2006年12月26日
#65 高谷 順二 『タックル!生きる道はこれしかない!』
◆おじさんの薦め
—— 長崎県出身者はサンゴリアスに多いですね
はい、僕は山口大輔さんの後輩で、高校が一緒です。長崎北陽台高校。心さん(菅藤)は浩二(平)の先輩で南山高校です。その頃は長崎県内ではラグビーは4つの高校が強くて、ぜんぶで20~30校はやってると思うんですが、その2つの高校と海星、長崎北が争ってました。今はまた変わってきてるかも知れませんが、勢力が4校に分散しているので、花園では勝てないけれど、国体は強かったんです。大輔さんの時は花園でも準優勝してますけど。
—— ラグビーを始めたのは何歳からですか?
小学校1年です。おじさんの薦めで、勝手に入れられた感じです。おじさんの息子、いとこがスクールでラグビーをやっていて、そこに入れられました。2年の時に暇だったのか、2つ上の僕の兄貴がそのスクールに入ってきました。浩二は3年の時に入ってきました。浩二はウイング、僕はスタンドオフ、小学校ではずっと一緒にラグビーをやって、中学でも何回か試合しました。
—— その頃からラグビーは面白かったんですか?
サッカーにはまり込んでました(笑)。小学校のサッカー部は友達がいっぱいいて面 白いんです。でもサッカーセンスが僕にはなかった(笑)。球技のセンスがないんで すよ。サッカーではドリブルができなくて、直線的な蹴り、ボーンと蹴ってそこへドー ッと行って、という感じでした。身長が高くてヘディングが活かせるので、フォワー ドをやっていましたけど。
ラグビーはいやいやながら続けてましたが、結局はサッカーの方が面白かったんです。いつも学校で一緒にいる友達とできるというところが良くて、ラグビーは遠いところに行かなきゃいけないし、日曜がつぶれるし、ほんといやいやでしたね(笑)。
◆兄貴がキャプテン
—— でも中学でも続けたんですね
中学(横尾中学)では兄貴が3年でラグビー部のキャプテンをやってました。小学校の頃は後から入ってきた兄貴でしたが、まぁ親父もはまってましたから。子供たちのラグビーを見ているのが楽しいみたいです。それとお父さん同士、知り合いになれるのも楽しかったようです。あまりそういうことは言わなかったですが、そう思います。親父はそれほどスポーツをやっていたわけではなく、高校時代にバスケをやっていたくらいだと思います。
—— そうすると試合には見に来てくれるんですね
見に来ます。今はまた長崎ですが、僕が大学(慶應大学)時代にたまたま転勤でこっちに来ていて家族で一緒になった時期があったので、その時は結構見に来てました。
—— 中学で続けた理由は?
兄貴に誘われましたし、コーチや監督からも誘われました。学校でやる、ということは好きだったんで、迷わず入りました。面白いじゃないですか、学校でやった方が。
1年ではウイング、2、3年ではセンターでした。最初はそんなに強くないチームでしたけど、面白かったですよ、学年が上がるごとに強くなっていきましたから。そういうの面白いでしょう?同期は10人ぐらいいました。
この時は球技のセンスがないとは思ってなくて(笑)、体がデカくて、170cm台の後半でしたから、もうその頃。それで1年生ですぐ使ってくれるというコーチの話もありました。そして兄貴のことを尊敬してましたから、ラグビー部に入りました。
兄貴はあまり器用な方じゃなかったんですが、ものすごいタックルをやったんです。体も大きくなくて、今173cmぐらいですが、すごいタックルでした。
◆蹴る人
—— ではそのお兄さんにいろいろと教わったんですか?
いえ、兄貴には教わることはなかったです。休みの日に公園に行って、ポールを自分で立ててキックの練習をしてました。山から横棒にちょうどいい木をとってきて、木に登って、ゴールポストぐらいのところにその横棒を掛けて、1人でキック練習してました。
その時はキックが得意だと思ってましたし(笑)、試合でもぜんぶ蹴ってましたね。タッチキックも含めて、"蹴る人"でした。他に蹴る人いなかったんです。
—— 高校でもお兄さんが待っていたんですか?
はい、高校でも兄貴はラグビーをやっていて、センターでした。兄貴がやっているので、僕もラグビーをやることに決めました。兄貴は高校でもキャプテンでした。僕は「ナンバーエイトにして、使うから」と監督に言われて入ったんですが、入ってきたらロックが空いていて、それでロックをやることになってフォワードに転向したんです。ロックで1年から試合に出ていました。
—— どうでしたか?フォワードは?
それまでとまったく違いますからね、フォワードの方がしんどいと最初は思いました。フォワードはこんなことやってんだ、と思いましたよ。いちばんきついところにガツガツ行って、ロックはその真ん中でプレーする役目です。バックスは華があるし、目立ちますもんね、それと全然違います。
—— 目立ちたいんですか?
そーすね、やってる限りは(笑)。
◆花園に兄弟で出た
—— 高校ラグビーの思い出は?
花園に兄貴と一緒に兄弟で出たことです。出たいというのはずっとありましたから、嬉しかったですよ。1回戦で負けたけど、いい思い出ですし「がんばろー!」と思いましたもんね。2年の時には浩二たちのところに負けて、3年では長崎北が花園に行きました。
—— お兄さんと同じキャプテンはやったんですか?
2、3年の時は周りの人たちが頼ってくれました。それで3年でキャプテンをやりました。ポジションは2、3年ではナンバーエイトです。
—— じゃあ目立つところに戻ったんですね?
いいっすよ(笑)、すごい目立ちますもん(笑)。すごい自由に動けるし、バックスのラインに入ろうと思えば入れるし、面白かったですよ、すごく。
—— さて大学です、お兄さんはまた先に入って待ってましたか?
兄貴は待ってなかった(笑)。兄貴は先生になりたくて、大阪教育大に行きました。ラグビーは下のリーグ、関西2部リーグで続けていました。
—— そこが変わったとこですね
ここで変わりました。兄貴が通ったレールの上をずーっと来てましたが、ここで考えた結果、慶應を受けました。大学は慶應しか受けてません。他の大学、早稲田は練習がきついと聞いていたし、明治は厳しい、筑波はいいけど田舎だから嫌だなと、話がきたところを消していったら、慶應いいじゃん、みたいな感じでした(笑)。
◆夜な夜なベランダに出て
—— その慶應はどうでしたか?
慶應では結構自由にやらせてもらいました。ポジションはフランカーで、1年生から試合に出ました。筑波戦が最初でしたね。
—— 大学で思い出に残る試合は?
大学で思い出に残っているのはいろいろありますが、試合ではいい思いをしてません。負けてますからね、慶應が落ち気味の時ですから。
—— フランカーとしてはどうでしたか?
フランカーは面白かったですよ。ナンバーエイトと違って、ずっとやってきたけど、ガツガツいける方が性に合ってたのかなぁ。でも試合にはずされて出れなくて、自分のプレースタイルを、夜な夜なベランダに出て考えました。
それで思ったんです。「あー!タックルだ!」と。それからタックルしかやらないと決めて、その次の試合がいちばんいい試合でした。2年の時の明治戦ですが、勝って自分もいい出来でしたが、脳しんとうであまり覚えてません。
でもこの試合で、タックル30本ぐらいいってました。そんなにいく人いないでしょう?もうタックルマシンになってました。それで味をしめて「生きる道はこれしかない!」みたいな感じでした。そういういちばん嫌なところをやる人は認められるんですよね。タックルにこだわり出してから、みんなが認めてくれました。
◆どれだけ低くいけるか
—— それから更にタックルに磨きをかけていったんでしょう?
3、4年で磨きがかかったんですかねぇ?天狗になってることもあったかも知れませんが、とにかくこれ1本だと思いました。他のことは考えず、これのスペシャリストになろうと思ったんです。4年では副キャプテンもやりました。
—— タックルのこつって何ですか?
人によってこれがいいとは限りませんが、いく時の気持ちと、低くいけば相手は倒れます。気持ちの上で腹をくくれば問題ないです。それを練習すれば、タックルは何とかなります。だから低さ、どれだけ低くいけるか、です。
僕は体が大きくなかったフランカー、当時183cmで80kgのフランカーでしたから、体をでかくすればいいんですけど、大学生だから食事もよくないし、それでタックルは低くしないと相手が倒れませんでした。
僕がプレッシャーをまずかけて、そこに第2弾としてみんなが出てきてくれればいい、そういうふうにチームのみんなにも言っていました。
◆やっぱりラグビーをやりたいな
—— 大学を卒業してサントリーに入ったのは?
いろいろと誘いはあったんですが、ラグビーをやる気はまったくなかったんです。大学2年の時から思っていました。ここまでやったんだから、もういいだろうって。大学では、まずレギュラーを、と思ってやっていたので、それを達成したのでそれ以上やるつもりはなかったんです。
だからU21代表の合宿に呼ばれたこともあるんですが、上でやらないつもりだったので、肩書きを持っていてもしょうがないなと思って、行かなかったんです。そうしたらそれが最後で、断ったら2度と呼ばれなかったですね。淋しい(笑)。すみませんでした、あの時は天狗でした。あの時は考えが甘かった、そんな感じです。
それで最初は普通の会社へ行きたくて就職活動をしていて、希望するところの内定が出ました。その2日後に大学の練習試合、紅白戦があって、慶應の日吉(神奈川県横浜市港北区)のグラウンドに、栗さん(栗原徹)とマットさん(林雅人コーチングコーディネーター/慶應大学コーチ)と稲垣さん(純一シニアアドバイザー)とエディさん(ジョーンズ/ゲクニカルアドバイザー)が来たんです。
エディさんはそれまでもたまに来てくれたりしてましたが、その紅白試合を見ててくれて、試合が終わった後マットさんに呼ばれて、稲垣さんとエディさんを紹介されて、エディさんが僕のことを「いい」と言ってくれたんです。すごく嬉しかった。でも就職が決まっていたので、サントリーでラグビーをやらないかというお誘いは、その場で断ったんです。そうしたら稲垣さんから「2か月待つから考えてくれ」と言われました。
その1週間後にマットさんと飯を食べて話しているうちに、「早く決めて早くラグビーをやりたかっただけじゃないの?」と言われたんです。つまり就職を早く決めて、大学のラグビー部の練習に早く戻ってきたかったんじゃないの?ってことです。
自分がラグビーをやりたいという気持ちを無視して、就職活動をしていたんじゃないのと言われて、そう言われればそうだなぁ、と思いましたし、だったらラグビーをやった方がいいと言われました。
それで次の日に内定が出ていた会社に断りに行ったんです。普通、怒るじゃないですか。それが向こうの人も「がんばってくれ!」って言ってくれたんです。「お前はサントリーから内定を貰ってるのか?」と聞かれたので、「貰ってないです」と事実を答えたら、「お前、馬鹿か?内定貰って断るならわかるが、でも、お前の馬鹿さに俺は惚れた。本当にラグビーで頑張ってくれ、うちを袖にして行くのだから、必ずスポットを浴びてくれ」と、握手までしてくれたんです。感動しましたね。その方には、今でも感謝してます。
そこで方向を変えたのは、やっぱり「ラグビーやりたいな」と思ったからです。自分は体もでかくならないしと、自分で限度を決めていたところがありました。でもマットさんとご飯食べた後、マットさんの家で飲んだんですが、バックミュージックに「瞳をとじて」(平井堅)なんかを流されて、熱い話をされたら、これで動かない人、いないっすよねぇ(笑)。
◆奇跡
—— そういういきさつがあって入ったサントリー、どうですか?
ラグビーをやって良かった、サントリーで良かった、と思ってます。去年入って、春の練習試合に下のチームで出て、夏に初めて上のチームで出してもらいました。フランカーで出て、肩を怪我したんですが頑張らなきゃということで我慢して、それからまた下のチームで練習試合に出ました。
それから風邪をひいて、監督の永友さん(洋司)に言いに行ったんですが、たまたま太一(田原)も一緒に風邪をひいていて2人で行ったら、永友さんが「今日は練習をやれ」と言うんです。それで練習やって、速攻で上がって病院へ行って点滴を打ったんですが、次の日のメンバー発表で、リザリザと呼ばれるリザーブのリザーブに選ばれたんです。
「あ、こういうことだったんだ」と思って、一生懸命風邪を治して、そうしたらその日の練習で、リザーブだった元さん(申騎)が怪我をして、僕が昇格してリザーブに入ったんです。奇跡でした。それで試合には後半20分ぐらいから出してもらって、それが自分として初めての公式戦だったんです。
その後、スロービデオで試合での自分のプレーを何度も見て、ここはこうできたんじゃないかとか、あそこはこうやればよかったとか、いろいろと研究しました。そんなことそれまでやったことなかったんですが、試合に出たことが嬉しくて、改善点を見つけたいと思いました。
試合の出来は気負った分があったので、まぁまぁの出来だったんではないでしょうか。タックルもそれなりでしたが、これといった見せ場はなかったですね。その後は3、4試合にリザリザに入っていました。でも誰も怪我しなかった(笑)。リザリザから上がることもなかったですし。
◆怪我の経歴
—— 今年は怪我が多いですが、これまでは?
ここまで怪我はほとんどないです。続けて1か月休んだことはありませんでした。それが今年は3月の半ばに、オール慶明戦に出て、開始3分でタックルにいって、足がポンと浮いたところを持ってかれて、内側靱帯を損傷、そしてそれがサントリーの監督も代わるタイミングでした。だからすぐ復帰しなきゃと思って、新チームの最初の練習までに治そうと頑張ったら、治りがほんとに早くて2~3週間で治ったんです。でもそこから怪我の経歴になっちゃいました。
4月の最初の紅白戦が最後のフランカーで、あとはずっとウイングだったんですが、右膝をやって、右腹の肋軟骨を痛め、右の眉を切って、ウィルス性腸炎になって、そして後十字靭帯断裂、これは6月8日の練習中にやりました。それがいちばん重かったんです。
それで、リハビリにも波があるんですよ、波が。波があって、いい感じでいってたんですけど、朗さん(浅田)、大輔さん(山口)も内側靭帯を一緒にやって復帰したんですが、それと同じ8月の夏合宿に復帰しようと思っていたけど間に合わず、夏の1次合宿(網走)と2次合宿(河口湖)の間に復帰したんです。
その日は府中で激しいコンタクト練習をやる日だったので、メニューを聞いてビビってたんですが、「今日復帰だから」と言われて、でもコンタクト練習からは抜けようと思っていました。それが抜けられなくなっちゃって、練習を始めてみたら最初のコンタクトの時に上手くいけるという手応えがあったんで続けたら、2回目で「バキッ」と音がして、ズレた感じがしました。
それで1週間は安静にしてて、気持ちも落ちてやる気も出ませんでした。皆と顔を合わせたくなくて、先にグラウンドに来て先にリハビリして、ケアを受けて帰りました。それが8月でした。それで9月の下旬ごろからまたコンタクト練習ができるように、復帰目指してやっていこうと思ってたんですが、あせってしまっていて。ちょうどその頃キヨさん(田中澄憲)も復帰する時だったんで、自分も「やってみましょうよ」と言ってコンタクト練習をやったんです。
いい感じでできてたんですが、また「バキッ」と音がして、3回目の怪我でした。その時は手術も考えたりして、どうしようという状況だったんですが、膝の名医に見てもらって、半年のスパンで考えましょう、つまり最初にやった6月から半年はかかるつもりで治しましょう、ということになりました。そして現在に至ります。今はいい感じですね。このリハビリではいろいろ考えましたし、自分のためにもなったと思います。
◆見る視点が違う
まだ治ってないのに言うことではないのかも知れませんが、この経験によって、周りをよく見るようになりました。そして怪我した人への気の遣い方、接し方に敏感になりました。それまでは怪我したことがなかったから、そういうことに気がつきませんでした。
その感覚は、プレーに対してもあって、プレー自体も変わるというか、人がやっているプレーを見てても、今は見る視点が違うんです。これまでは練習をやっているのを外で見てる時、自分のポジションばかり追っ掛けて見てたんですが、今はフラットの状態になって、全体を考えて見ることができるようになりました。
そうすると、あそここうすればいいのに、と思えたりして、実際プレーしてみてどういうふうにそれが活かされていくのかまだわかりませんが、全体が見えるということはいいことだと思ってます。
そして、気持ちがわかるようになって、体もでかくなりました。最初80kgだったのが、今は92kgですからね。去年は85kgでやってたんですが、今年は重いものを持てるようになってきて、体重が増えました。
我慢しましたが、半年というとあと2週間ですね。ですから復帰は、鹿児島合宿前の予定です。最後に先生に見てもらって、OKをもらって、それからが始まりです。
◆やればできる
—— では今年の目標は?
今年?今年ですか?もう終わっちゃいますよ(笑)。
—— もとい、今期の目標は?
とりあえず今の体を試してみたいんです。初めての大きさですから。この体がどれだけ機能するのか?バランスが取れているのか?やってみるまでわかりません。いい調子だったら、このままどんどんやっていくし、調子がおかしいと思ったら、練習やりつつもしっかりバランスをとって体を鍛えていきたいですし。
体が大きくなって、「やればできる、やってねぇだけじゃん(笑)」と気がつきました。遅いですね(笑)。社会人になってから、そんなことに気がつくなんて(笑)。会社の方も理解してくれて、病院へ行くことなんかも、とても理解を示してくれて、感謝しています。
—— 言い残したことはないですか?
アタックについて付け加えて欲しいです。アタックを考えるようになったのも、去年エディさんがサントリーに来ていたときに、練習で教えてもらいました。当たり方なんですが、ゲームで使える当たり方を教えてもらって、実際やってみたら相手がタックルできないんですね。
練習の後に、林さん(仰)、せっさん(瀬川貴久)、東野さん(憲照)、元さん(申騎 )、尾崎さん(章)、康太さん(上村)なんかとやってみたんですが、 ボーンとやったら空いてスッと抜けるんです。「あっ!これすごい、練習で使ってみよう」と思って、すぐに練習で使ってみたら、できちゃうんですよ。「これ、面白いな」と思いました。
実はトモ(ブレント・トンプソン)が手の使い方がすごく上手くて、すごく尊敬してるんです。だからトモのことはずっと見ていて、タイミングなんですけど、ステップ踏んで、遅そうな走り方なんですけど実際は速くて、70%ぐらいで手を抜いてやっているように見えて、ボールを持ち替えたりしながら、抜いていくんです。その域まではまだ行かないんですが、それがその時できたことが、僕にはとても良かったんです。
それから軽い怪我して1週間後にやってみたら、ぜんぜんダメでした。だからその時は、タイミングも含めて良かったんだと思うんですが、今年はまだ使ってないんです。だからやってみたいですし、ガツガツした練習をやりたいですね、もちろん試合にも出たいし、試合でもやりたいですね。
(インタビュー&構成:針谷和昌)