2006年11月16日
#57 野村 直矢 『周りを使った時が快感』
◆サッカーをずっとやってた
—— 埼玉県のどちらの出身ですか?
生まれたのは埼玉なんですが、幼稚園ぐらいですぐ親の実家の群馬県に移りました。埼玉との県境のぎりぎりのところなので、小学校、中学校は埼玉に通いました。実家は群馬県太田市です。
—— それじゃあ、こないだサテライトリーグで行った三洋電機グラウンドがあるところですね
はい、でもあのグラウンドからは結構距離があります。
—— 新人でトップリーグ開幕戦、スタメンで出ましたね
試合に出られるのは嬉しかったです。
—— キックもまかされていましたね
タッチキックですね、得意です。、サッカーをずっとやってたので、ラグビーを始めた時からキックは得意でした。毎日ボールを蹴ってたんです。
—— サッカーはいつからいつまで?
小学校4年(深谷の明戸小)から中学1年(明戸中)までです。中学にはサッカー部がなくて、小学校の時にクラブチームで一緒にサッカーをやっていた仲間たちは、みんなラグビー部に入るんです。ラグビーが強い学校でしたから。中学では体育会の部活に必ず所属しなくちゃいけないので、僕は野球部に所属してました。
野球部は監督もいないような、ちゃんと練習をやっていない部で、座ったりダラダラしたりしていました。その横でラグビー部が毎日練習してるんですが、それを見ていると毎日ガチガチに激しく練習していて、実際、関東大会とか東日本大会とかで必ずベスト4に入るチームで、埼玉ではぶっちぎりで勝つチームでした。
それを見ていて、強いチームでやってみたい、という気持ちもありました。そして親父が三洋電機に勤めていて、小さい頃から秩父宮での三洋電機の試合を、一緒に応援に行っていました。ラトゥさん(※)とかが出てる時代です。そういう子供時代があるので、ラグビーに馴染みはあったんです。
※ラトゥ:シナリ・ラトゥ
(Sinari Rato/1965年生まれ/元ラグビー トンガ代表・日本代表)
◆お父さんがラグビーを好きだった
—— でもサッカーをやってたんですよね
野球部に入って、隣のラグビーの練習を見ながら、クラブチームでサッカーをやっていました。サッカーが好きだったんで、当時はサッカーしかないとしか思えませんでした。ずっとサッカーをやっていくんだという気持ちしかなかったんです。
—— 10歳の年にJリーグができたんですね
ヴェルディ(東京/当時川崎)が好きでした。北澤(豪)さん、ラモス(瑠偉)さん、カズ(三浦知良)さんとか、マリノス(横浜F/当時横浜)の井原(正巳)さんとか.....でも、どっちかと言うと"する"方が好きなんです。小さい頃、学校が終わったらテレビゲームとかやらないで、ボールを持って毎日外に出て、ボールを蹴ってた子どもでした。
—— サッカーでのポジションは?
ミッドフィルダーです。とにかく運動は子供の頃から得意でした。勉強はできなかったですけど。
—— それがラグビーに変わったきっかけは?
きっかけは、お父さんがラグビーを好きだった、というのがあります。野球部を辞めて、2年生の時に転部しました。部に入ったらその1年間は部を変えることができない規則だったんです。だから1年生の時は部活ではいつもフラフラしたり、遊んだり、隣でやってたラグビーを、あーやってるな、って見てるくらいでした。
お父さんは野球部に入った時には、毎日ため息をついてました(笑)。何部入ったんだ?と聞いて、野球だと言った時から、ため息をついてました。
—— 簡単にサッカーへの気持ちは断ち切れたんですか?
最初はありましたけど、ラグビーにどんどんハマっちゃって、ラグビーを始めて少し経ったら、もうラグビーのことしか、って感じでした。周りの選手を活かす、速い長いパスとか面白いっすね。サッカーでもそうでしたけど。
—— じゃあ、お父さん嬉しかったでしょうね
僕が出ても出なくても、それ以来、高校の試合も法政の試合もサントリーの試合も見に来ます。
—— ちゃんとこのあいだの試合は三洋電機でなくてサントリーを応援してくれてましたか?
サントリーを応援してました(笑)。
◆中学、高校でスタンドオフ
—— 中学時代のポジションは?
スタンドオフです。埼玉県では1回も負けたことないチームで、関東3位、東日本も3位でした。3年生から試合に出ていました。中学も結構毎日練習がしんどくて、先生も恐くて、悪いプレーをしたら頭ボーンと殴られてました。一緒にやっていた仲間4人一緒に、高校のラグビー部にも入りましたが、今でもやっているのは僕だけです。
—— 高校でのポジションは?
高校もスタンドオフです。高校では2年から試合に出ていました。1年の時はリザーブだったんですが、花園で準優勝しました。2年の春の選抜で優勝して、花園はベスト4、3年の時は春はベスト4で、花園はベスト16でした。3年の時は副キャプテンでした。
—— 高校での思い出は?
練習っすね。1年間に60何泊90何日、合宿でした。私立でしたので土日休みの週休2日でしたが、金曜日には荷物を持って学校へ行って、ラグビー部だけの寮で合宿しました。練習は陸上部みたいな感じでした。
朝5時15分か20分に起きて、5時30分に練習がスタート、朝から6km走って朝飯、午前練習して午後練習して、夜メシ食った後、体育館で器械体操。マットで開脚前転とかをやってました。得意でなかったし、僕は体が硬いんです。
きつかったですね。辞めていく人も結構いましたが、スポーツ推薦で入った人は、そんなに辞めなかったですね。1学年20人ぐらいいて、辞めたのは3~4人ですかね。高校は篠塚(公史)と一緒です。
—— どうでした?高校時代の篠塚選手は
ただデカイだけ、入って来た時、もう190cmありました。デカくてボーッとしている静かなやつだなぁこいつ、と思いました。
◆大学ではセンター
—— そして法政大学へ
上下関係がない大学で、試合も見たことがあったんですが、バックスが凄くいいチームだなぁと思って入りました。入ったら思った通りのチームでした。ポジションはセンターでした。
—— どんなきっかけでセンターに?
ずっとスタンドオフでリザーブだったんですが、ある試合でメンバー表を見たら、急にセンターに名前が書いてあって、練習してないのにと思ってビックリでした。そこからずっとセンターをやりました。
センターは最初、1年の時はぜんぜんダメでした。やっと2、3年ぐらいから慣れてきたかな。センターでもインサイドセンターしかやりません。スタンドオフみたいに、インサイドセンターも周りのことを上手く使えるんだなぁと思い始めて、スタンドオフをやりたいという気持ちも少しはあったけど、チームのためだったらそこまでのこだわりはありませんでした。
大学ではぜんぶベスト4でした。個人的には3年、4年の時には活躍できたと思います。
—— 大学で最も印象深いのは?
3年生の時に、リーグ戦で優勝したことですかね。関学(関東学院)とやって、全勝対決で勝って、でも準決勝でまた当たって、その時3点差で負けたんです。先にリーグ戦で負けて、準決で勝った方が良かったでしょう?最後に負けたらリベンジできないし、僕らがリベンジされて負けた形ですから。4年の時にまた、そのリベンジも果たせませんでした。
—— 大学の時にU-21と日本A代表になっていますね
4年の春に初めて、急に代表のセレクションに呼ばれて、A代表かB代表かを決める選考だったんですが、社会人と初めてプレーできるので、どれくらい学生と差があるんだろうと思ってワクワクして行ったんです。
そのセレクションマッチで思うように動けて、結構活躍できて、社会人でも頑張れるなと思いました。それで、A、B、学生代表、ぜんぶの試合に出るはずだったんですが、法政も春で練習があって、代表の練習とで2部練みたいにやったりして、法政が休みの時に合宿へ行ったりするハードスケジュールだったので、疲労で骨膜炎になっちゃったんです。
痛くてひどくなってきて、ぜんぶやりたかったけども、法政の監督から戻って来てくれとも言われて、結局ぜんぶ出るのは諦めて、A代表で1試合途中から出ただけでした。NZU(ニュージーランド学生代表)との対戦で、去年のことです。
その後、1か月半ぐらい休みました。夏前の4、5月ぐらいでした。ラグビー人生初めての怪我でした。あっ!違う!それ以前に怪我してました。
◆目が覚めたらICU
—— それはいつですか?
大学2年の時に、試合中に腕を伸ばしてボールを取りに行ったと同時に、お腹にタックルで入られて、ちょっと苦しいなとは思ったんですが、いつも通りにプレーを続けてました。そのプレーで膝の内側(靭帯)をやっちゃって、交替させられました。
膝の病院へ救急車で向かっている途中で、お腹が膨らんできたんです。パンパンになってきたんですけど、屁がたまってんだと思って、お腹を押してたんです。そしたら病院へ着く前に貧血で倒れちゃって、でも意識は少しあって、CT(コンピューター断層撮影)で検査されている時に周りが騒がしくなってきて、病院内の人たちがたくさん集まって来て、何人もの先生たちが集まって画面を見ているんです。
そこからまた救急車で別のデカイ病院に運ばれて、何が起きたんだ?と思っていたんですが、今すぐ手術が必要だということで、当時僕はまだ19歳で、あと何週間かで20歳になるとこだったんですけど、未成年だということで自分のサインだけじゃ手術できなくて、親のサインが必要だということになったけど、遠いのでそんなにすぐには来れなくて、結局、監督がサインをしてくれて手術したんです。
目が覚めたらICU(集中治療室)に入っていて、固定されていて首すらまったく動かせない状態でした。お腹が痛くて、その時初めて聞いたんですが、脾臓が破裂していたんだそうです。パンパンになったお腹には、血が1.5リットル溜まっていて、血圧がすごく低かったそうです。
1か月してから動けるようになって、リハビリして、シーズン中だったので2か月ちょっとで大学選手権の試合に出て、最初はすごいビビってました。最初の試合はビビってビビって、復帰戦の出来はダメでしたね。
2試合目に秩父宮で早稲田とやることになって、気合いが入って1トライ差ぐらいで負けたんですが、勝つことしか考えてなかったんで、その試合がきっかけでもうビビらなくなりました。後遺症もなんともないです。
◆お腹を縦に切った
—— いや、かなり危なかったですね
お腹を縦に切ったんですけど、スポーツ選手は縦に切ったら選手生命は終わり、なんて言われてましたが、シーズン中なので早く戻りたいとしか思わなかったんです。2年生になって、やっと完璧にレギュラーとして固定されてきたって感じでしたので、1年生でガムシャラに頑張ってきて、2年で最初から使ってもらうようになっていた途中だったので、とにかく戻りたいとしか思いませんでした。
でも腸とか胃とかぜんぶ出して洗って、それをまたぜんぶ入れて縫った訳です。ご飯を食べれるようになって、ご飯を食べたら腸が動くんです、ものすごく。それが痛くて、食べたら1時間は横にならないとダメでした。それが1か月ぐらい続きました。動くのは腸が元の位置に戻ろうとして動くんです。
ちゃんとメシ食えるようになるのかな?とも思いましたし、あの時、膝を怪我しないでそのまま試合に出ていたら、危なかったらしいですね。とにかく手術が終わってからの方が悲惨でした。もういい、って感じです。
—— サントリーへ入ったのは?
サントリーには誘ってもらってましたし、今まではずっとラグビーのことしか考えなかったけれど、これからは仕事もラグビー終わったらしてかなきゃいけないと思い、サントリーにしました。
同期も凄いメンバーが入るし、清宮さんが監督やるのもわかってたんで、清宮さんの指導のもとで、同期の凄いメンバーと一緒にプレーしたい、と思いました。
—— それがかなった今、どうですか?
面白いです。毎日が勉強です。ラグビーの知識がないので、毎日勉強してます。
◆フルバックは初めて
—— 開幕戦、第2戦と続けてフルバックで先発、フル出場しました
フルバックは初めてでした。特に言われてなかったですし、網走合宿で剛(有賀)が怪我した時に、「フルバックをやったことあるのか?」と1回監督に聞かれて「ありません」と答えただけです(笑)。
合宿の最終戦、三洋電機との試合で、リザーブで後半から出る筈だったんですが、栗原(徹)さんも痛めたみたいで、「フルバックで入れ」と言われました。ポジショニングがぜんぜん分からないし、テンパってました。練習試合なので、後ろに清宮さん、マットさん(林雅人コーチングコーディネーター)、エル(アラマ・イエレミア バックスコーチ)がいたので、どこに立てばいいのか聞きながらやってました。
—— そういう時は誰が答えてくれるんですか?
マットさんが答えて、指示してくれました。
—— そうやってみて初フルバック、どうでした?
ぜんぜんダメでした。ポジショニングが分からないんで、いろんなとこへ動いちゃうんです。あっちかな、こっちかな、を繰り返して行ったり来たりして、すごく疲れるんです。要領が分からないんですね。とにかく「疲れたなぁ」という印象でした。
—— それから慣れましたか?
慣れてはいません。開幕の神戸戦、僕は自分で抜くとかでなく、外の選手を上手く使えるプレーは少しはできたかなぁと思います。2試合目は負けたヤマハ戦ですが、ディフェンスの時のポジショニングが分からなくて、外国人選手や大田尾さん(竜彦)にオープンキックを蹴られて、上手く処理できませんでした。ディフェンスのポジショニングが難しいんです。
—— 今後もう一度フルバックで出る、という可能性は?
今後やりそうな感じは、絶対にないっす(笑)。自分の中ではないっすね、困っちゃいますよ、ポジショニングが...。
◆セコム戦はスタンドオフ
—— その後の2試合はセンターでした
センターで出て、周りを上手く使えるシーンもあったりしたけど、コンタクトで負けてるところがあったので、そういうところがこれからの課題です。それにはウエイトももちろん、慣れることも大事だと思います。
—— 第5戦のセコム戦はスタンドオフでした
悪くなかったと思います。途中出場でしたから、そのくらいの時間になったら、みんなイケイケの状態になります。ボールを動かして点を取るというよりも、1対1でいく時間帯に入っていたので、面白かったですね。
—— その後の2試合には出てません、怪我ですね
セコムの試合で膝の内側を怪我しました。その日は問題なくできたんですが、次の日に足が回らなくなりました。でも先週から復帰して、サテライト第2戦の三洋電機戦に出ることができました。この試合は良かったと思います。膝の怪我はキックに影響ありませんが、ガチガチにテーピングしているので、キックが蹴りづらかったり走りづらかったりというのはあります。
—— そうすると今後の目標はAチーム復帰ですね
後半のスタメン復帰が目標です。11月はBチームの試合が多いので、そういうBチームの試合で毎試合毎試合、大事に結果を残して、メンバーに残って、Aチームの試合に出たいと思います。
◆ボールが頭から落ちていく時は飛んでます
—— 遠い目標はありますか?
自分の母校でラグビーを教えたいと思います。高校の時から将来戻って来て母校で教えたいなと思ってました。
—— そのために教職を取ったとか?
教職を取ってたら、卒業できてません(笑)。教職を履修する余裕がありませんでした。ですから、できたらいいなぁ、というぐらいの夢です。
—— 日本代表は?
僕としては、日本代表はまだまだ、夢のまた夢ですね。サントリーで試合に出ることが先で、まだまだまったく考えたことありません。サントリーで試合に出たいとしか、考えたことないですね。
—— 野村選手のちょっとうつむき加減でキックする姿が印象的です。蹴る時、何を考えてますか?
蹴る時はとくに考えてません。ボールから目を離さないことと、思いっきりバーンと蹴るのではなく、ボールに当てる時だけのインパクトを大事にしています。振りかぶって思いっきりバーン、でなくて、軽くポーンと蹴る感じです。ラグビーボールを蹴り始めた時から、周りより飛んでいたとは思います。
—— スクリューパスのようにキックしたボールも回転して飛んで行きますね
蹴ったボールがそのままのバランスで飛んで行って、お尻から落ちる時は飛びません。ボールが弧を描くように飛んでいって、頭から落ちていく時は飛んでます。どうやって蹴ったらそうなるか、意識してませんが(笑)。
—— そのキックと、人を使った時、どちらが楽しいですか?
周りを上手く使った時の方が、快感です。それがいちばん、いいっす。
(インタビュー&構成:針谷和昌)