2007年11月 9日
#117 中村 直人 真打ち登場! 『いっぱい笑える人生』 - 6
◆無事これ名馬
—— 大学時代、バイスキャプテンなどは務めていなかったんですか?
宴会部長、そう言われていました。それは4年になる前からそうでしたが、1年生の頃は少しだけ上下関係があって、4年生に怖い先輩がいましたが、2年生からはすごくアットホームな感じで、同志社は日本一アットホームだと思います。強くなるためにそれが良いのか悪いのかは別にして、僕は好きでした。2年の頃から打ち上げだ何だってなると必ず僕の出番がありましたね。
—— 呪いの力とは言え、ライバルが次々に怪我していく中で、自身は怪我をしなかったという点、体は強かったんでしょうね
願いです。呪いじゃないです(笑)。そうですね、「無事これ名馬」という感じですね。スピードが必要なポジションでもなかったですし、バックスのように繊細なポジションではなかったので、多少の痛みは自分の中で我慢してやることがポイントだと思っています。Aチームにいるのが安泰ではなかったんで、「どこどこが痛い」なんて言ったらメンバーから外されると思っていたんで、痛いものは全て抑え込んでやっていました。いま思えば常にどこかしら痛かったような感じがします。ポジション争いがかかった時には、そういう痛みが我慢できていました。
子供の頃はよく親に「すぐ痛がる子だ」と言われていましたが、親父は厳しかったんで「走ったら治る」と言われていました。初めはそんなのウソだと思っていましたが、何回か怪我をして走ってるうちに治っちゃうんで、最後の頃は「ほんまにそうなんや」と信じていました。骨折とかはさすがに無理だと思っていましたけどね。
社会人になってからもそんなことがありました。初めての日本代表の、ファーストキャップの前の日の練習でした。翌日が試合なので軽く合わせるだけの練習だったんですが、スクラムのときに手をついたら骨折してしまって、でも痛いって言ったらファーストキャップを逃してしまうから、トレーナーに「2人だけの秘密にしてください」と言ってテーピング巻いてもらいました。さっきも言いましたが、これがバックスだったら大変じゃないですか。骨折してたらパスもできないですしね。僕はプロップだったんでその辺の心配はなくて、国歌を歌ってる時には痛みは消えていました。
—— 4年生の話まで来ましたが、語り残したことはありますか?
4年生の時は結局全試合に出たんですが、とにかく怪我人が多かったですね。夏合宿の時点では3軍だったメンバーが繰り上がってきて公式戦に出たりしていました。もちろんそいつらも頑張っていたんですが、実力的には劣りました。中にはチャンスをうまく掴んで実力を上げた選手もいましたけど。夏には大東文化にも勝ってたんですが、9月にはいってからは不安定なシーズンでした。キャプテンも怪我して、京産大に負けて大阪商業大にも負けました。大商大に負けたのは史上初でした。龍谷大学にも苦戦して、辛うじて逆転勝ちしました。たしか僕のトライで逆転勝ちだったと思います。
関西で一番のビッグゲームは京産大戦か大体大戦なんですけど、大体大戦の時にはキャプテンもいない、4年のメンバーもほとんどいないという状況で、普段は下で頑張ってるメンバーが出て勝ったんですが、その試合は思い出に残っている試合ですね。
◆日本一の飲み会
—— それだけ主力のメンバーが欠けた試合ということは、ゲームリーダーだったんですか?
ないですないです、それはないです。僕はあくまで宴会リーダーですから(笑)。「試合の後行くぞ~」って。最後の4年生の時も、関東学院大学が初めて出てきた時で、1回戦であたりました。東芝の松田とかがいましたね。その時も「俺たちは同志社だ、関東からひょこっと出てきた大学なんかには負けないぞ」という感じだったんですが、危うい試合をしました。
その後準決勝で早稲田と当たりました。準決勝の第一試合は京産大学と明治大学でした。3年の時は負けて国立に行けませんでしたが、2年ぶりの国立で、早稲田と明治が出るということで、5万人の大観衆でした。第一試合の京産大と明治の試合がすごく熱い試合で、僕らがウォーミングアップに行く時は京産大が勝っていたんです。アップを終えてロッカーに戻る時に両チームの選手が上がってきたんですが、両チームとも泣いていました。それでその時点ではどっちが勝ったか分らなかったんですが、自分たちの試合がこれからあるので、そんなこと気にしていたらあかんという感じでした。
グラウンドに出ると明治が勝ったということが分かって、円陣で「京産大の分もいこうや!」って言って試合に臨みましたが、結局8-50。5万人いた観衆も、試合が終わるころには1万人位しか残っていないような試合展開でした。これが大学での最後の試合でした。
その試合の後に1年生から4年生まで集まって飲み会をしたんですが、この時の飲み会は温かい飲み会でしたね。どこのチームでもやると思いますが、引退する4年生が下級生に向けて1人ずつメッセージを言っていきました。細かいところは覚えていませんが、しゃべる方も聞く方もすごくいい空気で、負けた後でしたが、今でもみんなで日本一の飲み会だったと言っています。
その後渋谷に行きましたが、宿泊はその日はなかったので、4年生で後輩の分も出しあって宿泊の面倒を見ました。渋谷に行く前に監督に「行ってきます」と伝えた時に、「ごくろうさん、今日は思いっきり飲んで来い」と言われました。とにかく僕には厳しい監督で、4年間一度もやさしい言葉なんてかけてもらったことはなかったんですが、初めてやさしい言葉をかけてもらって、「ありがとうございます」と言って、それまでの厳しかったことなどが全てなくなりました。
—— 大学4年間を終えて、サントリーを選んだ理由は?
僕はそこで終わりませんでした。5年生になりました。ドイツ語を勉強したくて(笑)。ラグビー部の4年が22~23人いた中で、「もう1年一緒に勉強しようや!」っていう仲間が7~8人いました(笑)。その中でラグビーをやると言ったのは僕ともう1人だけでした。5年生では3試合しか出ませんでした。5年になった時に監督が代わって、最初に「5年生は試合には出しません」と言っていたんですが、シーズン後半になって監督が「力を貸してくれ」ということで3試合だけ出させてもらったという感じです。その年もあまり強くはありませんでした。
—— 5年生が終わりました
実家が酒屋だったからでしょうかね。土田さんに「一緒にやろう、神戸を倒そう」と言われました。それでサントリーに入りました。この話の続きは次回に。
(続く)
(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)
[写真:長尾亜紀]