2008年5月 1日
#144 稲垣純一 特別編"HISTORY OF SUNGOLIATH" 歴代キャプテンが語るサンゴリアス史 初代キャプテン 『原点は土のグラウンドでスタートした』
◆誇りになるチームを作ろう
—— 稲垣さんがサントリーに入社されたのはいつですか?
1978年の4月です。この年は、僕の個人史を語る上で欠かせない年です。慶應のラグビー部では2軍で、社会人でもラグビーをやるという気持ちはサラサラなくて、仕事をしっかりやって遊びで草ラグビーをする程度のつもりでした。もう慶應みたいなグチャグチャなラグビーではなく(笑)、楽しく明るいラグビーをしたいと思っていました。
もちろんラグビーは大好きでした。サントリーに入ったら、たまたまラグビー同好会があったという感じで入ったんですが、当時はウォーミングアップが終わったらすぐにたばこを吸ったり、缶ビールを飲んでる奴もいました(笑)。そんな中で楽しくやっていました。
—— ラグビー部の前身の同好会は何年前からあったのですか?
僕が入る7~8年前だと思います。僕の1年後輩で、浜本(剛志)、松尾(尚城)が入ってきました。慶應、早稲田の両エースで日本代表候補でしたが、彼らも入社する時にはラグビーをするつもりはありませんでした。当時、サントリーではバレーボール部とバドミントン部があり、他に屋外のスポーツをやりたいという佐治敬三社長(当時)の希望があり、当時の取締役東京支店長だった関西学院大学出身の大塚(卓夫)さんが佐治社長にラグビーを薦めたという経緯があります。
—— ここで同好会が部になったということですね
はい、そうなって僕は、最初は逃げようと思ってました(笑)。声が掛かるのは分かっていたんですが、もう部としてはやりたくなかったんです。浜本と松尾は名選手だからやらされても、僕はヘボ選手だったので大丈夫だろう、僕は逃げ切ろうと思ってました(笑)。
僕の同期で安住という神戸製鋼に行った奴がいて、彼も初めは社会人でラグビーをやるつもりは全然なかったんですが、神戸製鋼に行きました。それで、なぜ神戸製鋼に行くことにしたかを聞いたら、「ラグビーが好きだから」という答えを聞いて、そうだなと思い、何となくやってみようかな、どうしようかなと思っていました。それで仕方がなくてという訳ではないですが、やってみようかな、ということで入ることにしました。
—— それでいきなりキャプテンをやったんですか?
そうですね。半分は会社命令みたいな部分もありました。許せないのは、その時僕に「ラグビーをやれ」と言った人事部長は、入社の面接のときに、「君は社会人になったらラグビーは出来なくなるが、それでもうちの会社に来るのかね?」と言った人でした(笑)。「もちろんです」と僕は答えましたが、その人に今度は「ラグビーをやれ」と言われて、「あぁ、社会ってこんなもんなんだなぁ」と感じ、とてもいい勉強になりました(笑)。そんなスタートでした。
いざ始めてみると、日本一を目指すチームを作るということで、山本巌さんという、当時のラグビー界では超有名な方がリコーからサントリーに監督として来ました。「やるからには仕事とラグビーを両立して、サントリーの誇りになるチームを作ろう」という大塚さんの熱い思いもありました。それに賛同して「やろう!」と思いました。
◆家に帰ると夜12時を過ぎていた
—— 当時の稲垣さんから見て、日本一まで何年かかると思いましたか?
社長に「5年で日本一になれ」と言われました。たった5年で出来るかなぁと思っていました。その後、本城(和彦)たちが入ってきたんですが、それでも勝てないチームが続いていて、結局創部15年で初めて日本一を獲りました。その時に思ったのは、「5年で日本一になれ」と言われていなければ、15年で日本一にはなれなかったということです。「10年かかってもいい」と言われていたら、20年も30年もかかっていたでしょうね。
—— 5年たった時の社長の反応はいかがでしたか?
そんなに甘くないというのを分かっていたと思います。何も言わなかったですね。1980年の入社組に、小西(義光)とかラグビー経験者を大量に入れたんですが、それでも足りなくて、僕の同期に京大のアメフト部出身で学生オールスターだった奴がいたり、早稲田のバレー部でめちゃめちゃ足の速い奴とか、いわゆる素人の人たちも一緒になってみんなでスタートしたんです。
—— 当時からラグビー部は東京にあったんですか?
はい。関東社会人リーグ3部に所属していました。
—— グラウンドは何処にあったんですか?
今と同じ府中です。当時はまだ土のグラウンドで、野球のマウンドがあって、よくそれにつまずいたりしていました。クラブハウスも今とは違ったポンコツなクラブハウスで、練習が終わったらみんなで冷蔵庫にあるビールを飲んだりしている時代でした。
—— 当時の練習と仕事のバランスはどうでしたか?
仕事は100%でした。17時まで仕事をやって、練習は19時から。僕は遠くに住んでいたので、練習が終わって家に帰ると夜の12時を過ぎていました。
—— 土日も練習でしたか?
土日は試合でしたね。土曜は昼から練習して、日曜日は試合という感じでした。
—— かなりキツイ生活だったんではないですか?
そうでしたね。けど、社員の皆さんがすごく応援してくれましたし、日曜の試合の後なんかは、応援に来てくれた社員の人たちと一緒に飲みに行ったりしていて、それが楽しみでやっていた部分もありますね。日本一という大きな夢に向かって出航した船が、まだ湾の中をフラフラしているような時でした。そんな時に僕も「自分はラグビーが好きだ」ということを再確認し、こうなったらグチグチ言ってないでとことんやろうと思いました。
◆今日はソフトボールだぁ
—— 監督はどうでしたか?
ガンさん(山本巌)は、当時は高校日本代表も教えたりしていて、忙しい人でしたが、練習には来てくれていましたし、ラグビーに関しては厳しいものを持っている人でした。
—— 監督がいない時は稲垣さんが練習のメニューなどを考えていたんですか?
そうですね。たまに「今日はソフトボールだぁ」なんて言って、みんなでソフトボールをしたこともありました(笑)。
—— 「サンゴリアス」という名前はいつ作られたんですか?
それは98年か97年くらいです。最初に日本一を獲った翌年だった気がします。神戸製鋼のスティーラーズに負けないブランドを作ろうということで作りました。しかし、トップリーグができるまでは、なかなかサンゴリアスという名前は浸透しませんでしたね。
—— もっとも印象的で楽しかったことは何ですか?
毎日が楽しかったですね。僕は創部当時まだ独身だったんですが、結婚する時が大変でした。嫁さんとは学生時代から付き合っていて、2年目で結婚すると決めていました。結婚することが決まった後で、ラグビーをするという話が来たんです。辞めるつもりだったんで、説得するのも大変でした。
もう新婚旅行も計画していて、結婚式が4月19日で、20日から新婚旅行に行くことになっていたんですが、ラグビー部が21日に初めての試合をすることになって、新婚旅行を先送りできるか尋ねたら、「何よそれ~」ってことになって嫁のお母さんまで出てきちゃって大変でした(笑)。それで最初は「申し訳ないです、キャプテンいませんが」ということで創部後初の試合をしました。
—— それがサンゴリアスの第1歩だったんですね
いろいろな苦しみやステージを乗り越えて今があるということです。試合のことだけではなく、今でもトップリーグの上位チームの中で、グラウンドが1面しかないのもサントリーだけですし、他にも言い出したらきりがないほどいろいろ課題もあります。
でもどこかで、天狗というか、「サントリーは王者だ」というような感覚があると思うんですが、ちょっとみんなが違う方向に進みそうになってしまった時に、原点に戻る強さは忘れてほしくないですね。もとは土のグラウンドで、みんなポンコツで、新しいラグビー部だけど日本一を目指して頑張ろうと、みんなでスタートした時の気持ちです。
—— 要するに「自惚れてはいけない」ということですね?
そうですね。初めて優勝した翌年も、いろいろ選手から要望が出てきました。あれも欲しい、これも欲しい、これが足りない、あれが足りない・・・。その時に話したのが、「原点に帰ろう」ということでした。
◆輪に入れなくて少し悔しかった
—— キャプテンは2年務めたんですね?
そうですね。次のステージに行きたかったんです。僕の役目は初期のチームを作って、最初は3部からのスタートですから、1年で2部に上がって、次の年で1部に上がるのは目に見えていました。どの試合も150点、160点で勝つという中で、真剣な話をするのが僕の役目でした。
—— やり甲斐はありましたか?
ありましたね。当時はチームに芯もありませんでしたから、勝てなくなって負けだしたら、明治のラグビーはどうだ、早稲田のラグビーはどうだっていろいろ話し合いをしましたね。まだサントリーのラグビーというものはありませんでしたからね。
ガンさんにはガンさんのラグビーはありましたが、まだそれをやるだけのチームではなかったですね。選手起用にしても、監督の意思と選手の意思が違ったりして、その度に言い争いになったり、練習に出て来なくなる選手がいたりもしました。
—— 選手も結構意見を持っていたんですね
結局ゼロからのスタートでやってきた訳ですから、選手も自分たちでやってきたという感覚がありますからね。当時と今ではラグビーも全然違いますので一概には言えませんが、今の部員に言えることは、清宮監督の言うことに、すべてイエスではいけないということですね。ちょっとみんな良い子過ぎるというか、もうちょっとやんちゃな奴がいてもいいじゃないかなと思います。それもそれでいいんですけどね。
—— 久々にサントリーが優勝した時はどんな気持ちでしたか?
正直なところ、僕は立場的にあの輪に入れなくなってしまったことが、少し悔しかったですね。森さん(喜朗/日本ラグビーフットボール協会会長)は入ってましたけど(笑)。けど、グラウンドで敬介(沢木/コーチ)と握手して、「5年間、この喜びが味わえるまで長かったな。」という話をしました。その歴史を僕らは知ってるので、ここでこの幸せを味わえる奴は幸せだなと思ったし、僕もこの輪の中に入って抱き合いたかったな、というのが正直な気持ちです。
いろいろな壁を乗り越えて勝ったことは価値があることですし、その後の日本選手権で負けたからと言って、悲観することでもありません。そんなもんだということです。マイクロソフトカップを獲ったことは喜ばしいことですが、そんなに浮かれてる場合でもないということです。
苦しんで一歩一歩階段を上っていくことが大事だということです。もし、初めの5年でサントリーが日本一になっていたら、きっと勘違いをしてしまっていたでしょうね。もっと弱いチームになっていたかもしれません。洋司(永友/前監督)には苦労してもらったし、社員じゃない人が外から見てても応援したくなるチームになったと思います。
—— 初代キャプテンとして、現キャプテン(山下選手)にメッセージはありますか?
大悟は立派なキャプテンだと思います。僕みたいに説教ばっかりじゃないですしね。僕はキャプテンの後、コーチみたいなことや、チームディレクターや部長、GMといろいろなことをやってきましたが、キャプテンとしてチームの中で大事なことは、どんなことがあっても怯むなということですね。
大悟にはそういうキャプテンになってほしいですね。澄憲(田中)、大久保直弥、早野(貴大)と歴代のキャプテンがまだチームにいて、それぞれ大変だったと思いますが、山下大悟には、「ザ・山下」というキャプテンシーを発揮してほしいですね。終わってから、大悟はこういうキャプテンだったとみんなの心に残るキャプテンになってくれたらいいと思います。
—— 最後に今のお仕事の夢は何ですか?
日本のラグビーを世界にアピールするために、まずトップリーグが発展することです。世界の中での日本のラグビーのポジションを上げて、2015年くらいには、日本でもメジャースポーツになっている。そのためには、それまでに日本が世界のベスト8に入っている。多くの日本人にラグビーという素晴らしいスポーツを知ってもらいたいですね。
まずはトップリーグがその原動力になることです。トップリーグだけが輝くのではなくて、日本のラグビーが輝くこと、そのためにトップリーグがあるということです。トップリーグの役割は日本代表が強くなることと、ラグビーファンを増やすこと、ラグビーをしたいという子供達を増やすこと、普及と強化です。コツコツとやっていって、いつか大きな花火になることを願ってます。
■サントリー歴代主将 | ■サントリー戦歴 |
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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)