2008年5月27日
#146 小西 義光 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 『やらせられるのではなく自分でやる』
◆名の知れているキャプテンばかり
—— 第3代キャプテンということで、初代、2代目と慶應出身だった2人の後をお継ぎになりました。小西さん自身は創部の頃からのメンバーですか?
ちょうど80年、入社の年にラグビー部ができました。
—— ラグビーはいつから始めたんですか?
高校からです。宮崎高鍋高校です。きっかけは頭があまり良くなかったので(笑)、「何かやらなきゃいけないな」と思って始めました。
—— なぜ他のスポーツではなく、ラグビーにしたんですか?
もともとサッカーをやっていましたが、高鍋高校はサッカー部がありませんでした。最初の1年は部活は何もせずに遊んでばかりいて、2年生になって、友達が「一緒にやろう」ということで、ラグビー部に入りました。
—— サッカーで培った足技ではなく、"伝説のスクラムハーフ"と呼ばれるまでに至った手技も、もともと得意だったんですか?
いやいや(笑)、どうなんですかね。昔はスクリューパスはできなかったんですよね。普通のパスは放れたんですが、あまり出来なくて、どっちかというとスクリューパスばかり練習していましたね。
—— あまり他の選手は使っていなかったんですか?
まだ当時はそんなにスクリューパスは使われていなかったですね。
—— だから他の選手より遠くに投げられたということですか?
そういう風になってきたというか、今思えば、そうだったという感じですね。
—— 足は速かったんですか?
5mくらいは早いです(笑)。長い距離は遅いですね。
—— 高校2年から始めて、ラグビーをずっと続けようと思ったのはいつですか?
ラグビーをやっていてスクラムハーフがすごく面白いなと感じました。体が小さかったんで、大きな選手と一緒に前でフォワードというわけにはいきませんでした。全国大会でたまたまベスト8まで行って、大学から誘いがあって行くと決めた時ですかね。当時は関東に出てラグビーをするという友達はまだまだ少なくて、みんな九州に残ってやってましたね。その中で、金谷(福身)という奴がいて、彼も明治に行くことになって、関東で一緒になりました。
—— 専修大学時代に代表に選ばれたんですか?
学生代表には選ばれましたけど、ジャパンの方は社会人になってからでした。
—— 学生代表になったということは、社会人になる時には結構誘いがあったんじゃないですか?
私は最初は他の所を受けていました。ラグビー部のある某広告代理店です。そんな中、サントリーから「大塚さんに会ってみないか」というお話が来て、会ってみたという流れです。そういう話が来た時点で、ラグビー部を立ち上げるという話はすでにあったそうです。
—— サントリーに入ってみてからはどうでした?
最初は同期が10人くらいでしたね。でも大したのはいませんでした(笑)。こんなこと言ったら怒られちゃいますね。早稲田のキャプテンと京大のキャプテンと、滋賀大、関学のキャプテン、僕は専修のキャプテンだったので、キャプテンばかりいました。全然名の知れていないキャプテンばかりでした。
—— キャプテンばかりということは、逆に言えばかなり良いチームだったんではないですか?
普通はそうですね。でも最初は3部でしたから、ある程度の人が10人も集まれば楽勝でした。1部まではストレートで行きましたね。試合は楽勝ばかりでしたけど、毎週いろんなところに行けて楽しかったですね。試合終わってからはお酒飲んで酔っ払って帰ってましたね。
◆フォワードが弱くてどうしようもなかった
—— では、狙っていた広告代理店ではなく、サントリーに入って良かったですか?
そうですね。
—— サントリーでは入った年からスクラムハーフで、5年目にキャプテンに指名されたんですね
はい、そうです。監督のガンさん(山本巌)から言われました。
—— 85年、キャプテンになった年に初めて全国社会人大会に出ましたね
ベスト8まで行きました。その頃のメンバーにはもうジャパンが5、6人いたんじゃないかと思います。なので、その割には強くない、「なんでそんなにジャパンがいて勝てないんだよ」という感じだったんじゃないでしょうか。
—— 80年の創部から毎年補強があったんですか?
そうですね。
—— キャプテンになった年は部員は何人くらいいたんですか?
もうその頃は揃ってましたね。30人以上いたと思います。
—— 元バレー部や元砲丸投げの人たちもまだいたんですか?
まだやっている人もいましたね。
—— 2年間のキャプテン時代でもっとも印象に残ることは何ですか?
フォワードが弱くてどうしようもなかったですね(笑)。今と全く逆です。バックスだけでしたね。スクラムは10mくらい押されますし、何度やってもボロボロでしたね。ボールも全然出てこなかったですし、ラインアウトもほとんど取れませんでしたね。だから永友君(洋司)がやっていた頃にスクラムハーフを1回やってみたかったですね(笑)。
—— いい思い出は?
練習が終わってからのビールですかね。当時はまだクラブハウスにビールが冷えてましたからね。
—— そうすると帰宅するのが遅くなってしまいますね?
そうですね、家に着くのは12時くらいでした。翌朝が辛かったですね。起きてしまえばどうってことないんですが...。最初の頃はみんな来なくて練習ができませんでしたから、それに比べたら全然良い方ですね。僕は物流部というところで中の仕事だったので、仕事が終わったらすぐに帰れたんですが、グラウンドに行っても誰も来ないので、ウエイトやったり走ったりしてましたね。
—— いつ頃からみんながしっかり集まるようになってきたんですか?
だんだん来るようになってはいたんですか、そこまで強制的な感じではなかったです。
—— お辞めになったのは何年ですか?
88年ですね。キャプテンを辞めてから2年やって辞めました。
—— その頃は強かったんですか?
まだ横這い状態で、全国社会人大会はずっとベスト8でした。89年になって東日本社会人リーグを優勝しました。私が辞めたら強くなったんです(笑)。
—— フォワードは強化されたんですか?
いや、してないですね。バックスばっかり獲ってましたね。獲ってたのか、勝手に入ってきたのかは分かりませんが、バックスばかり入ってきました。
—— 当時の佐治敬三社長は、なかなか出ない結果に檄を飛ばされたりしたんですか?
全国社会人大会でベスト8になった試合、雨の中、花園まで見に来て下さいました。しかも花園の第2グランドでした。その時の相手が三菱重工で、スクラムをめちゃめちゃに押されたんですが、試合は逆転勝ちしました。それを見て涙を流して感激してくださいました。スクラムが1回だけ頑張って、押されてはいたんですが、すぐにボールを出して、それをバックスが展開してトライを取ったシーンを見て感動されたようでした。その次はトヨタで、ボロボロにやられました。
—— 社長が見に来られるということは珍しかったんですか?
そうですね。当時は珍しかったですね。ベスト8の試合ということで、見に来たんだと思います。
—— キャプテンをやられていていちばん大変だったことは何ですか?
とにかく好き勝手な奴ばっかりだったんで、まとめられる訳がなかったです(笑)。葛西(祥文)、本城(和彦)、吉野(俊朗)、大貫(慎二)...。大貫なんて全く言うこと聞きませんでしたからね。ここまで来たら、もう好き勝手やらせた方が良いのかなと思っていました。トップの学生代表が5人も6人も集まると、言うこともひとりひとり違うし、僕がまとめるわけでもなかったですね。
◆楽しんでやってもらいたい
—— 今シーズン久々の優勝をしましたが、試合はご覧になりましたか?
マイクロソフトカップの決勝と、日本選手権の決勝は見に行きました。
—— 勝ったマイクロソフトカップは見ていてどうでしたか?
あれは勝負にこだわったという感じですね。勝つにはああいうやり方が良いのかなという気はしますけどね。
—— 日本選手権はどうでしたか?
全体的にレベルアップしないといけないなと感じました。フォワードだけでもダメですね。でもこのチームでスクラムハーフをやりたいと思いました(笑)。
—— 今の部員にメッセージはありますか?
昔と今では変わっていますからね。価値観ってどうなんでしょうか。勝ちたいという気持ちはあると思うんですが、自分としては勝負に対する気持ちは同じかどうか分かりませんね。けど、とにかく楽しんでやってもらいたいですね。
—— 楽しくやるための秘訣は何でしょうか?
練習でしんどいことやって、それを試合で試したら上手く行ったという時が楽しいんだと思います。「やらされている」のではなく、自分で「こういうことをやって、試合で試したい」と思って、試合で上手くいったということが楽しいんじゃないでしょうか。
そういう意味で、昨シーズンの三洋は楽しんでいたと思います。彼らは苦労して、苦労したなりに楽しかったんじゃないでしょうか。サントリーはマイクロソフトカップでフォワードで全部取って勝負しました。それはそれで悪いわけではないんですが、やってみて面白かったでしょうか、というところですね。「やらせられる」のではなく、「自分でやる」ということですね。
◆第3回ワールドカップに行きました
—— 88年に辞めてからはサントリーではどの部署でしたか?
ずっと営業です。去年、50歳で辞めました。
—— NTTのコーチはいつからやられているんですか?
去年の7月からですね。サントリーを辞めてすぐです。
—— サントリーで営業している間は、ラグビーにはほとんど関わらなかったんですか?
サントリーには関わっていませんが、ジャパンの方でコーチをやっていました。95年に南アフリカでやった第3回ワールドカップに行きました。オールブラックスに145点取られた時ですね。当時の監督は小薮さん(修)でした。
結果はご存知の通り、圧倒的に負けました。コーチとしてはすごくいい経験になりましたし、選手時代に味わえなかったワールドカップの空気を味わえて満足でした。第1回大会のワールドカップには選手としてメンバーに入っていたんですが、辞退したんです。妻が妊娠していて、しかも双子で、出発の1週間前に入院してしまい、いつまでかかるか分からない状態でした。宮地さん(克実/当時日本代表監督)に「2週間前までに連絡しろ」と言われていて、辞退しました。
—— 代表コーチはどれくらいやったんですか?
91年から95年までですね。最初の頃はセブンスの監督などもしていましたが、95年のワールドカップで一区切りつけて辞めたという感じです。
—— サントリーのコーチなどをするつもりはなかったんですか?
お呼びがかからないんですよ(笑)。
—— NTTにはいつから行ってるんですか?
サントリーには8月までいたので、最初の頃は夜と土日だけ指導に行っていました。前まではグラウンドが東大和だったんですが、今度、千葉に変わりました。今は週5日、コーチとして行っています。
—— 今後の目標は何ですか?
まずはNTTがトップリーグに上がることですね。あとは自分で仕事を立ち上げて独立しようと思ってます。
—— 日本ラグビー界へのメッセージはありますか?
もう少しうまくコマーシャルというか、宣伝、プロモーションをやってほしいですね。
■サントリー歴代主将 | ■サントリー戦歴 |
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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)