SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2007年7月18日

#97 若井 正樹 コンディショニングコーチ 『生きている間にワラビーズを倒したい』

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—— サントリーに去年の5月に入りましたが、きっかけは?

もともと、「ブックハウスHD」という出版社で働いていました。月刊トレーニング・ジャーナル編集部で正社員としてちょうど4か月目ぐらいの時期でした。そこで新しいプロジェクトをしようとしていまして、その仕事の関係でオーストラリアに行った時に高澤祐治先生(チームドクター)の存在を知りました。祐治先生はオーストラリアのワラビーズに帯同していたことがあるとのこと。僕の友達であり早稲田大学ラグビー部の学生トレーナーだった、大塚潔君という人がいて、現在はクイーンズランドレッズでスタッフとして働いているのですが、彼を通じて祐治先生を紹介してもらえないかと頼んだところ、いきなり「ちょうどサントリーのとあるポジションが空いているので手伝ってくれないか」というメールを先生から頂きました。それが出版社に入って8か月目、正社員として働き始めて5か月目のことでした。

とは言え、当然、出版社の社長の許可が必要でした。社長に許可をもらいに行ったら「編集者という立場でコーチ業をするのは無理だ」と言われました。当たり前ですね。その後いろいろ話し合った結果、円満退社という形を取らせていただきサントリーに入りました。

—— サントリーとはプロ契約ですか?

そうですね、単年契約ですが、契約上は契約社員です。

—— 「ブックハウスHD」でもやりたいことはあったんですね?

雑誌という媒体を使ってトレーニング業界、スポーツ業界を盛り上げたいと思っていました。また、僕が企画したプロジェクトなどもあって、そこを中途半端のまま出てしまうというのが申し訳ないなという思いでした。しかし、もともとオーストラリアでやってきたことが現場のことが中心だったので、いろいろ話し合った末に、あるプロジェクトは僕が継続して行い、あるプロジェクトは引き継ぐという形をとらせて頂きました。

—— 「ブックハウスHD」にはどうして入ったんですか?

僕がオーストラリアから帰ってきたのが2005年の4月くらいで、それも帰ってきたくて帰ってきたのではなく、ちょっとしたアクシデントがあってとりあえず帰国したのですが、日本で何をしようかと考えているうちに半年近く経ってしまいました。そうこうしていると、トレーニング・ジャーナルの編集部の方が「うちで翻訳の仕事をやってみないか」ということで、3か月間アルバイトで入ってみました。その翻訳の仕事が出版社からなくなった時に、「若井さん、君はものが書けるのか?」と言われて「いや、原稿は書いたことはありませんが...」と言うと、「トレーニング・ジャーナルの編集部でやってみるか?」と言われて正社員になりました。正社員になってとりあえず書いてみると「まあまあじゃないか...、ただ、書くスピードがこんなに遅くては仕事にならないよ」という評価を頂き、腰を据えてやってみるかというところでした。今でも、社長をはじめ、出版社の方々には感謝しています。いろいろ教えて頂きましたからね。

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◆オーストラリアに10年

—— オーストラリアにはどれくらい行っていたんですか?

10年です。日本で大学(神奈川工科大学)を3年まで行って、休学して少しバイトをして(しかし、全然お金が貯まらず...)94年の10月に初渡豪しました。初めは8か月行きました。高校からラグビーを始めて、大学ではクラブチームでやっていたんですが、やはり第1回、第2回ワールドカップを見て、オーストラリアはすごいなと思っていました。それまで強いと思っていた日本が負けて、第2回大会は確かオーストラリアが優勝したんですが、それで行ってみたい気持ちになりました。

休学して親の猛反対を押し切ってオーストラリアへ行きました。まずは英語が全く話せなかったので、キャンベラ大学付属の語学学校に行きました。キャンベラへ行ったというのも、僕が東京生まれで東京育ちなので、「首都に行けば何とか生活できるだろう」と思っていたからです。行ってみたらキャンベラには何もなくてびっくりしました。初めてホームシックにかかって、まったくとんでもないところにやってきたもんだと思っていました。当時は携帯もないですし、Eメールもないですし、日本人なんてほとんどいない田舎でほんとに大変でした。それが22歳の時です。

—— 何をしようと思って行ったんですか?

ラグビーをしようと思って行きました。しかし10月でちょうどラグビーシーズンが終わったところでした。行ったら誰もラグビーをやっていないんですよ。日本では比較的1年中やっているじゃないですか。「こんなんでいいのか、オーストラリア!」と思いながらも、他の国の人と出会うことが楽しくて、少しずつ英語を勉強しました。日本へ帰ろうとは思いませんでした。7か月で帰ったというのは、日本の大学の休学が1年間だったので、次の年の4月からまた始まるので戻らなければならなかった事情からです。

親にはこのままオーストラリアでスポーツ科学の勉強をしたいと言ったんですが、「馬鹿なことを言ってるんじゃない、英語もろくすっぽできないのに何が大学で勉強だ!」と言われ渋々帰ってきました。4月から大学は始まっていたんですが、帰ってきたのはゴールデンウィーク頃でした。担当の教官にも助けられ、研究して論文を書いて、なんとか翌年の3月に卒業できました。その後就職活動も全くせず、また懲りずにオーストラリアに飛び立ちました。

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—— 今度は何を目標に行ったんですか?

今度は大学に入って、運動・スポーツ科学というものをしっかり学びたいと思いました。まずは英語力を付けなければならなかったので語学学校に入りました。半年くらいして後期からウーロンゴン大学に入りました。そして、大学のラグビー部にも入りました。日本のクラブレベルからオーストラリアに行ってプレーしたわけですから、最初は死んでしまうかと思いました(笑)。

向こうでは大学ラグビーという形ではありませんでした。大学自体が確か46校くらいしかありません。対戦相手は、地区の中のラグビークラブです。ウーロンゴン大学ラグビークラブが所属していたイラワラ地区のコンペティションは、10クラブがホームアンドアウェイ方式で年間18試合行って、上位4チームがプレーオフに進出するという形でした。

—— ポジションはどこをやっていたんですか?

フランカーをやっていました。他の選手はみんな大きかったですね。ただそこのホジションしかできなかったので...。初めは4軍からスタートして、1年目に2軍で2試合ぐらい出させてもらいました。その時の1軍のコーチが元ワラビーズのピーター・ローズという人で、今までしっかりとした指導者がいるところでラグビーをしたことがなかったので、そういう人が監督のチームでラグビーができることがすごく楽しく思いました。1年目が終わった時にラグビーを始めて初めて賞をもらいました。「トレーナー・オブ・ザ・イヤー」という賞で、そのシーズン最もハードに率先してやったプレーヤーに与えられる賞です。それが嬉しくて嬉しくて...すべての間違いの始まりでもありました(笑)。「また来年もやろう、オーストラリアにずっといよう」と思ってしまいました。

◆習慣性脱臼

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—— 大学では勉強は?

泣きながらやりました。日本で工学部だったので、向こうに行って学部からやり直しました。運動・スポーツ科学というのは医学的なことも多くて解剖学とか生理学とかです。人体解剖なんかもやらなくちゃいけないんですよ。何とかコースを3年間で終えました。ラグビーはそこの大学で4シーズンやりました。

肩の習慣性脱臼でずっと悩まされていていました。両方の肩が完全脱臼しちゃうんです。きっかけは高校1年で、まだ体ができていない時に3年生の先輩にタックルして脱臼して、それから脱臼を繰り返すようになって、しまいには、両肩脱臼するようになってしまい、高校3年生の時に右の肩を手術しました。

その後、1年間浪人したのでラグビーをしなかったんですが、またラグビーを始めてタックルをしたら、手術した方の肩が外れてしまいました。どうしようか医者に相談した時に「君はラグビーで飯を食っていくのか?」と言われました。2回目の手術をしてまた外れるようなことがあると最悪なので、「外れない程度にやりなさい」ということを言われました。その後オーストラリアに行ってからも両肩にテーピングをして「お前はミイラか?」なんて言われながらやっていましたが、あまりにも脱臼を繰り返す私に見かねた理学療法士が肩の専門医に会わせてくれました。そうすると、「手術した方がいいよ」ということで右肩をオーストラリアで手術しました。それが2シーズン目で、1試合しか出られませんでした。

そのクラブで1軍として出場したことは4シーズンで1回だけしかなく、しかも途中出場でした。やはり実力がなかったのかなと思います。

—— 卒業して、その後は?

ウーロンゴン大学では、ヒューマン・ムーブメント・サイエンス(身体動作科学)というコースを学び学士を取りました。それをもとに次どうするかということで、シドニー大学の大学院へ行って運動・スポーツに関することを研究したいと思いました。それでシドニー大学の門をたたくと、あるバイオメカニクスの先生が「君の面倒を見るよ」と言ってくれて、もともと機械工学が専門で運動科学の勉強をしたので、それを合わせて"スポーツバイオメカニクス"の研究をすることを勧められました。

99年の8月に修士課程として大学院に入り、翌年に博士課程にアップグレードして研究活動をしていました。ラグビークラブもシドニーに移ることにしました。シドニーには70ぐらいラグビークラブあるんですが、プレミアリーグ所属のクラブでは1、2軍で出場するのが難しいかなと思って、NSWサバーバンラグビー協会1部のクラブでやることに決め、まずはメールを送りました。すると「練習に来いよ」って返ってきて、そこでまた1から始めました。6軍からのスタートでした。そこのクラブでは5シーズンプレーをしました。大学院では4年半研究しましたが終了していません。

◆日本に持って帰りたい

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—— コーチを始めたのはいつごろですか?

シドニーでは、シドニー西部ストラスフィールドにあるセントパトリックス・ラグビークラブというクラブに所属していました。たまたまセントパトリックスのフィットネスコーチ、ジョン・プライア、がACTブランビーズのスピードコーチをしていたので、彼のところに行って、「僕はあなたのようなことを仕事にしたいんだ。僕を雇ってくれないか。あなたのノウハウを日本に持って帰りたいんだ」と言うと、「ブランビーズに連れてってやる」「職業経験を積ませてやる」ということで、彼の会社のスタッフということで、ACTブランビーズで研修スタッフとして経験を積ませてもらいました。2004年のことです。

トレーニングコーチの資格は2000年にアメリカのものを取りました。NSCA(ナショナル・ストレングス・アンド・コンディショニング・アソシエーション)という団体があって、世界で資格を発行しています。オーストラリアでも試験があって、それを受けて合格しました。選手ではなく「そういう関わり方も今後あるのかな」と思い始めていていた頃です。自分自身も怪我が多かったので、そういう面にも興味はありました。いちばんの大きな出会いは、やはりジョン・プライアとの出会いです。彼は、ACTブランビーズを経て、現在ワラビーズのストレングス&コンディショニングコーチを務めています。彼の会社に入って、彼の荷物持ちみたいな感じでつき添って、朝から晩までずっと一緒にくっついて勉強しました。

大学院の方は3年目で指導教官がイングランドの大学へ移ってしまったのですが、4年半かけて何とか論文を完成させて提出しました。博士論文は3人の審査官が評価するんですが、3人中2人は合格だったんですが、1人が不合格を出しました。

大学としての答えは「その不合格を出した審査官の先生が言うように1年以上再研究して、再提出しなさい」ということでした。結果に納得がいかなかったので大学に対してアピールすることにしました。3年間指導してくれた前の指導教官も君がやった研究は博士課程に値するということで。ただ、時間ばかりが過ぎていきましたね。

その結果が出るまでに最終的に2年近くかかりましたが、結局アピールは大学に却下されました。その時期は心身ともに疲れました。ただ、自分の論文は3人の審査官全員を納得させられなかった。何かが足りなかったんだなと今は思います。最終結果を待っている間はすでに日本に帰国していたので、仕事が見つかるまで親父の設計事務所に出入りし、そこで過ごしてました。10年も留守にしていたので、そのときはよく親父と話しましたね。親父が亡くなる前に言われたことが「学位に執着するな」です。

◆人の3倍時間をかけて

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—— 長い間オーストラリアにいて大変だったことは何ですか?

嫌な思いをしたりはしなかったですが、英語ができなかったので、大学では「何で英語ができないやつがここにいるんだ?」という目で見られたりはしました。内容がわかっていないという訳じゃないんですが、いかんせん自分が思っていることをうまく伝えられなかったですね。それでもプレゼンテーションなどがある時はある程度準備してできるんですが、言われたことに即座に回答するといったことが難しかったですね。ただでさえ専門的な言葉が多く飛び交っているので、だんまりしていたのかなと思います。

—— どのようにそれを乗り越えてきましたか?後に続く人へのアドバイスは?

評価になるのは試験の点数だったり、プレゼンテーションの評価なので、そういうものは準備する期間があるので人の3倍ぐらい時間をかけてやって点数を取っていました。そういう意味で、何かやりたいことがあるという人には一生懸命頑張ってほしいと思います。やらないまま、モヤモヤしていたらきっと後悔すると思います。できるかできないかは置いといて、厳しい中に入ってとりあえずやってみるということが大事だと思います。たとえそれで失敗したとしても、自分で決断したんだったら後悔はしないと思います。

—— コミュニケーションを取ることに対しては積極的に見えます

テクニックはなかったですが、精神的な苦はなかったですね。どこでも自分が行きたいと思ったところには行くという気持ちが強かったです。

—— いちばんの思い出に残っていることは?

ラグビーの遠征でフィジー遠征がありました。シドニーで入ったラグビークラブの40%くらいがフィジー人でしたし、そのチームで2001年に行きました。フィジーに行って3試合しましたが、1試合目はフィジーアカデミーというフィジーの21歳以下の有望な選手が集まったチームと試合をしました。それでまたレベルの違いを感じました。

チームは負けたものの、それでも接戦をしました。2試合目はレワ州代表と試合をして、上手い人は世の中にたくさんいるんだなと痛感しました。3試合目はフィジーのスバにあるナショナルスタジアムでスバ州プレミアリーグのロマビティというチームと対戦しました。その遠征中、学校へ子どもにラグビーを教えに行ったり、病院に出向いて寄付を行ったりといった活動をして、すごく勉強になりました。その後オーストラリアに戻ってきた時には、またやる気がみなぎっていました。

◆より強くなってグラウンドに帰ってほしい

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—— そもそも高校からラグビーをやり始めたのは?

小学校では野球と水泳、中学では野球をしていました。。水泳は親に勧められて始めましたが、野球は自分が好きで始めました。野球は高校では通用しないだろうなと思っていて、高校に入って何をしようかなと思っていた時に、たまたまテレビで高校ラグビーの東京都の決勝か何かをやっていて、もともと格闘技が好きだったし、チームでワイワイやっている方が好きだったので、ラグビーをやってみようと思いました。都立千歳丘高校です。あまり強くなかったんですが、ラグビー部のある都立高校でした。入った時は体重が64kgくらいしかなくて、フォワードをやりたいと言ったら無理だと言われました。高校卒業する時も68kgくらいでしたね。

—— そのラグビーで、社会人チームのコーチという職業をやってみてどうですか?

僕は、今メディカルスタッフの一人なんですが、僕が学んできたことはフィジカルという部分で、怪我をしていない人へのトレーニング手法なので、初めは戸惑いもありました。ただ僕は手術の経験が5回あって、そういう自分の経験と、山本(和宏/理学療法士)さんにアドバイスをもらったりして、リハビリやリコンディショニングをしています。

初期のリハビリは山本さんがして、ある程度痛みがなくなってきた頃のリハビリやリコンディショニンングを僕がやって、選手をグランドに戻してあげるというシステムです。他のチームはその辺をトレーナーがすべてやっているところが多いでしょうね。オーストラリアでもトレーニングコーチと理学療法士の組み合わせです。理学療法士がある程度痛みのなくなるところまで見て、トレーニングコーチに渡してリコンディショニングさせてチームの中に戻すという形です。サントリーではそれが僕と山本さんですね。

ラグビーというのはいつも怪我と隣り合わせで、みんな怪我をしたくてしているわけではないので、コンディショニングコーチとして受け持った選手は、精神的にも肉体的にもより強くなってグラウンドに帰ってほしいなと思って、いろいろ工夫しながらやっています。やはりメディカルということで、チームの中で一番やりとりしなければならない相手は山本さんなんですが、お互いに頑固オヤジなんでぶつかることもしばしばなんです。それが悪いかと言ったらそうではないと思います。お互い専門家として意見が違うということもありだと思います。お互いに信頼していますのでいい関係だと思います。

—— 驚いたことはありますか?

日本のラグビーチームはすごいなと思います。チームドクターが2人いて、トレーナーが2人いて、PT(理学療法士)がいて、僕(コンディショニングコーチ)がいて、ストレングスコーチがいるわけじゃないですか。怪我をしたらすぐトレーナーが来て初期の治療をして、リハビリテーションという過程に乗っかっていくというシステムがすごいなと思います。

—— 気をつけていることは?

リハビリ中の再受傷というのは絶対にあってはいけないので、僕のトレーニングの最中にそういうことがないように気をつけています。選手は「もっとできる」と言っても「今日はここまで」というコントロールも僕の仕事ですし、逆に「できない」という選手に「もう少しできる」と言ってやらせることも僕の仕事です。トレーナーの意見と、理学療法士の意見と、医者の意見と、受傷してからの経過日数など、すべての情報と今の動きを見て判断しています。

◆ラグビーを通していろいろな出会い

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—— 2年目の目標は?

2年目というよりも、今も継続して見ている選手がいますので、その選手たちを早く復帰させるということですね。選手は怪我をすると文句の一つも言いたくなると思うんですが、そういう中でも選手がリハビリやリコンディショニングに励んで、逆に強くなって戻っていくという流れを作っていきたいですね。

—— メディカルスタッフ同士でのコミュニケーションは?

ミーティングはよくしますね。選手の状況や受傷状況など色々話します。

—— なぜラグビーが好きですか?

一言じゃ言い表わせないですね。今後トレーニングコーチとして他のスポーツを指導することもあるかもしれませんが、今は自分が好きなラグビーでコーチができていることは非常に嬉しいですね。ラグビーを通していろいろな出会いがあったことが印象深く、楽しかった思い出です。フィジーに行った時も、初めて会った人と体をぶつけて戦って、その後ファンクションでうち解けて友情を深めるという、ラグビー独特の文化ですね。それがすごくいいと思います。

—— 今サントリーにいるという喜びは?

清宮さんの下で働けるということですね。やはり優秀な方なので、いろいろ学ばせて頂いています。トップの人間がどうやってチームをまとめていくか、それに加えて日本のラグビー全体のことを考えていて、世界にも目が向いている、すごいと思います。僕も生きてる間にワラビーズ(オーストラリア代表チーム)を倒したいと思いますし、日本のスポーツの競技力向上に少しでも貢献できればと思っています。短期の目標としては去年負けていますからね、今任されているポジションで200%頑張って、優勝したいですね。

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(インタビュー&構成:針谷和昌/編集:植田悠太)

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