2008年5月21日
#145 浜本 剛志 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 2代目キャプテン 『家族を大事にしてラグビーを徹底的にやれ』
◆これは運命かな
—— 浜本さんは稲垣(純一)さんからキャプテンを引き継いだと言うよりは、「しっかりとしたラグビー部にしよう」というラグビー部創設の時代から一緒にやってきた訳ですね?
そうです。1980年ですかね。その年に稲垣さんを中心に、僕を含めた経験者を集めただけでは足りず、バレー経験者やアメフト経験者も集めて、本格的に強くしようとした年が80年です。サッカーや、砲丸投げの経験者もいましたね。
—— 当初はラグビーとは縁を切って社業に専念するつもりで入社したんですね?
そうですね。もうたくさんだと思ってました(笑)。
—— 「よし、やろう」と思ったきっかけは何ですか?
「これは運命かな」と感じました。ラグビーはもうたくさんだと思って実際に辞めてみると、半年くらいでやりたくなっちゃうんですね。やりたい気持ちがフツフツと湧いてきた頃の話だったので、「もうたくさん」とは言いながらも、少しは「やってもいいかな」という気持ちもありました。でも、今みたいに使命感を感じるというよりは、「始まっちゃったから頑張るか」みたいなところはありましたね。
—— 2部リーグを全勝優勝して、いよいよ1部リーグというところでキャプテンを引き継いだんですね。キャプテンとしての目標は?
次の目標は全国大会でした。今の形とは少し違って、全国社会人大会と呼ばれるものでした。それに出るために頑張りました。東京都の予選を勝ち抜いたら出られる大会でした。一応「日本一になろう」という遠大な目標を持ってやっていました。それが、僕らがやっている7~8年の間に来るのか、将来の10年、20年先になるのかは分かりませんでしたが、「いつかは日本一」という目標を持ってやっていました。
◆新宿発18:20の特急
—— 大変だったことは何ですか?
大変だったのはやはり仕事との両立ですね。練習に人が集まらなかったですね。一応、会社としてはラグビーの練習は19時からやるから、定時で終わって練習に来るように、という指導はあったんですが、実際集まってみると5人とか、6人の時とかもありましたね。
その後ポツポツと来るんですが、もう8時になり、9時になり、あまり夜中までやっている訳にもいかないので、9時半くらいには練習は終わりました。それから夜ご飯を食べて、今はないですが、当時はビールが冷えていたんで・・・それが楽しみで(笑)。それから家に帰るとだいたい12時近くて、もちろん次の日も会社に行って営業で回って、新宿発18:20の特急で府中に行って、という繰り返しでした。
—— 本当に休む間もないですね
ある意味ラグビーの試合をしている時がレジャーという感じでした(笑)。その後、試合が終わってから飲みに行って、という流れでしたね。
—— いい雰囲気だったんですね
そうですね、雰囲気の良い"クラブ"のような感じで出来ていました。
—— 5、6人しか集まらない時にはどういう練習をしていたんですか?
それこそチームランなんて出来ないので、ひたすら走ってパスしたり、タックルで当たったり、割とシンプルな練習ばかりしていましたね。山本巌さんという監督いて、当時は毎日来てくれていました。当時ガンさんはプロの監督で、選手はサラリーマンでした。
—— 当時の監督とキャプテンの関係はどういう感じでしたか?
会社側と組合の委員長のような関係でしたね(笑)。監督に「練習に間に合うように来い」と言われ、「そう言われても、繁忙期でなかなか忙しくて・・・」というやり取りがよくありましたね。
—— ガンさんの練習は厳しかったんですか?
きつかったですよ。ガンさんはもともと練習がきついので有名で、早稲田出身の選手は練習がきついのを知っていたので、松尾(尚城)なんかは嫌がってましたね(笑)。
◆やっと仲間入り
—— 他競技から転向してきた人たちも形になって来ましたか?
そうですね。だんだん形になってきましたね。それからラグビー経験者も入って来ました。4年後には本城(和彦)や吉野(俊郎)、村松研二郎といった優秀な選手が入って来るようになりました。ちょうど僕から小西(義光)にキャプテンを継いだ頃に選手が揃ってきました。
—— 社会人大会出場という目標は、浜本キャプテン時代には達成できなかったんですね
全国社会人大会に出たのは小西がキャプテンになってからですね。いきなりは出来ませんから。僕がキャプテンを継いだ翌年にはかなりの戦力が揃いました。
—— 当時の会社の応援体制は良かったんですか?
応援してくれるという風潮はかなりありました。けど、今の状況とはちょっと違って、職場の代表がラグビーをやっているという感じでした。いろんな職場の中で、一緒にやっている仲間がラグビーをしている、だから応援しようという感じでした。今でもその伝統は残ってますけどね。女子社員の方も結構応援に来てくれていて、それで結婚した奴なんかも結構いましたね、僕も含めて(笑)。
—— 選手はいつまで続けたんですか?
確か29歳までだったと思います。土田(雅人)が僕の6年下で入ってきて、ポジション(ナンバーエイト)を奪われたんですね。それからは2本目でやっていて、しばらく頑張っていたんですが、その年で辞めたんだったと思います。
—— ということは、目標にしていた社会人大会に、自身は出場できなかったんですね
確か出てないですね。同期の松尾は出ていたと思います。その年はずっと2軍選手でした。全国大会ということで、みんな花園に集まるんですが、やっぱり「ここを目標に来たんだな」という雰囲気はありました。今思うと、古豪と呼ばれる近鉄とかリコーだとかそういうチームが来ていて、やっとその仲間入りができたかなと感じました。
—— 役割は果たしたという感じでしたか?
まぁ始めた人間が稲垣さんや僕だったんで、やらなくてはいけないという気持ちはありましたし、キャプテンを3年やって、とりあえ右肩上がりで交代することができたのかなという気はしました。引退する時は安心して任せるというよりは、その後コーチもやりましたので、まだ一緒にやって行こうという感じでした。
◆ビール工場でアルバイト
—— ご出身は?
東京都下、府中の近くの中河原というところです。ちょうどビール工場の近くです。昭和38年にビール工場が出来て、小学校の社会科見学で行ったんです。高校の頃にはビール工場でアルバイトをしたこともありました。まさかそこに入るとは思っていませんでしたね。その後、聖蹟桜ヶ丘という、ひとつ向こうの駅に越しました。
—— ラグビーはいつから始めたんですか?
高校からですね。
—— その前は何をしていたんですか?
クラブ活動で言えば、中学はサッカー部でした。そして小さい頃から柔道をやっていて、町の道場に通っていました。たまたま中学に柔道部が無くてサッカー部に入ったんですが、高校には柔道部がありました。最初は柔道をやっていたんですが、ラグビー部が人が足りていなくて、同級生のラグビー部のキャプテンから「15人いないと合宿させてもらえないから、とりあえず、お前来い」と言われて誘われて、柔道部からは2人、水泳部、山岳部などからもラグビー部に移りました。そういう形で1年ちょっとやりました。
—— ラグビーをやってみてどうでしたか?
「こんなに面白いものがあったのかと」いう感じでした。部長の先生も面白い人で「ラグビーやらない奴で真面目な奴はあまり大成しない」とか言ってました(笑)。
—— 慶應大学では迷わずラグビーでしたか?
そうですね。柔道って個人スポーツじゃないですか。ラグビーは団体スポーツということもありますし、人に当たれるとか、人をなぎ倒せるとか、非常に爽快なスポーツだと思っていました。迷わずラグビー部に入りました。
—— 息子さんお2人も同じ大学の同じラグビー部に入りましたね
たまたま自分が経験して非常に良かったと思っていて、そこで得たものもすごく大きくて、彼らも同じ経験が出来たらいいんじゃないかなと思っていました。
—— お子さんは子供の頃からラグビーをしていたんですか?
下の子は幼稚園から、上の子は小学校1年からラグビースクールに通っていました。たまたま近所にラグビースクールが立ち上がるということで、手伝ってくれと言われ、コーチで行くことになったのと同時に息子も一緒に入りました。途中でいろいろありましたが、息子たちもそれからずっとラグビーを続けてくれました。
◆時間との戦い
—— お父さんの方のその後は?
サントリーのコーチが終わって、時間があるときには慶應のコーチもやっていましたが、その後、慶應のコーチと監督もやりました。それが32歳か33歳の頃でした。
—— そこでいったんラグビーは辞めたんですね
現場、いわゆるグラウンドレベルでは辞めました。その後、関東協会から手伝ってくれと言われ、そこで強化担当をやったりしました。
—— 日本協会はいつからですか?
いつでしたっけ、もう6、7年経ちますね。関東協会で10年くらいやって、「今度は日本協会でやってくれないか」ということで引き受けました。
—— 関東協会と日本協会では役割は全然違いましたか?
基本的にはそんなに違わないんですが、関東協会では、関東の選手をどれだけ強化させて、日本代表に持ち上げていくかということがテーマでした。今は日本代表ですから、日本代表をどうやって世界に通用するようにしていくかということです。
—— 日本協会に入って大変だったことは何ですか?
これは時間との戦いですから、仕事は仕事であって、土日は家族のこともありますから、大変ですね。途中で息子を巻き込んで、ラグビースクールで教えながら、ラグビーの世界へ巻き込んじゃえという流れですね(笑)。無理やり両立させたような感じです。
◆お前に何が分かるんだ!
—— キャプテン時代でいちばん思い出に残ることは何ですか?
東京都代表決定戦で、全国大会に行くための決勝戦があったんですが、相手が東芝府中(現東芝)でした。早明戦の日の午前中でした。早明戦は国立であって、東京都代表決定戦は秩父宮でした。結局25対12、3点のダブルスコアくらいで負けたんですが、かなり良い試合をしました。そこへのプロセスですね。
プロップが弱かったんですが、高校出の良い選手がいて、これがまたちゃらんぽらんな選手でした(笑)。練習には来ない、会社には来ないで行方不明になっちゃうんです。みんなで探して、あそこにいた、ここにいたと言いながら、探してたんですが、試合前になって戻ってきて、彼が出ないとどうにもなんない状態でした。それで僕はガンさんに「あいつ使わないと勝てないですよ」と言ったんです。
そうするとやはり反発があって、真面目に練習してた選手を出してやれという声もありました。最終的にガンさんは「お前決めろ」と言ってくれました。「負けても良いメンバーで良いチームでラグビーをするか、恨まれてもいいから勝ちに行くラグビーをするのか、お前が選べ」と言われて、僕は勝ちに行きました。
試合が終わって飲みに行ったら、反発していた選手につかみかかられシャツをビリビリに破かれて文句を言われたりしましたね。こっちは「お前に何が分かるんだ!」なんて言い返しながら飲んでました。今こうして歳を取ってから話すと「そういう時もあったな」なんて言えるんですが、当時は喧嘩でしたね。「お前は何でそんな選手の選び方したんだ!」「お前に何が分かるんだ!」という具合でした(笑)。
その次の日に新聞には、「早明戦の日の午前中に、こんなにいい試合があった」という記事が出ていて、すごく印象に残っています。
—— 試合後の熱さが良いですね
そうですね。そうやって文句を言ってくる奴も、彼らなりにいろいろ考えていたんですね。
—— キャプテン時代に嬉しかったのは何ですか?
嬉しかったというのはあまり記憶にないですね。楽しいとか、嬉しいというものより、やっぱり強烈な印象があるのは今話したようなことですね。心の中に残っているのは、楽しいとか悔しいとかっていう感情と違うんですよね。心の中にグッと残っている出来事ですね。
—— 嬉しいのは巻き込んだ家族が大学で活躍したりすることですか?
結果的にそうなったことは嬉しいですね。けど、嬉しさにもいろいろあって、「よし、優勝した、ワー!」という嬉しさと、じわーっとした嬉しさとありますよね。
◆じわーっという嬉しさ
—— 慶應大学、関東協会、日本協会と関わる中で、サントリーラグビー部とはどのような関わりを持って来たんですか?
一応サントリーのラグビー部に常にいろんな情報を与えていたり、いろんなことがスムーズに進むように手伝っていたつもりです。ある面では、サントリーから協会に行かせてもらっているという感覚もありました。
—— トップリーグを作ると決定した会議のメンバーでもあったんですよね
はい。日本協会にいる時にトップリーグが出来ると決まりました。決議の時のことも覚えています。宿沢さん(広朗)がまだ生きている時で、「もう少し時間をかけて、2年後から始めよう」という意見と、「今すぐにでも始めないといけない」という意見とあって、宿沢さんとは意見がぶつかることもあったんですが、「先に延ばしてはいけない、すぐに、多少の準備不足があっても始めないといけない」というこの時の思いは一緒で、保守派対革新派のような構図も多少ありました。
—— 新しい事を始めるということは大変ですよね
代表のジャージを変えるにしてもすごく大変でしたね。「昔の良さをそのまま残したい」、だけど「アイデンティティーは残しながらも、変えていかなければいけない」というところのせめぎ合いはいつもありますね。
—— 今回の優勝は嬉しかったですか?
じわーっという嬉しさですね。こうやって積み重ねてきたものと、選手の努力と、清宮という良い指導者を得て、それが花咲いたという感じです。今まで培ったもの、選手の力、監督の指導力が三位一体にならないと、なかなか勝てないですからね。そういった面では、今回良い結果が出て良かったと思います。
—— 客観的に見てサンゴリアスはまだまだ成長していくと思いますか?
そうですね、ここで止まっていてはだめですからね。常に新しいことというか、生まれ変わっていかないといけませんし、今までもそういうチームでしたからね。留まるのは退化ですから、前に向かって行ってくれると思います。そういった意味でもっと変わっていくと思います。
—— 今のチームのメンバーにメッセージはありますか?
とにかくラグビーをやれる環境がある時は、ラグビーを徹底的にやってほしいですね。他のことや仕事はその後いくらでもやる時間があるから、徹底的にやれと言いたいですね。ただし、その間も家族だけは大事にしてほしいですね。今の子は家族を大事にしているから大丈夫いだと思いますが、そこだけは大事にしてほしいですね。反省も込めて・・・(笑)。
◆ライフワーク
—— ここ2、3年トップリーグも成長していますね
やっていかないと日本はもっと世界に出て行けないですからね。やらなければ世界との差がもっと開いていくだけでしたから、動いて正解でしたよね。
—— 今後の仕事の目標は?
これはサントリーのラグビー部としてはどういう役に立つのかは分かりませんが、今、サントリ-ではシニアアドバイザーとして、チームがまっすぐ進んでいくための相談があれば助言をする立場です。
日本協会の理事としては、日本のラグビーを次のワールドカップまでにかなり強くしないと、その先はなかなか追いつけないなと思っています。日本を世界のセカンドティア(世界ランキングの10位~20位)の上位、10位から12位まで早く持ち上げたいですね。2011年にベスト8というのがひとつの目標ですので、そこを目標にやっていくことが僕の仕事の1つです。
—— 2015年のワールドカップの開催地が日本に決まるかどうかも大きいですね
これは来るように努力したいですね。ただ、これは世界的に日本で出来るというアピールをしながら、日本のラグビーの実力を上げていくことと同時に、事業としてしっかりとした組み立てが出来ないと大変です。何百億という事業ですから。
日本でワールドカップをやるとなった時に、予選から毎試合3万人は入るという見通しが立たないと、赤字になってしまいます。そのためには、まずトップリーグが発展して、トップリーグの入場者数が1試合1万人を超えたということであれば、「行けるな」という判断も出来る訳です。誘致活動と同時に、事業としてのベースを確立しておかないと、大変なことになりますね。
—— やることがいっぱいあって大変ですね
日本が優位なのは、インフラが整っていることです。サッカーのワールドカップをやりましたから、スタジアムや宿泊施設はもう整っています。何とかしなくてはいけないのは、代表の強化と、事業としての計画ですね。ニュージーランドでは政府保証というものもあって、赤字になったら政府が持つんですね。日本ではそうはいきませんから、しっかりとした事業計画が必要です。
—— 生涯ラグビーですね?
稲垣さんもそうですけど、もうライフワークみたいなもんですね。
—— 高校でたまたまラグビーに出会ってよかったですね
柔道では大成していなかったんじゃないかなと思いますし、人生、何がきっかけになるか分からないですね。それがなかったらやっていなかったでしょうね。
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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)