日本社会人リーグ3位
第47回全国社会人大会出場(ベスト8)
1993年:
東日本社会人リーグ2位
第46回全国社会人大会出場(ベスト8)
1992年:
東日本社会人リーグ5位
(但し、東北優先条項により全国大会には出場できず)
1991年:
東日本社会人リーグ3位
第44回全国社会人大会出場(ベスト8)
1990年:
東日本社会人リーグ3位
第43回全国社会人大会出場(ベスト4)
1989年:
東日本社会人リーグ優勝
第42回全国社会人大会出場 (準優勝、vs神戸製鋼)
1988年:
第41回全国社会人大会出場(ベスト8)
1987年:
第40回全国社会人大会出場(ベスト8)
1985年:
第38回全国社会人大会出場(ベスト8)
1981年:
2部リーグ戦全勝で1部に昇格
1980年:
リーグ戦全勝で2部に昇格
関東社会人ラグビーフットボール連盟3部に加入
4月 創部

(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)

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