2006年11月14日
#56 伊藤 俊平 『母は僕以上に悔しかった』
◆5歳からラグビー
—— 秋田出身、高校まで秋田ですか?
はい、高校は男鹿工業高校です。秋田市から1時間以上かけて、電車で通っていました。僕が入った当時は、秋田ではラグビーのNo.2でした。秋田工業高校がいちばん有名な高校で、男鹿工業に入るときにはいろいろありました。その話を説明するには、まず僕は5歳からラグビーをやってるんです。
—— サンゴリアスの中でも最年少スタートを競いますね
たぶん慎さん(長谷川)がもっと早くて、3歳からじゃなかったかと思います。
※長谷川慎選手に聞く
「僕は4歳からです。京都ラグビースクール。今年創立40周年だそうです」
—— で、そのいろいろあったというのは?
5歳からラグビーをずっとやっていて、秋田の中で唯一ブランドだったのが、秋田工業だったんです。秋田工業を目指して、小さいころから憧れていて、どうしても入りたかったんです。でも秋田工業の監督から「いらない」と言われました。僕の中学のときのレベルが秋田工業の基準に達していなかったんだと思います。そう言われて悔しくて「秋田工業を倒して花園へ」がそれからの夢になりました。
—— その夢は達成しましたか?
1回だけ、3年の夏の大会で倒しました。が、花園へは行けませんでした。
◆母親が大のラグビー好き
—— 5歳から始めたきっかけは?
母親が大のラグビー好きなんです。僕はお父さんがいなくて、母と祖母との3人家族です。3歳ぐらいまで父とも一緒に暮らしていましたが、その後離婚したそうです。それからは、父には地元へ帰ると会ったりもしてましたが、今年の5月に亡くなってしまいました。父はラグビーとまったく関係なく、母親がラグビーが好きで、息子ができたらラグビーをやらせたいと思っていたそうです。
—— 入ったのはラグビースクールですか?
はい、秋田エコーラグビースクールです。週に1回、必ずスクールへ行ってました。最初は連れて行かれている感じでしたが、小学生になってから試合も始まって、ラグビーが「あ、おもしろいな」と思いました。小学校ではラグビーと並行して野球を、中学ではラグビーと並行してサッカーをやってました。
小さいころから外で遊ぶのが大好きで、鬼ごっこなんかが好きでした。小さい頃のラグビーって、激しく当たることもなくて、逃げ回っている感じでした。それが気がついたら、ラグビーは生活の一部になっていて、母親もばあちゃんも全員の生活の一部になっていました。鬼ごっこでも上手く逃げるのが得意でしたし、昔から足は遅くはなかったですね。送り迎えは母がやってくれましたし、おばあちゃんもラグビーに対して文句を言わずに支えてくれました。
中学でサッカーを選んだのは、高校でラグビー1本に絞りたいと決めていたからなんです。野球をやっていてもラグビーには活かされないかな、と思ってサッカーを選んだんです。外でやる球技はみんな好きでしたし、小学校、中学校では運動会のリレーの選手にはもちろん選ばれていました。
—— 高校でラグビー1本に絞りたいと決めていたのは何故?
それは小学校から考えていました。いろいろスポーツをやりましたが、いちばん長く続いているのが何故かラグビーだったんです。いちばん面白いと思ったのがラグビーで、小学校のころから「社会人のラグビーをやろう!」と思ってたんです。
小学校のアルバムに将来の目標、ということで「ラグビー選手」と書いていたくらいです。当時憧れていたのがスクラムハーフの選手、秋田市役所にいた安藤選手で、下の名前は文明(ふみあき)さんです。僕は小学校でも中学校でもスクラムハーフだったんです。高校に入ったら何かよくわからないけどスタンドオフになったんですが、いまサントリーで誰も信用してくれないですよね、僕が高校3年間スタンドオフだったなんて。
◆花園へ行くよりいい出会い
—— そういう小中高時代で最も印象に残ることは?
高校のときですね。監督との出会いが大きかったと思います。内藤徳男先生、その人がいまトヨタにいる同期の内藤慎平(トヨタヴェルブリッツ/ウイング/早稲田大学卒)の親父なんですが、慎平とはスクールからずっと一緒にやっていて、そのお父さんの内藤先生に拾ってもらったようなもんでした。慎平は秋田高校という地元でいちばん頭のいい高校に行ったんですけど。
内藤先生は、練習中は恐かったですが、温かい先生でもありました。選手1人1人のことを思ってくれるし、高3のときに花園に行けるだろうと言われていて、これで逃したらしばらく行けないというくらいのいいメンバーがいて、夏の大会では秋田工業を倒したんです。そのときが凄い嬉しくて、3年間の中でいちばんの思い出です。
秋からの花園予選では、決勝で秋田工業に負けて花園へ行けなかったけど、花園へ行くよりいい出会いをして、人生が変わったと思うし、秋田工業に行ってたら、先生とは出会ってなかったと思うと、高校3年を終わって落ち込むこともなく、凄い良かったなと思えました。秋田に帰ったら必ず挨拶に行きますし、お酒も飲みます。
—— そして大学は日本体育大学ですね
内藤先生に大学に行ってラグビーをプレーしたいと話しましたが、大学からそんなに声が掛かってなかったんで、お願いしてもらっていろんな大学を探してくれました。 親からは大学に行かせるから4年間で卒業しろ、と言われていました。
対抗戦でやりたいという思いがあって、明治大学が大好きだったんで行きたいなと思ってましたが、4年間で卒業できるかな?と思って日体大を選びました(笑)。
入学して1年生の夏合宿で、当時の4年の先輩に「お前、ウイングやってみろ」と言われて、ウイングがメインでウイングとフルバックをやりました。それで紅白戦をやって、トライしました。外のプレーヤーの方が、絶対自分ではむいているなと思っていたので、凄く良いことを言ってくれたとその先輩には感謝してます。
ずっと「人を抜く」というのが得意なプレーだったんです。スタンドオフなのに、5トライ、6トライしちゃう試合もあったので、絶対に外のプレーの方が自分にはむいていると思ってました。
◆公開処刑
—— 試合にはいつから出てましたか?
1年のときは、最初はリザーブにちょこちょこ入るくらいでした。2年生の時にレギュラーになりまして、3年のときは怪我をしてしまい、1年間ラグビーをしてません。明治戦の試合中に膝を怪我してしまいました。4年のときは最後の方にちょこちょこ出たくらいでした。
—— とくに印象に残っていることは?
試合としては2年のときの早稲田戦です。監督は清宮さん、キャプテンは大悟さん(山下)で、公開処刑でした(笑)。ボコボコにされたということです。結果的に僕はその試合で2トライしているし、ディフェンス面でも相手のウイングは1歩も走れていませんでした。とても有意義な気持ちというか、最高だぜという気持ちでした。清宮さんが覚えてるかどうかわかりませんが。
内藤慎平(当時フルバック)とその兄さんの晴児(当時センター/東京ガス)が出ていましたが、内藤先生が試合を見に来ていました。「これは負ける訳にはいかない、あの2人には負けない」と思い、やってやりました。ラグビー人生で何の試合がいちばん思い出としてありますか?と聞かれたら、この試合を挙げます。
—— それだけできた原因は先生の言葉ですか?
当日のアップのときに、内藤先生に「お前、わかってんだろうな」と言われました。息子の応援に来てたのかも知れませんが、試合が始まる前にパッとみえて、目が合って、呼ばれて「お前、今日はわかってんだろうな」と言われて、今日はやるしかないな、と。
サントリーのOBの尾関さん(弘樹)も、日体大のOBで大学2年からコーチに来て下さって、知り合いになりました。選手時代、ウイングで大活躍された超有名人で、3年のときにヘッドコーチ(監督)に就任して、その縁もあってサントリーに入ったということもあります。その出会いも大きいですね。
大学時代は尾関さんに、ウイングについていろいろ教えてもらいました。3、4年生では怪我してたんですが、感謝しています。その出会いがなかったら、サントリーにもいなかったと思います。
僕は練習態度で損をしてると思います。ちゃんとやってるのに、小学生のときから顔が「何だよ」と言わせる顔をしているらしくて、「何だよ」って言われてもこっちは真面目にやってるし、まぁ怒られキャラなんですね。高校のときはキャプテンがいるのに、キャプテン以上に叩かれましたから。
尾関さんには、僕がラグビーに対してどこか甘い部分があったところを、ガツンと言われました。それで「これじゃダメだな」と思って、前からラグビーは大好きでしたが、それからラグビーに対する気持ちが変わりました。
不満があって言いに行ったんですが、凄い経験がある人にガツンと言い返されて、何を言われたかはもう覚えていないんですが、自分の考えが凄く甘かったなと思いました。
◆夢が叶った
—— どこが変わったんでしょう?
練習は常に100%でやろうと心掛けてますし、損するんでそうは見えてないと思いますが(笑)、100%やっています。やっていないとついていけないと思ってます。サントリーは凄い選手ばかりなんで。
—— 今年サントリー2年目ですね
1年目入ったときは、社会人でプレーすることに慣れようとして、体作りもしましたし、試合にも3試合も出してもらえると思ってなかったので、去年は充実してましたし、必死でした。
慣れよう、慣れようとしてましたが、ラグビー自体も違って奥が深く、今年もミーティングを何回もするし、プレー面でもコンタクトが大学とは全然違います。
デビュー戦は昨年、仙台でのセコム戦でした。子供の頃からの「社会人でラグビーをする」という夢が叶ったな、本当に思いました。仙台だったので、秋田から大応援団も来てくれて、お母さんやおばあちゃんももちろん来てくれました。
母親は結構僕が出る出ないにかかわらず、大学時代から試合を見に来ています。ラグビーがとにかく好きで、秋田県ラグビー協会の役員というかお手伝いをしています。
母親は秋田県のラグビーの試合のウグイス嬢なんです。伊藤啓子、47歳ですが、高校3年間の試合のすべてのアナウンスをやってますんで、僕の名前も何回もアナウンスしましたし、花園予選で僕らが負けて秋田工業が優勝したことに対しては、僕以上に悔しかったんじゃないでしょうか。間近に見ていて、それを言わなきゃいけなかったんですから。
◆ウグイス嬢
—— 母親がアナウンスしていて照れるとか恥ずかしいとかは?
恥ずかしいと思ったことは一度もないです。ミニ国体が秋田であって、オール秋田に入れなかったことへの悔しさ、オール秋田としての僕の名前を呼ばせてあげられなかったという悔しさもあります。秋田でラグビーをやってる人で、僕の母を知らない人はいません。
—— トップリーグでサントリーが秋田で試合やったらウグイス嬢ですね
秋田でサントリーが試合をしたら、僕の名前を呼ぶ、というのがウチの親の夢なんじゃないですか。
—— サントリーの2年目はどうですか?
1年目は僕としては満足はしてませんが、ある程度は出せたと思っています。まだまだですけど充実した1年ではありました。今年は先週(10月第2週)末の練習で、前十字靭帯を切ってしまいました。1か月経ってダメだったら、その後でオペ(手術)ということもあり得ます。とにかく今は怪我を治すことです。
—— 仕事は営業ですか
はい、会社は赤坂で、大田区と品川区を担当して、一般酒販店を回っています。担当のお店に顔を出したときに、ラグビーが好きな人がいて、「サントリー強いね」という話をされると、頑張ろうと思うし嬉しいですね。
—— 今後の目標は?
日本一。今のチームだったら、絶対にできると思います。優勝経験はあまりないので、怪我を治してチームに参加したいですね。
(インタビュー&構成:針谷和昌)