SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2007年7月26日

#98 中村 直人 真打ち登場! 『いっぱい笑える人生』- 1

◆劇的でした

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—— まずは、絶対に聞かなければならない"こだわり"の話があるそうですね。以前に掲載された坂田正彰選手のスピリッツ・オブ・サンゴリアス(SPIRITS OF SUNGOLIATH #86坂田正彰 トップリーグ唯一のフロントロー1ゲーム3トライ 『その時、坂田正彰に何が起こったのか?』)の記事中に、「坂田-永友-清宮-吉野-尾関という展開でパスを回してトライ」という話が出てきますが、これは違うと?

初優勝のトライです、ラストトライ。決勝トライ。このトライは「坂田-中村-永友-清宮-吉野-尾関でトライ」が正しいです。「坂田の後に中村が入って、永友」これが一番大事なところです(笑)。忘れちゃいけません。

—— 坂田選手は忘れていますね

坂田からパスをもらったのは僕です。

—— ということは2人とも良いポジションにいたということですか?

僕のパスは不細工なパスやったけど、一応、間には入っていました。

—— 中村コーチにとってもこのプレーは思い出に残るシーンですか?

そうですね。もちろんそのプレーもそうですし、そのゲーム自体が人生で初めての決勝戦でしたし、ましてや、そういうプレーで最後のいいトライに自分が参加したというのは思い出に残ります。 このトライをして、当時キャプテンの永友のキックが決まって、同点。トライ数の差でサントリーが日本選手権に進むことになりました。それから神戸製鋼の8連覇を止めた試合も同点でした。この大会、1つ前の準々決勝で神戸製鋼と当たりここも同点でトライ数の差でサントリーが準決勝に進みました。

—— 8連覇のかかった神戸に勝った準々決勝もかなり嬉しかったですか?

嬉しかったですね。相手は7年間優勝し続けていたチームですからね。劇的でしたね。

—— この試合に臨む前は絶対に8連覇を阻止すると思っていたんですか?

その前の年の最後の試合の相手が確か神戸製鋼でした。その時はトライ数は上回ってたんですが、点数で負けていました。清宮さんがキャプテンの3年目だったかと思います。いい試合をしました。

この初優勝のシーズンは東日本リーグでも結構負けたりしていました。初めて今のシステムが導入された年だったんです。それまでは、社会人選手権に出ても、初めから負ければ終わりというトーナメント方式だったんですが、この年から初めてA、B、C、Dのプールが設けられて、プールで勝ち抜いた上位チームが決勝トーナメントに進出という形になりました。正月早々の1月6日、予選プールでトヨタに50点か60点くらい取られて負けたんですけど、そこからみんなで話し合って合宿で立て直そうとやりました。

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◆かなり上出来なトライ

—— 日本代表としての思い出はどうですか?

個人的にいちばん思い出に残っている試合は、99年のワールドカップイヤーのパシフィックリム大会のカナダ戦で、秩父宮でやった試合です。僕が98年に代表に選ばれてから、ずっと先発で出ていたんですが、東芝の3番の笠井(建志)選手がまだ社会人1年目の年で、若くて僕より大きくて運動神経の良い選手で、初めて笠井が先発で出て僕がリザーブに回った試合です。

笠井選手が出ている前半を見ていたんですが、僕が重きを置いているスクラムでなかなか結果が出ていなくて、どっちかというと押し込まれる場面が多くて、チームメイトのそういうのを喜ぶのはよくないかもしれないですけど、僕にとってはライバルなんで、チャンスが回ってきたら彼より良いプレーをしよう、良いスクラムを組もうという思いでずっと前半を見てて、そうしたら後半入ってしばらくしてチャンスが回ってきて、その時は坂田もリザーブだったんですが、一緒に入ることになって、慎(長谷川)がフッカーから1番になってフロントローは長谷川-坂田-僕の3人になったんです。

その試合は結構競った試合で、終盤でこのスクラムを取ったら大きく流れが変わるという一番の見せ場の場面がやってきました。秩父宮ラグビー場の神宮球場側でメインスタンド前の5mと10mの間くらいでした。サントリーのメンバーがみんな応援に来ていてその目の前でした。そこでかなり上出来な、ベストじゃないかというくらいのスクラムを組んで試合も勝ったんです。当時現役だった永友に「初めてスクラムがカッコイイと思った」と言われたことが印象に残ってます。

—— 当時のカナダはなかなか勝てない相手だったんですか?

そうですね。その前の年もぼちぼちいいゲームはしたものの勝てなかったんじゃないかなと思います。

—— コーチになったのは何年前ですか?

今年でコーチ5年目です。トップリーグが始まった年からコーチになりました。

—— トップリーグを選手でやりたいとは思いませんでしたか?

もちろん思いました。

—— その気持ちはどうやって整理しましたか?

自分で考えて引退を決めた後だったんです。何となく話は聞いていたんですが、いざ始まってトップリーグを近くで見るようになってやっぱり出たいと思いました。

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◆自分らしくないな

—— 選手からコーチになる上で大変だったことはなんですか?

やはり初めはすんなりは行かなかったですね。自分の中での気持ちの整理もそんなに上手くはいかなかったし、ずっと今までワイワイ一緒にやってきた選手と、ポンと線引いて違う立場になるというのに、すごく戸惑いました。まして僕の場合ラグビーの技術といったらスクラムのところだけで、プロップとしてスクラムは負けたくないという気持ちはありましたけど、アスリートとして、とかフットボーラーとしての能力は全然持ってなかったですからね。今でこそコーチとしてのあり方をある程度わかってきたつもりですけど、やはり初めの頃は無理していた部分もありましたね。

—— 今シーズンから長谷川慎コーチが加わりフォワードコーチが2人になりましたが、当時はどうだったんですか?

僕らの時はフォワードコーチはいませんでした。慎と坂田と今サントリーフーズのコーチをしている中里さんとか、そういう先輩方と自分たちで相談していました。特に慎と坂田とはよくしゃべっていました。誰かがこうしろということはありませんでした。たまにオーストラリアから外国人コーチが来ることがあったくらいでした。

—— ということはフォワードコーチになった時にはお手本もなくかったんですね

そうですね。「こんなこともやらなあかんのかな、あんなこともやらなあかんのかな」と最初の頃は思いましたが、引き出しもそんなにないのに、あるような振りをしてもどっかで歪みが出てきますからね。初めの頃はそうなりがちだったんですが、途中で自分らしくないなと思うほど、すごく硬い感じになっていました。永友監督も1年目でしたし、僕も初めてだったし、今はいい思い出ですけど、2年目、3年目で変わっていきましたね。

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—— 選手からコーチに変わって面白いと思ったことは?

コーチとしての面白さはやはり結果が出た時ですね。特にスクラムは勝ち負けがはっきりしますからね。それからこれはコーチだけじゃなくて、「相手がラインアウトでこんなのやってくるぞ」というのをBチームに話して、Bチームが仮想相手チームとなって練習したりして、それが当たって喜んでいる時は、すごく一体感を感じて幸せに思います。

体ができるんであれば選手でやっていた方が幸せだと思います。長谷川慎を見たら僕が「年寄りだ」とか「ベテランだ」といわれていた時を超えているんで、僕なんて年寄りぶって「体ぼろぼろだ」とか言って、当時は最年長だったんでそんなことも何となく通ってましたけど、彼らを見ていてもっと出来たら幸せだったのかなとも思います。

当時はラグビーの引退といったら28歳位が普通で、30になったらベテランでした。今では30代もゴロゴロいますが、そういう時代だったんで引退して家に帰って・・・と思っていたらさっきの話の通り優勝しちゃいまして、日本代表にも選ばれちゃって、自分でも嬉しい誤算というか想像してなかった方に進んでいます。

—— そうすると選手を辞める時はひとつのタイミングでしたね。

そうですね、辞めようと思っていましたが、永友も一緒に辞めると言っていたんですが、監督になることになって「一緒にやってほしい」と言われました。僕1つ下なんですが、初めて優勝した時のキャプテンですし、ずっと勝てなかったことも知っているし、優勝した後の勝てなかった時代も知っているし、ずっと一緒にやってきたかっこよくいえば"戦友"じゃないですけど、サントリーのいろんなこと知っている仲間なんで、一緒にやってきた仲間って楽しかったことも苦しかったことも共にしてきた人が、必要としてくれてるのは幸せなことだなと思いました。嫁さんにも「たくさんやりたいと思ってる人がいるんじゃないの?」と言われて、京都の親父にも「お前、断ったら承知せえへんぞ!すぐ返事せえ!もったいぶるような真似すんな」と言われて決めました。

—— 清宮監督になった時もやってくれと言われたんですか?

「やってくれ」なんて言われません。「やるぞ」です。上井草のスパゲッティ屋で言われました。清宮さんに「今年もやるぞ」と言われた時は嬉しかったですね。

◆直人の時間

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—— サンゴリアスの中ではよく泣く方ですね

コーチになってからはちょっと減ったかも知れないですけど、よく泣きますね。でもチームがいちばん強かった時にコーチになって、まだ優勝していません。本当に嬉しいのはそこだろうなと思いますね。コーチというポジションで優勝したいですけどね。

—— サンゴリアスの笑いのリーダーでもありますが、もともとそういうキャラなんですか?

そうですね。岐路に立った時、どちらに行こうか悩んだ時は笑える方に行こうと決めています。全然笑えない時もありますが、自分の人生、いっぱい笑える人生にしたいなあと思います。コーチ1年目の時はその気持ちが少しなくなりかけていました。

昔からそうなんです。小学生の時からそうです。小学校では誰かが転校するとなった時には、"直人の時間"になって、転校する友達を送り出すためにいつも前に出て何かしていました。修学旅行でもホテルの館内放送で先生に呼び出されて、「何怒られるのかな?」と思って行ったら「先生たちの前で歌を歌え!」って言われて、近藤真彦の真似して歌わされました。館内放送聴いた他の生徒達も先生たちが集まっていた宴会場の廊下にみんな集まっていて、覗いて見ていたそうです(笑)。

—— そういう自分のキャラを発見したのはいつですか?

別に発見も何もないですね。そういう役割と感じているわけでもないですし、家柄がお店・酒屋をやっていていろんな人が出入りしていましたし、親父もラグビーしていましたし、昔のラグビー選手ちゃらんぽらんな人多いんでね、そういう豪快な人がたくさん周りにいたんで、その影響がすごくあるんだと思います。

—— ご兄弟もそうですか?

妹と弟がいますが、妹の結婚式で弟と漫才をやったこともあります。妹はむちゃくちゃ泣いていました。弟は若干まともかも知れませんが母もすごく賑やかなひとで、父もむちゃくちゃです。父はラグビーでも自称日本代表、ずっと日本代表だったんだぞと言われて育ちましたけど、実は違いました(笑)。気づいた時は「ちゃうやんけ!」って言う感じでした。有賀(剛)のように親子で日本代表かと思ったら、親父が違ってたというオチですね。最終的には関西代表だったみたいですが、親父の言い分では「当時は関西代表が日本代表みたいなもんや」と言ってました(笑)。

—— そうすると小学校の頃は?

ちょっとぽっちゃりした肥満気味な感じでした。力を発揮することもなく、少年野球も何もやっていなかったです。ラグビースクールちょろっと行ったことありましたけどね。卓球部に2週間くらい入ったこともありましたけど、女の子相手でも球に当たらないし、ユニフォームが届いた日に辞めました。小学校の頃は、今僕らがやっているラグビーのキッズアカデミーなどのイベントに来たら「なんやこいつ」と思うような子でした。ぽっちゃりしててニコニコしてて陰でちょこっと見つからないように悪いことするような子だったかも知れません。あまり覚えていませんけどね。

—— 運動を始めたのはいつですか?

中学で柔道を始めました。これがものすごく大きな転機でした。ラグビー部はありませんでした。京都では1、2を争う道場で、ある日帰ったら親父が申し込んできたということで、嫌ですごく抵抗したんですけど無理やり行かされることになって、行き始めたらすごい楽しくてはまりました。体もすごく大きくなってきて、勝つ面白さを知りました。

そこで少し男らしくなったのかもしれませんね。陰でこそこそするようなことを恥ずかしく思うようになって、成長させてくれましたね。その頃は坊主頭で初めて髪を伸ばしたのは大学生の頃でしたね。こんなに無くなるならもうちょっと伸ばしておけば良かったですね(笑)。結局ずっと坊主でちょこっと何年か伸ばしたらまた坊主みたいにスカスカになってきましたからね(笑)。

(続く)

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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)

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